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草木と生きた日本人 萩




一、序

 我がやどの 花橘は 散り過ぎて 玉に貫くべく 実になりにけり (『万葉集』巻八・一四八九)
 (私の家の庭に咲いてゐた橘が、早くも散り果ててしまひ、玉として糸がとほせるほど実がなつてしまつたよ)

 『万葉集』を編纂したと考へられる大伴家持が、橘の花を惜しんで作つた歌です。花、そして実まで詠まれてゐますね。
 他にも、

 我が背子が やどの橘 花をよみ 鳴くほととぎす 見にぞ我が来し (巻八・一四八三)
 (大切なあなたの家に咲く橘の花がとても美しいので、それを慕ひほととぎすが鳴くのを私は見に来ました)

といふ奄君諸立といふ謎の人物の歌があります。こちらも橘の花が詠み込まれてゐますね。

 前回は、夏の花といふことで、橘についてお話ししました。上に挙げたやうに橘も、古へ人に愛され歌に詠まれました。
 花を通して、心と言葉を同じくしてきた私どもの先祖と、その感性とでつながることができる奇跡を思はずにはゐられません。

 甲子園での選手権大会が終はり、学校も夏休みが終はり、残暑が厳しいとはいへども、いよいよ秋らしさを感じられる季節となりました。
 ここからしばらく秋の歌、そして秋の花についてお話しいたし ませう。

二、七種の花

 まづは次の歌をお読みください。できれば、声に出してみませう。

 秋の野に 咲きたる花を および折り かき数ふれば 七種の花 (巻八・一五三七)

 萩の花 尾花葛花 なでしこの花 をみなへし また藤袴 朝顔の花 (巻八・一五三八) 

 この二首は、一目見てわかるやうに、歌の意はとても簡単でせう。暗記しておくと便利です。前の歌の意味は、「秋の野に咲いてゐる花を数へてみれば、七種類の花があります」で、後の歌は、秋の主な七つの草花をで表してゐます。
 素朴で親しみやすく、それでゐて面白い歌でせう。作者は「貧窮問答歌」で知られる山上憶良です。憶良が愛する子のために、指を折つて数へながら歌つたものでせうか。
なほ旋頭歌とは、和歌の一形式で、五七七・五七七の六句から成り立ちます。最初の五七七と次の五七七をそれぞれ別人同士で唱和してゐたと考へられてゐます。
『万葉集』の中に、旋頭歌は六十二首収められてゐます。民謡的な色彩の濃い歌で、上代では盛んに行はれてゐたさうです。
 秋になると、歌の題材となる花はこの七種類が中心でした。ちなみに、一五三八番歌の「尾花」はすすきで、「朝顔」は桔梗と考へられてゐますが詳細はわかつてゐません。
 この七種の花は、たびたび歌に詠まれ、私どもの先祖に愛されました。『万葉集』以降のどの歌集を見ても、これらの花は歌に詠まれてきたのでした。例へば次の歌。

 をみなへし 盛りの色を 見るからに 露の分きける 身こそ知らるれ
 (女郎花の盛りの色を見たばかりに、露が分けへだてた私の身のことが、つくづくと思ひ知らされることです)

『新古今和歌集』に収められた、紫式部の歌です。

三、萩の花

 ここで注目すべきは、上の憶良の歌の二首目も第一句目にある萩の花です。萩は、『万葉集』においてもつとも歌に詠まれた花であり、後の世には牡鹿と合はせて詠まれました。
 まづは、『日本国語大辞典』で萩を見てみませう。

「マメ科ハギ属の落葉低木または多年草の総称。特にヤマハギをさすことが多い。秋の七草の一つ。茎の下部は木質化している。葉は三小葉からなり互生する。夏から秋にかけ、葉腋に総状花序を出し、紅紫色ないし白色の蝶形花をつける。豆果は扁平で小さい。ヤマハギ・マルバハギ・ミヤギノハギなど。はぎくさ。」

