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読書 Ⅰ 短歌②

昨年の東京文フリの収穫から、鑑賞や感想を連ねる。好きなものを目の前にすると言葉が落ちていくので少ない言葉で話します。

①かなめゆき『いつか一緒にくたばってくれ』

題に表れているように、死や現実の停滞、重い暗いものがよく詠われている。表紙が、街の景色の上下逆さまなのが素敵。

死にたがる背中ひきよせないのなら変に触れたりしないでほしい

読んだ時まず苦しい、と思った。そして、これが本音なのだろうな、と思ってまた苦しくなった。
皆生きると同時に死ぬ可能性を持ち続けている。毎秒、生と死の50%ずつの、生を上手く選択し続けている。
死はこんなに近くにあるのに、生きていることが楽しいと思っている人々、死は怖く、いけないものと思っている人たちにとっては、「死にたがる」精神は理解に及ばない。そういう人が、「死にたがる」人を止めようとするとき、それは結局生に縋る側のエゴでしかないのだろう……。
でも、読み方によっては、「変に触れたりしないで、ちゃんと私を引き寄せてくれ」という遠い期待が感じられる。死にたがる人にとって、最終的なゴールは、生なのか死なのか、分かればいいんだけれど。

遺書を書く準備はしたが言い残す言葉がなくて息をしている

引退を惜しまれたいがなにひとつ現役じゃない今日を生きてる

ふと実際に自分が死ぬ瞬間を考えるとき、必ずちらちらと灯るのが「このまま死んでいいのか」「生まれてきて何をしたのか」という点。「言い残す言葉」、「なにひとつ現役じゃない」という言葉にそれが表れている。
死にたいけど、もっとなんか、褒められたりしてもいいんじゃないかって思ってしまう。「息をしている」「今日を生きてる」という、どうしようもない穏やかな生。もどかしい気持ち。

よく寝たらよくなるだろう あしたにはあしたの鬱が待ってるだろう

たしかに、と気付かされる。フランスの思想家パスカルは、幸福について、「我々がその快楽に到達したあかつきには、それだからといって幸福になりはしないであろう。何故なら、我々はその新しい状態に相応しい他の願望を持つだろうからである」と述べている。(断章109)
一つ苦しさを乗り越えても、新しい苦しさがやって来る。いつか終わりは、来るのだろうか。我慢するしか無いのだろうか。僕は、我慢するしかないと思う。幸せと苦しさは同一直線上にないと思うから、どれだけ幸せでも、関係ない。

USB安全に取り外すとこ以外は全部好きだったのに

!?となった歌。usb安全に取り外すなんてなかなか真面目だな、良いところじゃんと思ったところに「以外は全部好きだったのに」と接続される。一般的な感覚を逆転させる作り。
なんにおいても、安全に安全にって、どうせ死ぬのに、もっと適当に、保存なんて考えないで生きていこう(死んでいこう)よ、という感じだろうか。主人公はどうしても許せなかったのだろう。

全体的に、マイナスな方向(死、悪、暗、失恋、陰)を詠んでいて、読みながらずーんと海へ沈んでいく感覚がした。ひとつ、感じたのは、作者の優しさ(素直さ)。人はすぐに何かを忘れるし、文字にして記録する。ただそれは同時に、「文字にしなければ忘れられる」ことでもある。
誠実に見つめて、素直に文字に留める。これは簡単なようで意外と勇気のいることだし、上手くいくものでもない。苦しみながらもこの歌たちが一つの形でまとまれたこと、読者としてとても嬉しい。作者さんのような素直さが、ちゃんと光るのを見過ごさないような人でありたいなと思った。
最後に一番共感した歌。ある日ぽかんとのどかに消えたい。

晴れた日に手を高く上げ信号を渡るみたいにいなくなりたい

②佐原輔『とうか』

やさしさが光ると、うつくしくなるのだなと学ばされた。そもそも、やさしさは光るものなのだな、と。

きみがやさしくしてくれるからとべないふりをしているのです ずっと

何も感想を付したくないなと思うほど、素敵だ。(なんだ、ほんとは飛べるんだ)と思った直後に「ずっと」を読んでうちのめされた。こういうときのやさしさはやみつきになってしまう。
そして、それに少し対応した(と思われる)歌が同じ章にあった。

