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さくらんぼの軌道

アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所に追慕のため足を運び、ガスの在り場だった空間を意識すると、実際に彼の息が詰まるという不思議があります。私はここを訪れたことはありませんが、似た説話はいくらでもあります。空間の魔力、ひいては建造物の魔力と呼べるもの。たとえば当該施設の場所が何者かによって南東に平行にずらされていたとして、観光客が施設の北西の方で息苦しさを覚えるようなことがあれば、いよいよ◯◯の立証です。

梅雨のわりには降水が虚弱、代わりに降るものはなんでしょう、などと思っていましたら、爆増の雨量。理想に妥協しない癖を大事にし続けたいです。

昨日、寄り添ったまま揺籃にくるまれた死後の双子の写真を見てきました。目を開いてありました。フェルメール的な薄明かりのもとで生者よりも淡くぱっちりと。ぼうっとしている人を「一点を見つめている」と形容することがありますが、あれでした。永い時間をかけて、絶え間なくあれでした。あれは死亡に近いのだと思います。縁側でそうあるように、老成していくとあれが活動時間を侵食していくのだと思います。しかし殯において死者が開眼しているというのはなんとも末恐ろしそうです。たとえ閾下の刺激だとしても。

アスレチックの片隅で
春の装いする親子
またそれぞれの発見期
扇子のように旋毛から、ひらきます

小癪・小癪と唱えていると、磨かれていくものもあり、小癪が中に取り込まれ、ウイルスのよう・ウイルスのよう、宿主としての男の子、寄生はされているけれど、それは紛れもなく彼の、別姓であり、人格であり、もう疎まれる心配もなく、蔑称もなく、花々の禍に飛び込んで、好きを収集するのです。

日曜の昼下がりにもお前は、三階の最西の教室で椅子を引き、浅く座り、柔い腕を木机にたわませるように組んでいた。そうして架空の手のひらで雨のイメージを握っては離していた。お前は餓死からもっとも遠く、十年経った今も飯櫃の手製弁当を食べてあそこに存えているとしか思えない。

さくらんぼの軌道が示す原理からの外れ方に倣う



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