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鑑賞︰阿部完市『軽のやまめ』

 本︰阿部完市『軽のやまめ』(角川書店、平成三年)

 1985〜1990年の作品が収録されている。阿部完市のなかでも個人的に好きな句が多い。古書店で句集を手に入れたとき、例によって著者謹呈の紙が挟まっていた。そこに送り元が書かれていて、浦和市のサナトリウムから、とのことだった。初めて謹呈の紙を残すことにした。

 鑑賞に行く前に、読んでいて思ったいくつかの傾向について纏めておきたい。

・鮎が好き
 頻繁に鮎が出てくる。鮎が好きなのだろうか……。

・擬人化/動植物への距離
 動植物に行為を付与させる句が多い。とくにこの句集の場合、「自分(主体)に関わるものとして」動く場合が多い。自分が他の動物になりたかった、とか、他の動物が自分の元へ来た、とかである。擬人化を通して、逆に「人間」とは何か探ろうとしていたのかもしれない。

・ラ行のオノマトペ
 さらさら、するするなどオノマトペがよく出てくるが、そのなかでも三音+三音のラ行のオノマトペは特に癖がある。〈たすけてほしいのです洋梨くるりくるり〉〈ふとんはねてくるるくるるの島をさがしぬ〉〈鹿に注意しなさいしゆるるしゆるる月夜〉など。どれも大幅に定型を外れている。「くるるくるるの島」に至ってはもはや良く分からない。ほかの句集にも、〈はらやまはらやまくるりくるりかたつむりか〉(『純白諸事』)などがある。

・地名
 脳内の言語操作メインで作っている俳人だと思っていたが、地名を入れた句が数多くある。といっても、随分跳躍した句が多いが、土地を大事にした作家であることは確かだろうと思う。

※以降、気になった句を順に触れるが、個人的に好きな句は句の先頭に○を付ける。

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一九八五年

つめたい尾根へ足なみそろえてみに行つて

 後半はリズムが良く、言葉の足なみも揃っている。785で少し崩れているが、「へ」「そろえて」「行つて」でエ段で終わっているためさほど気にならない。この句の中で、「つめたい」だけが確かではない。見に行く前に尾根をつめたいと感じているわけで、それが色のことなのか、シンプルに高い場所だから寒いのか、感覚的なことなのかは分からない。冷たく思えて、だからこそ見に行く、というような冷たさに近づく一行の心理の不思議さが一句のうちに流れている。

音読やにわとりや雉子とくらすや

 切れ字(間投助詞)としての「や」なのか、並列(格助詞)としての「や」なのか良く分からない。恐らく、上五の「や」は切れ、中七の「や」は並列、下五の「や」は詠嘆、だろう。主体は何かを音読している、にわとりや雉子と暮らす日々の中で……といった所か。この後も鶏や雉子の句はちらほら見えるため本当に暮らしていたのかもしれない。音読という近そうで遠い言葉と、動物が列挙される面白さがある。最後の「くらすや」の奔放さ、陽気さはとても明るい光景を思わせる。もし、上五の「や」が格助詞で、にわとりや雉子と同じレベルで「音読やにわとりや雉子」だとすれば、音読が動物と普通に並べることの面白さが出てくる。鶏ではなく「にわとり」である点、意味が通らなくなる恐れもある「や」の連発から、一句の見た目やリズムを非常に気にして作られた句ではないかと考えられる。
 それに、この句を発音(音読、といったほうが粋か)する際、5-7-5で言うよりも、助詞を少し短くとって、4-1-4-1-2-1-3-1とした方が良いかもしれない。カナで示すと、〈タンタンタタンタンタタンタタンタタ〉。

○木の下にいる人抱けばまるでせせらぎ

 人を抱くと色々な気持ちになる、というのは分かるが、ここで「せせらぎ」を感じるのがすずしくて心地よく、それが「木の下」と共にあることでより伝わる。木と川のつつましい関係も考えられて、人が人を抱いているだけの光景が、木と川の風景と繋がることで、絵と音楽が同時に伝わってくるような感覚をもたらす。「まるでせせらぎ」は、主体が、抱いたのちその感覚を受けた、と取ることもできるし、抱き合った二人が二人ともせせらぎのようになってしまった、とも取れる。ここでは「木の下にいる人」という正確な把握をよりたたせるために、前者で取った。