ふりだけでよかったのにな最後までやさしくしてくれてありがとう

切ない。せつないなんて四文字でまとめてしまってはいけないのだろうけれど。ふりなんてお互いに気づいているのかもしれない。お礼を純粋に言えることの大切さ、切なさを感じる。

捨印の影あざやかに八月の火葬許可証めくる白指

はつなつの行方不明者のおしらせが夕風に乗る すこしすずしい

わたしのものではない余命告げられて冷蔵庫を抱く晩夏なり

やさしさの反対側に存在する出来事を見つめた歌たち。「火葬許可証」という、関係者の死を直接に知らなければ存在すら知りえない事物。その存在自体が持つぽっかりとした喪失感。「行方不明者」のアナウンスが無条件に運んでくる不在感。はつなつ、おしらせ、すずしい、という四文字の平仮名が、それについて思考を放棄しているようにも見える。「わたしのものではない余命」の秘める性急さ。祖父の余命を聞いた私の母は、ふらふらとあらゆるものにぺたんともたれ掛かりながら歩いていた時があった。「冷蔵庫を抱く」に重い実感がある。

この『とうか』という題が一体何を示しているのだろうと思っていた。p4に「透過、灯火、どうか」とあって、僕は読み終わってからそれに気づいた。だから表紙がこれなのか、と納得した。たしかに光や火、願望の歌が多くあった。
読み終わった感想がまとまらなかった歌集だった(いい意味で)。ぼんやりと、眩しく、そっとかき回されてしまって、最後はっきりと心に残ったのはこの題だった。とうか……。歌集が心に透過した、ということなのだろうか。

最後に一番好きだった歌。大好きなものに出会うと言葉が出なくなる。そっとお礼のつもりで。

ひからびた胎児がそこで鳴っているそこと呼ばれるだけの光源

③『SHE LOVES THE ROUTER』

僕は森博嗣という作家が大好きで、『スカイ・クロラ』シリーズは何度も読んで一緒に棺の中で死にたいと思っている。その作者は理系で、カタカナ表記は工学分野のルールに則って、英語でerやorで終わる単語でかつ三文字以上になるものには長音をつけないことにしている。
このシー・ラブズ・ザ・ルータの題を見たとき、とてもビビッときた。森博嗣感がでてる……!と感動した。ルータ!かっこいい!なんか猫とか犬とかのおしゃれな名前みたい!と思っていた。
と、そこで編集後記を見たら宇都宮敦さんの、飼い猫がルーターに乗っかっているのを表したツイートだそう。猫!当たった!と思ってにこにこした。

メンバーからして豪華極まりなく、初めて行った文フリで知っている方々に買っとくべきものはどれですかねと聞くと口を揃えてこの本を推していた。急いで駆けつけて最後の展示本をゲットしたのだった。

「この星の夜」宇都宮敦

余裕って答える 何が 笑ったらけだるく夜の海のうねりは

文字がわざと分断する現実。そこに生まれる空白が、現実をより現実にしていく。「余裕って答える」の入り方にうっとり惚れて、「うねりは」で終わる余白。ここに二人の登場人物がいるとして読んだが、この二人とも、互いに話しかけていると同時に、海のうねりを見つめていそう。顔を見ること無く。もしかすると、登場人物は一人だけで、海に向かって話しかけて自分自身で答えて自分自身で突っ込んで笑っているのかもしれない。それもいいなって思える、夜の海。余韻がまさにうねりのよう。

ばかでかい星座の下で友達が手をふる 僕らは手をふりかえす

何気なくスルーしてしまいそうになったが、最後の違和感で立ち止まった。「僕ら」の「ら」。友達が手を振ってきて、僕らが手を振り返す。星座の下でまたひとりが手を振ってきてさよなら、離れていく。
一瞬、ほんとうに一瞬、僕らが星座だと思った。友達(人間)が手を振って、それを見たばかでかい星座(星たち、僕ら)が、手をふりかえす。
どちらにせよ、ばかでかい、の勢いが、友達と僕らを加速させていく、その感覚が好きだった。

「戦い」吉田奈津

濡れた白菜を見つめるそれぞれの中でお神輿がくずれてしまう

はっきり言うと何もわからなかった。けど、その何もわからなさがとても面白くて大好きで、急いで紙にメモした。見つめることと、崩れることのそのあいだにどんな繋がりがあったのだろう。もしくは、全くなかったのかもしれない。
僕は一応、今まで濡れた白菜を見つめて僕の中の神輿(とは一体何なのか)が崩れたことはないから、この主人公のただの危惧ということになる。それはそれでなんだか面白い。本人にとっては深刻なことかもしれないけど。

