伊勢物語

1 しのぶみだれ
 昔、男、初冠(うひかうぶり)して、平城(なら)の京、春日の里に、しるよしして、狩にいにけり。その里に、いとなまめいたる女はらから住みにけり。この男かいまみてけり。おもほえずふるさとにいとはしたなくてありければ、心地まどひにけり。男の着たりける狩衣(かりぎぬ)の裾(すそ)を切りて、歌を書きてやる。その男、しのぶ摺(ずり)の狩衣をなむ着たりける。

 春日野の若紫のすり衣(ごろも)しのぶの乱れかぎり知られず

となむ、おひつきて言ひやりける。ついでおもしろきことともや思ひけむ。

 陸奥(みちのく)のしのぶもぢずり誰(たれ)ゆゑに乱れそめにしわれならなくに

といふ歌の心ばへなり。昔人(むかしびと)は、かくいちはやきみやびをなむ、しける。
【現代語訳】
 昔、ある男が元服したばかりに、奈良の旧都の春日の里に領地がある関係で、狩りに出かけていった。その里に、たいそう優美な姉妹が住んでいた。男は、この女性たちを物のすき間から覗き見した。思いがけずも、こんな寂れた里に似つかわしくない美しい様子だったので、男の心は乱れた。男は、着ていた狩装束の裾を切って、それに歌を書いて贈った。男は、しのぶずりの狩衣を着ていたのだった。

 春日野の若紫草で染めたすり衣の模様のように、私の心は千々に乱れています。

と、すぐに詠んで贈った。その場にかなった趣深いことと思ったからであろうか。この男の歌は、

 陸奥産のしのぶずりの乱れ模様のように私の心も乱れているのは、他ならぬ貴方のせいなのです。

という歌の気持ちを踏まえたものだ。昔の人は、風雅を楽しむにもこのような熱烈なふるまいをしたものだった。

(注)初冠・・・男子の成人儀礼として初めて髪を結い、冠をつけること。
(注)しのぶずり・・・シノブはシダ類の植物で、これを布にこすりつけて捩(よじ)れた模様を染め出した布。一説には、シノブを石にすりつけ、その石を布に押し当てて染めたとも。しのぶもじずりとも言う。 

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