雨はいすらむ寺院のように言われる

 雨は─言われる、だけでも面白い表現だと思うが、「いすらむ寺院」がまた更に変さを出している。これは、〈いすらむ寺院について話されるとき主にこう言われるように、雨もまた言われる〉か、〈いすらむ寺院そのもののように雨は言われる〉なのか、いまいち判然としない。前者だとすると、いすらむ寺院が普段どう言われているのかが分からない。後者だとすると、いすらむ寺院のようだ!と思うことがそもそも無いことだから、いまいちわからない。
 と、このように「のように」と直喩を取っているけれども、何が「のように」なのかが分からない上に、その比喩を受ける対象が「雨」といういすらむ寺院とは遠い距離にあるものであるから、その飛躍をなかなか消化出来ない。阿部完市のこういう句について、そこの消化に時間をかけないでスルーする読者が多いように思う。分からないものだとして、でも分からないことがいいんだろうと適当に判別して、読みを投げ捨てる、という読み。一般にその姿勢は僕は好まないが、ただ、それはこの句においてはいい読みなのかもしれないと思う。あえて直喩にして意味を取れるようなフリをしておいて、結局分からせまいとするむきがある。「いすらむ寺院」のひらがなも、陽炎のように姿を歪ませる力がある。結局何がなんだか分からない雨、というのでこれは良いと思う。読後に、「そういう風に雨のことを言う人(≒阿部完市)がいるんだ」と思わせられたらそれでいいのだ、という思考が、透けて見えるような気がする。
 よってこの句は、〈雨が言われている〉という描写を取っているが、〈雨をそういう風に言っている人がいる〉、という、隠された発話者(たち)への視線をメインにしたものではないかと考える。もしこの句が、〈雨をいすらむ寺院のように言う〉だったら、もっと簡単な意味不明だったと思う。裏、というか、同時に動いているものの「気配」が、阿部完市の句解釈には大事なのかもしれないと思った。

むらさきの他人ふたりがみてとおる

 寺山修司に〈わが母音むらさき色に濁る日を断崖にゆく瀆るるために〉という歌があるが、やはり「むらさき」というと高貴かつ危うい色、という印象がある。藤や菫の色だが、安心できるけれども、どこか異界めいたものがあるというか、そわそわするところがある。
 「むらさきの他人」というのは、その色の服を着ていたと取れば現実的だが、どうもそうでは無さそうだ。たとえば〈白シャツの他人〉にしてみたら、(まあ滑稽ではあれど)なんだそれ、という感じになる。ここはもっと抽象的な「むらさき」だろうし、その方がこの句が良くなる。
 この句にどこか落ち着かないのは、「むらさき」のほかに、「みて」が原因にある。「とおる」は分かるが、何を「みて」通ったのかが分からない。「他人」というのが自分を中心に決められた言葉である以上、「みて」の対象は自分であるような気もする。自分は、良く分からない「むらさきの他人」に、「み」られて、「とお」られる。この不穏さを淡々と描写しているところに、さらに安心できないものがある。
 一応、「むらさき」を季語(紫草、秋)ととって読むことも出来なくはないが、だとしたら上五は「むらさきを」としなくては意味が全く通らない(それが特徴でもあるが、さすがに「の」は無理がある)ため考慮しない。

かけぬけてきつね机のまえにも来

 良いところを挙げると、「まえにも」(色んなところに行ったり来たりしているのがわかる)、「かけぬけて」(きつねの様子をしばらく主体が見ていることがわかり、その穏和さ)、きつねと机の相性。本当かどうかでなく、この句の中の世界はとても良いなあと思う。個人的にはスタジオジブリ作品を想像した。

