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ニュータウンでの思い出 - 小学校

小学生の頃の思い出として記憶に残っているのは二つくらいだ。

一つは、給食を時間内に食べきれなくて、教室に残されて食べさせられたこと。
給食のあとは、大放課(愛知県周辺の言葉で、授業と授業の間にある休み時間、短い休憩は小放課・長い休憩は大放課と言った)でクラスメートは運動場へ行って、ドッジボールやらサッカーなどして遊んでいた。

小学生の頃から、身体は小さい方ではなく、背の順でも大体後ろから数えたほうが早かった。
しかし、給食を食べるのは遅かった。給食の時間は確か、配膳の時間も合わせて45分くらいだったと思う。なので、食べる時間は実質30分くらいはあったのだが、食べきれないことが多かった。
家では食べ慣れていない物が多かったというのもあったと思うし、食事に制限時間があるという概念がなかった。

まず、牛乳が飲めなかった。家では牛乳をそのまま飲むということがなかった。なので、給食で何が嫌かって牛乳がいちばん嫌だった。
しかし、牛乳を残すことは許されなかった。時には、先生が牛乳瓶を持って無理矢理にでも飲ませようとした。軽いトラウマだ。
そして、食パン。大体バターやジャムなどがついてくるのだが、ぼくはマーマレードが苦手だった。それに、家ではトーストは食べていたが、食パンを焼かずに食べることはなかった。特にパンの耳が嫌いだった。なのでよくパンの耳だけを給食袋(箸やコップ、ランチョンマット?を持参する時の袋)の中に隠して持って帰っていた。

高学年になると、さすがに全部食べ切れるようになったが、低学年の頃は給食の時間はとても嫌な時間だった。
この記憶が、ひょっとしたら20代の頃の会食恐怖に影響していたのかもしれない。

そしてもう一つの記憶は、教師から受けた身体的・精神的体罰。
あの頃は、生徒を引っ叩くなんてのは当たり前の時代。片田舎の地方公務員の教師に道徳心なんかなかった。

先に書いた、給食の牛乳を無理矢理飲ませる先生だってそうだ。見た感じの良い生徒には「○○君」と呼び、気に入らない生徒は苗字を呼び捨て。あからさまなエコ贔屓は当たり前だった。

ぼくは子どもの頃から持久力がなかった。ペース配分というものがわからなかったのだが、最初っから飛ばすほど馬鹿ではなかったので、ほどほどのペースで走っていいても、やはりバテるのは早かった。校庭を走っていても、いつも周回遅れ。
授業を真面目に受ける生徒でなかったのは確かだが、別にわざとチンタラ走っていたわけではないのに、「やる気がない!」と怒鳴られることなんてしょっちゅうだった。

竹馬にも乗れなかったし、バスケットボールもドリブルシュートなんて手と足のタイミングの合わせ方がわからず失敗ばかり。縄跳びの二重跳びなんてできた試しがないし、組体操ではバランスがうまく取れない。ピラミッドでは決まって一番下なので、小石がごろつく運動場で両手のひらと膝が痛くて、一番上が登り切るまで我慢できずに崩れてしまう。

こういう生徒は、大体教師からは嫌われる。別に悪ぶってわざとやってるわけじゃない。自分では真面目に取り組んでいるつもりでも、そうは見てくれない。だんだんと、どうでもいい生徒の方に分類されてしまう。

そして、集合に遅れたとか、話しをちゃんと聞いていなかったと言って、容赦無くビンタが飛んできた。一発ならまだいい方だった。往復ビンタの4連発5連発なんてのもあった。
それでもあの当時は、教師も親も生徒もそれが暴力だという認識がなかった。だからぼくたち落ちこぼれは、やられ放題だった。

そんな教師でも、10数年後には教頭や校長になったり、教育委員会の偉いさんになっていたりする。自分たちが好き放題体罰をしていたことを棚に上げて、体罰はダメだなんて平教員たちに言っているのだろうか?

第二次ベビーブームの頂点の世代で、巨大ニュータウンにある小学校。地区に小学校が3校あったが、それでも1クラス40人の6クラス。全学年合わせれば1,000人の子どもが通っていた小学校。まあ、教師の苦労も分からないでもないが、いい時代とは言えない。

そんな学校も、今では少子化とニュータウンの高齢化で、3校あった小学校が統廃合され1校になってしまった。
ぼくが通っていた小学校も建物は残っているが、今は多世代交流施設とやらになって図書館として利用されているそうだ。

今となっては、小学生時代の友だちもいないし、引っ越してきてしまったから、行く機会もない。ただ、いい思い出もない、なんでもない場所になってしまっている。

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