戦ってたまに打ち勝ってこの広い部屋に夢の鹿あふれる日まで

一体どんな戦いがそこに行われているのだろう、と想いを馳せれば馳せるほど、脳の端っこで鹿が駆け回ってくる。濡れた白菜に続いて謎接続な一首。こういう、理解はなかなか及ばないけれど、「その歌自身の中ではそれが当たり前として論理的に繋がっている」ような歌が、本当にだいすきだ。意味や景色を説明はできないが。

「小さいおにぎり」武田穂佳

パチンコのネオン映してぐるぐると色が変わったおまえの顔が!

!!!!!。おそらくすらっと語順を変えると、「おまえの顔の色が変わった」になる。しかしこの語順である。パチンコ、ネオン、色、と映像が移動していって最後に「顔が!」と顔が全面に襲ってくる。迫力。謎の迫力。
主人公は何を思っているのだろう。色が変わったおまえの顔を見て、どんな気持ちなんだろう。くすくす笑っている気もするし、海を見るような遠い目をしているような気もするし、残虐的な表情をしている気もする。あとは任せた、というふうに読者に投げかけられた以上、あとは想像するしかない。とにかく「!」に!!!となった。ぐるぐる、の丸に対して!の直線がよく映える。

本当のほのかは髪が長いはずしばらく髪は切らん と思う

僕は多分こういう歌が好きで、こういう歌を無意識に探しているのだろうな、と直感した。素朴で、思ったことをそのままに、背伸びしない言葉で述べられたことが、一番おいしいんだろう、と。
髪を切ったときのあの「なんか違う」感を「本当のほのか」と言い表しているのが上手い(?)と思った。髪を切ってにせものになってしまったらはやく本物になるしかない。いそげ!髪なんかもう切ってやらないぞ!という気持ち。
僕の母は、「かもめ食堂」という映画が大好きで、朝ごはんを食べる時いつもテレビでそのDVDを流していた。なんかそのときの気持ちを思い出した。とても素敵な歌。

「地図」堂園昌彦

君に貸してすぐに返ってきた地図に夢の鉱山を書き加えること

美しい。交換日記のようなものなのだろうか。交換地図。宮澤賢治が描いたイーハトーブの地図を思い出す。あの地図には「青空の作られる場所」があった。この地図には「夢の鉱山」が。素敵。その地図はおそらく、主人公と君だけの間で渡されていくのだろう。なんて綺麗なのだろう。

君は薔薇をわざわざ家に取りに帰る水辺はいいねいつも水辺は

いつも水辺は。いいな、水辺は。美しい事物たち、光景が奏でられる中で、「わざわざ」という言葉が一際光る。ふつうの文脈だと否定的に、強めに受け取られる言葉だが、とてもすっ、と水のように入ってくる。そこには、愛しかないなあ。愛とは違うかもしれないけれど、愛のような、透明なものしか……。

「夏のクイーン」谷川由里子

メキシコっていい響きだな と、思ったんは初めてじゃなさそうでした

皆川博子の短編に「メキシコのメロンパン」があって、それを思い出す。初めてじゃないのに、まるで初めてのように感じ直すこと、たくさん。記憶をなくすということは、もう一度記憶するしあわせを得た、ということなのかもしれない。メキシコ、そういわれると声に出したくなる。メキシコ、メキシコ。

4人ともくたびれていてしょうがなくいちばん笑うやつについていく

下の句だけ見たら良くある光景。修飾とは凄いものだなと感じさせられた。四人ともくたびれている、しょうがなく笑うやつについてく。「しょうがなく」に愛がある。この4人、とてもいい関係だな……。(主人公含めて5人かもしれないけれど、僕はこの4人の中に主人公がいると思った。根拠はない)

鈴木ちはねさんの「みぎり」とそこから伺える歌会の在り方についての考察、とてもとても面白かった(interestingの意味)。「書かれている沈黙」、まさに。
谷川さんの評を読むと、連作が少し読みやすくなった気がした。そして、読みの深さにしみじみと恐れ入る気持ちだった。感覚的な文脈をここまで論理的に説明できる(しようとする)のは本当に凄いことだし、この態度を持ち得ているからこそ、この方の作風が構築されていくのだなと思った。主体ということについて、僕はもっと考えなきゃいけない……。