 萩の名所といへば、後の世に合はせて歌に詠み込まれてゐた宮城野が連想されますが、宮城野はどこにあつたのかわかつてゐません。
 それよりも、私はただちに奈良県奈良市にある白毫寺を思ひ浮かべます。
 白毫寺が史料にあらはれるのは鎌倉時代以降で、その創建は謎に包まれてゐます。
 白毫寺は、春日大社の本殿から南へ歩いて約三十分程度のところにあります。途中、新薬師寺や、『万葉集』に詠まれた能登川を渡ります。境内から眺める奈良の街並み、そして遠く見える生駒山が、旅の疲れを癒してくれます。
 白毫寺の地には奈良時代の和銅年間(七〇八〜七一五)に、志貴皇子の山荘があつたとされてゐます。犬養孝先生による歌碑が白毫寺の境内に建てられ、秋には萩の花が今を盛りと咲きほこります。

四、志貴皇子と萩の花

 志貴皇子(『日本書紀』には施基、または芝基とも)は天智天皇の第七皇子で、御父である天智天皇譲りの見事な御歌風の御歌を集中に六首残されました。
 その御歌は格調高く、清らかで、一度聞いたら忘れられない素敵な響きがあります
巻八巻頭、春のよろこびを歌はれた次の歌はとてもよく知られてゐますね。

石走る の上の さわらびの 萌え出づる春に なりにけるかも(巻八・一四一八)
(石の上を走る滝のほとりにわらびが生えてくる春になつたナァ)

志貴皇子は『万葉集』では霊亀元年(七一五)の九月の前に、また『続日本紀』によると元正天皇の御代、霊亀二年(七一六)八月十一日、新暦にして九月一日に薨去されました。折りしも野には、萩の花が咲いてゐたことでせう。
その時の志貴皇子の挽歌(長歌)が巻二の末尾に記されてゐます。この挽歌は『笠金村集』に出るとあり、その作者は笠金村本人と見られてゐます。
歌を見てみませう。長歌と反歌二首のうち、一首を紹介します。反歌に注目してみてください。

 梓弓 手に取り持ちて ますらをの さつ矢手挟み 
 立ち向かふ 高円山に 春野焼く 野火と見るまで 
 燃ゆる火を 何かと問へば たまほこの 道来る人の 
 泣く涙 こさめに降れば 白妙の 衣ひづちて
 立ちどまり 我に語らく なにしかも もとなとぶらふ 
 聞けば 音のみし泣かゆ 語れば 心そ痛き 天皇の 
 神の皇子の 出でましの 手火の光そ ここだ照りたる(巻二・二三〇)
 (梓弓を手に持ち、ますらをたちが猟の矢を指の間にはさんで立ち向かふ高円山に、春野を焼く野火と見間違へるほど夜空に燃えてゐる火を、あれは何かと聞けば、道を行く人の泣く涙は雨のやうに流れ、衣も濡れて立ち止まつて私にいふには、何故そのやうなことを聞くのでせう。聞いただけで涙があふれ出ます。語れば心が痛い。天智天皇の神の皇子である志貴皇子の、御葬送のたいまつの光があんなにも照り輝いてゐるのだ)

 反歌

高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに(巻二・二三一)
(高円の野の萩は空しく咲き散つてゐるのだらうか。見るべき志貴皇子の亡き後も…)

 雅にして清新な御歌を詠まれた皇子を偲ぶのに、まことにふさはしい挽歌です。「見る人」とは、志貴皇子を指してゐませう。白毫寺に建てられてゐる犬養孝先生の揮毫による歌碑は、実はこの挽歌なのです。
 恐らく、志貴皇子は萩を愛されたのでせう。そのことを示すやうに、長歌の反歌の中で、わざわざ「秋萩いたづらに咲きか散るらむ見る人なしに」としてゐます。その小さく、美しい様に皇子は心を魅かれたのでせうか。できるならば、皇子に直接お伺ひしてみたいものです。
 志貴皇子の薨去から五十四年後の宝亀元年(七七〇)。第六王子の白壁王が御践祚あそばされました。第四十九代光仁天皇です。これにより、皇統は天武天皇系から天智天皇系へと移ることとなりました。
志貴皇子は宮の所在地により春日宮御宇天皇の追尊を受けられ、御陵の所在地により田原天皇とも称されてゐます。

志貴皇子は見事な御歌を後世に残され、また感動的な挽歌で哀悼されました。今、『万葉集』を拝誦する時、そして白毫寺を訪ふ時、私は偉大な歌心、そして古へ人の感性と萩の花を愛した情にいつも心を動かされるのです。


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