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みんな違ってみんないいは幻想なのか

わかってはいた事だが、自公維圧勝。やはりこの国の多数派は現政権と運命を共にしたいらしい。それが良い事なのか悪い事なのかはそれぞれの立場で違うだろうし、今後明らかになっていくと思う。

未だに悪夢の民主党時代がとか、政治の事はよくわからないけど自分達の生活はそこそこ安定してるから現状維持したいという人たちがいる。自分たちの生活が苦しいのは社会のお荷物になる様な人間が多いからだという考えを持っている人たちや、生産性のない人間は排除しろ、または改憲して闘える国家に!という思想の人たちがいる。それらはその人たちにとっては正義かもしれないが、そうではない人たちまで巻き込んでしまうのが多数決制度の脆弱性だと思う。



思想の違う人たち同士が議論することはタブー視されるが、それは社会全体に価値観が違う者同士が安心して議論する場が与えられていないこと。価値観が違う=もう理解には値しない敵、とみなすこと。価値観はそのまま自分が生きてきた術だから。

価値観が違うとそれまでの関係性が壊れてしまい悲しい、だから信条、政治の話が出来ない。。。本来なら相互理解、相互承認のプロセスが大切なのだが、"私はこう思う、あなたはそう思う、でもこんな風にも考えられるよね…"と対話することが出来なくて、自分の思いをきちんと言語化する前に傷付く経験をしたのかもしれない。

子どもの頃から自分が意見を出す事で周りから否定されず聴いてもらえた、失敗した事が事があっても怒鳴られたりせずフォローしてもらえたという様な、"自分は大切にされているんだ"という経験をして来た人たちと、反対に大人たちから様々なルールを押し付けられ、自分の意見を大切にされなかった人たち同士が議論すると、同じ言葉や概念でも全く同じ土俵にない事がある。そうすると対話に齟齬が生まれ、ダイアローグ(双方向の対話)ではなく、モノローグ(独白)になる。

だからこそ幼い頃から対話する機会を儲ける事が大切だし、改めて言葉や概念の定義付けをすることで対話の土俵を整え、膝を突き合わせてのリアルの対話が大切なんだと思う。だけど、自分たちにとって心地良い仲間といる事、秩序が保たれ'みんな前へ倣え'という閉鎖的な空間で生きていると、ちょっとした摩擦すら許容出来なくなり、異質なものを排除しようとする。これ、何処かで聞いたことあるなあぁ、学校だ。

こんな事を書いていると、みんな違ってみんないい。失敗してもいい、ありのままでいいよ、が幻想なのだと思い知る。大人たちがそうなのだから、子どもたちにそれを伝える事なんて出来るわけもなく。本当の意味で、みんな違っていいと言える空間には大人たちの相当な覚悟が必要なんだろう。違う価値観を受け止め、自分の価値観を疑うことは、自分の人生を揺るがすからだ。

これまで色んな人たちを切り捨てて来た社会が、胸を張って子どもたちに"ありのままでいい"と言える成熟した社会が構築されるには、大人たちが自らの傷付き体験を乗り越え、保身を捨て、なりふり構わず目の前の人たちや自分自身に"ありのままでいいよ"と思えるかどうかにかかっている気がする。

最近、子どもを真ん中に、という言葉が流行りで、ホンマかいなと疑いたくなる話も聞いたりするが、本当に子どもたちの意見を大切にしたくて奔走している人たちがいる。私はその内の1人だと自称しているが、子どもたちの声を聴き、言語化し、社会制度に反映する為に活動している。そのプロジェクトが"コドモノコエプロジェクト''であり、子どもアドボカシーセンターの設立だ。やっと走り出した所だが、私は一市民として、志同じ仲間たちと一緒にありのままでいられる社会の実現を目指したい。例えそれが100年かかったとしても、その一歩を着実なものにしたい。

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