④ナイス害『フラッシュバックに勝つる』

僕は短歌の方々はほとんどTwitterでしか知り得てなく、実像(?)を見たこともあまり無いため、文フリ会場で答え合わせをするのが楽しかった。ナイス害さんはナイスな方でした。名刺をすっと冊子とともに渡す手馴れた指先がとても魅力的だった。

逃げなさい思い出達よ逃げなさい素敵な人が現れたのよ

安福望さんの絵で知りえた作品。可愛いテイスト、素敵な書きぶりのなかで、繰り返される「逃げなさい」がせつない。この思い出達は果たして逃げてくれたのだろうか。たぶん逃げきれない気がする。最高にせつない。

朝、一番早く鳴いてる鳥と友達になりたい 企み銀河

「企み銀河」!たくらみぎんが、たくらみ銀河。朝鳴く鳥と話したい、友達になりたいという願望が企みになりめくるめいて銀河に……。鳥から銀河まで繋がる発想と、企み銀河という言葉の語感が非常にくせになる。

ギンヤンマ追いかけていた人はみな羽根の持ち方知っているんだ

さよならを知ってる人はさよならを告げる仕草が上品でした

ギンヤンマを追いかけるという動作、さよならを告げる仕草、この二つが実際に目に見えること、その背景を述べることでその目に見える行為が違ったものに見えてくる、というパターンの歌。当たり前の因果のように思っていたことも、当たり前になるには当たり前になるまでの経緯があったということがわかって、ぐらぐらとしてくる。
羽根の持ち方を知っていること、さよならを知っていることの、微かな残酷さ。
もし、羽の持ち方を知らなかったら、ギンヤンマを追いかけていただろうか。さよならを知らなかったら、もっとさよならは下手なのだろうか。知ってしまったことの少しの悲しさと、忘れたいような願望が押し寄せてくる。
雪舟えまさんの〈明け方にパンと小さくつぶやけばパンが食べたいのかときかれる〉(『たんぽるぽる』)をなんとなく思い出した。

銀河鉄道の夜、どんどん雪が止んで、あなたが大きくなった

順調に内容が繋がっているように見えて、「あなたが大きくなった」で驚かされる。「どんどん」に隠された長い時間。
言葉では説明したくないタイプの作品。大人になるってこういう事なのかなって、よくもわるくもおもった。

A3をどうにか折ってB4にするかのような別れ話だ

別れ話という三文字のことだけに費やすそれ以外の修飾。ここまで決まると読んでいて気持ちいい。始まったら終わる。終わらないのに始まるものなんてない。そんなこと分かっているのだから、本当は終わりに理由なんてない。終わりは終わり。終わるから終わる。なのに、人は理由を求める。だから、へんてこな理由になる。この比喩が最高で痺れる。「どうにか」の言い方もかなり面白くて好きだ。

分かります趣味で生きてる人もいて趣味で死ぬ人もいるんですね

この歌を何度も繰り返して読んで、悲しくなってしまうのは、おそらく上の句の最初の「分かります」のためなのだろう。趣味で生きてるのはまだ分かるけれど、「趣味で死ぬ人もいる」のは、一般的に、理解はしても納得はしにくい。それを主人公は「わかります」と言ってのけている。どういう気持ちで言っているのか気になる。「はいはいわかったわかった、分かってますけど、知ったこっちゃないです」という感じなのか、「分かります、けれど私は趣味で死ぬほうには属せない」という気持ちなのか。
趣味で死ぬ、に視点が行きがちだが、よくよく考えると「趣味で生きてる」もなかなかなものだと思う。生死が無機質に語られる時、自分の中で何かが壊れていく気がするけれど、何なのかはまだ分からない。ただ、本当に、趣味で生きる人もいれば趣味で死にゆく人もいるのだろう。なんだか、悲しいとも思えない。

ルビの振り方がぶっ飛んでいる歌がところどころあったり、「ブレイクビーツ」の段でそれまでのワードが走馬灯のように合体していたり、読んでいてたのしい歌集だった。個人的には見えない遊園地というイメージ。
最後に勢いがあって好きだった歌。

一度でも手が触れ合えば全項目レ点を入れちゃいそうな危機感

(2018/02/04 くもり)

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