見出し画像

尾形光琳《燕子花図屛風》

東京・表参道にある根津美術館には、年に1回、4月半ばからの約1ヶ月間だけ見られる作品がある。
17世紀に生きた絵師・尾形光琳の代表作・《燕子花図屏風》である。
金地に、群青と緑の2色のみで燕子花の群生を描き出したシンプルな画面は、目を楽しませる美しさと遊び心とを兼ね備え、その斬新なデザイン感覚には目を見はらされる。
美術館の庭園に咲く本物の燕子花と見比べてみるのも楽しい。
ところで、この作品は一体どのようにして生まれたのだろうか。
今回はその誕生の経緯を追ってみたい。



①ニートから、職業絵師へ 光琳30代の決断

尾形光琳は、1658年に京都の高級呉服商・雁金屋に次男として生まれた。
当時の雁金屋は、徳川家から輿入れした後水尾天皇の中宮・和子(後の東福門院)の用達の店として、絶頂期にあった。
*また、祖父も父も文化人であり、家には光悦の書や俵屋宗達の絵画などの芸術作品が数多くあった。
恵まれた環境の中、光琳は、書や絵画、さらには能楽と様々なジャンルの芸事に親しみ、のめり込んでいく。
いずれも一流の腕前を身につけるにいたったが、彼にとってそれらはあくまで趣味であり、仕事にするなど、当時は考えもしなかった。

しかし、気楽な日々はいつまでも続かなかった。
1678年に、最大の顧客・東福門院和子が亡くなったことで、雁金屋は衰退し始め、さらには1687年には父も亡くなる。
父からはかなりの遺産を相続したが、光琳は瞬く間に使い果たしてしまい、経済的困窮に陥る。
これまでの約30年間の人生において、光琳は次男と言う立場もあり、家業を手伝うことを含め、「働く」という経験が全くなかった。
しかし、厳しい現実に放り出された今、何らかの仕事を見つけ、働いて生計を立てるしかない。
だが、具体的にどのような手段で食べていくか。
彼が選んだのは、絵師の道だった。
絵は、これまでに夢中になって打ち込んできたものの一つであり、彼自身最も自分に向いていると自負していた。
また、東福門院和子が雁金屋に注文し、京の市中で大流行させた、斬新で大胆なデザインが特徴の「寛文小袖」や、その図柄を集めた見本帳は、アイディアのストックとして、彼の脳内に大量にインプットされていた。
能楽も、裕福な商家や公家など、顧客となりうる人々との社交ツールとなりえた。

人生最大のピンチにあたって、光琳は、文字通り自分の持っているもの全てを駆使して、絵師としての新たな一歩を踏み出したのである。

②名作〈燕子花図屏風〉誕生

光琳の努力は実を結んだ。
公家の名門・二条家に接近して、当主に気に入られることに成功。彼を通して、公家社会に更なる人脈も作ることができた。
その縁のおかげもあって、1701年、44歳の時には、朝廷から「法橋」の称号を賜った。
「法橋」は、特定の派閥に属さず、フリーで活動していた光琳に、絵師としての箔をつけてくれた。
そして、この出来事から間もない頃に描かれたとされるのが、〈燕子花図屏風〉を制である。

燕子花(杜若)は、5月~6月に咲く花で、古くから和歌にも詠まれてきた。
特に『伊勢物語』の第9段で、主人公が三河国八橋で、燕子花の群生を前に歌を詠む「八橋」のエピソードは有名で、それにちなんだ燕子花と橋のモチーフの組み合わせは、小袖や蒔絵などのデザインとしても、人気を集めていた。
光琳にとっても、「八橋(燕子花と橋)」のモチーフは幼い頃から工芸品などを通じて馴れ親しんできたものだった。
「法橋」となり、絵師として大きな一歩を踏み出したばかりの彼が、今の自分が持っている全てをぶつける対象として、「八橋」を選んだのは自然な流れだっただろう。

尾形光琳、<(国宝)燕子花図屛風>(右隻)、18世紀、
根津美術館(出典:Wikipedia)(パブリックドメイン)
尾形光琳、<(国宝)燕子花図屛風>(左隻)、18世紀、
根津美術館(出典:Wikipedia)(パブリックドメイン)

左右合わせて1000枚以上もの金箔を貼った画面には、人物は登場せず、燕子花の花のみが描かれている。
花は単純化され、満開、五分咲き、つぼみなど様々な表情が描き分けられている。
一部は型紙を使った技法で描かれたとも考えられている。まさに呉服屋で生まれ育った光琳ならではの発想だったと言えよう。
ジグザグに配置された花は、心地よいリズム感を生み出し、花の群生が画面外にも広がっているように感じさせる。

江戸時代の京の人々にとって、燕子花はかつて京で栄えた貴族文化を思い起こさせる存在だった。
そんな彼らにとって、〈燕子花図屏風〉は、まさに憧れてやまない雅な世界へと誘ってくれる装置となっただろう。

③その後

「法橋」の号を得てから4年後の1701年、光琳は、京で知り合った中村内蔵助を頼り、江戸に向かう。
同地では、複数の大名家と関係を深める一方、雪舟の水墨画を模写するなど、新たな刺激を受け、自らの表現を磨きあげていく。
晩年には京に戻り、いくつもの屏風大作を手掛けていくが、その中には〈燕子花図〉と同じテーマを扱った〈八橋図屏風〉(メトロポリタン美術館)もある。

尾形光琳、<八橋図屛風>、18世紀、
メトロポリタン美術館(パブリックドメイン)(出典:メトロポリタン美術館ホームページ)

〈八橋図屏風〉には、花だけではなく、「橋」も描かれている。橋は、天地を貫き、ジグザグと折れ曲がりながら、画面を分断する。
画面は、この橋の存在によって引き締まり、更なる空間の広がりをも、見る者に想像させる。その広がりは、〈燕子花図屏風〉以上と言っても良いかもしれない。
最初に〈燕子花図〉を描いてからの、約10年間の「経験」と「成長」が、ここに集約されている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?