瀧の上は楽園であり読む声す

 滝は名句が沢山あるが、これは少し毛色が違う。「であり」と断定しているのが力強い。「瀧の上は楽園であり」までだったら、本当か?と思うところがあるが、「読む声す」が妙にリアルで説得力があった。「読む」が、対象を隠されていて、何を読んでいるのか分からない。お経か、聖書か、はたまた天使の声か……。
 この句の面白いところは、「であり」の連用接続で、そのまま素直に読めば、楽園から声がしているようなものになる。でもそれにしては「読む声」に実感というか、確かさがある。ちゃんと何かを読んでいると感じているわけである。これは、楽園ではなくて、そばに居る人の声ではないだろうか。瀧を見て、その上の楽園を想いしばらく恍惚する主体、その傍で誰かが何かを読む声がする、主体はいま楽園のことを想起しているから、近くの声があたかも楽園からの声であるかのように思われた……という読みが可能であると思う。その方が、瀧の上の天界と、瀧の下の人間界の隔絶とそれを一瞬つなげる「声」と構図がはっきりして良いのでは、と思ったりする。ふつうに、楽園で誰か(何か)が何かを読んでいてその声がここまで届くというのも面白いものがあるが。それだと、滝の音で邪魔されるんじゃないか、と思うわけである。

ついにおわりを歩いていたる白馬かな

 〈子馬が街を走つていたよ夜明けのこと/金子兜太〉を思い出す。若干甘い句であると感じるけれども、「おわり」を歩く白馬を想像するとしみじみとしてしまう。「ついに」と、少し待ちわびていたかのような言い方も面白い。

○はらつぱと季とをみていてまちがえて

 「季」をどう読むか少し悩んでいるが、そのまま季節の季として考える。「はらつぱと季とを」見る、というのは、たとえば夏の草原と季節の夏を見るという事だろう。比べるように原と季節を見て、「まちがえ」る。現実的に考えれば、たとえばまだたんぽぽが咲き誇っているから春の原だ、と思ったが、実際は初夏に入っていた、というようなことだろうか。でも、だとしたら、原っぱを見ていて季を間違える、となるはず。この句で特徴的なのはやはり「季」を、原っぱと同じ次元で見られているところだろう。どちらも茫洋と広いもので、おそらく「みていて」いはするものの、そんなにしっかりは見ていない気がする。ぼんやり寝転がったりしてみていたら、なんとなく間違えている。「まちがえて」という終え方からも、間違えたから悔しいとかそういう負の感覚ではなく、間違えてもそれが嬉しいというふうな明るい気持ちが感じられる。純粋でちょっとポンコツ感のある主体にいいなあと思った。

迷子ながれてこの江のなみとなりにけり

 〈ともだちの流れてこないプールかな/宮本佳世乃〉を思い出す。逆に迷子が流れている。不穏である。「なりにけり」まで言うのか……というところはある。この句も読みようによっては、津波に流されてしまって、迷子たちが親を探すように溺れながら波にいる、という風にも読める。とすると「この江の」が少し違和感があるが。

かつてこの鯉はえにしだであつた

 えにしだ(金雀枝)は、ミモザのような、連翹のような、黄色でズバババと咲く花。鯉を季語として使っているのか、えにしだが季語になるのか、ちょっと分からない。阿部完市にはこういう勢いのいい、速い(?)句がたまに見られる。そういうときは季語「を」詠むのを疎かにする傾向がある。

青鯉になりたきわれはぽかんとす

 他の動物になりたい句。ぽかん、とすることで青鯉に近づけるとでも思っているかのような主体が面白い。鯉、そう言われるとたしかにぽかんとしている。「青」という文字が、尚更ぽかん度合いを増している。

ほんとうに青麦のまねをしてみよ

 植物になりそうな句。ここまでになってくると、さすがに遊びすぎかとも思う。擬態ではない、そのものになりきる、ということを望んでいるかのように思える。「ほんとうに」が妙に面白い。冗談とかではなく、真剣に、真似するならやれ、という命令。実際に真似するところを想像してみて、結局人間は人間でしかないんだなあと思う。青麦の色、細さ、揺れ方、しなやかさ、すべてにおいて届かない所にいる。

折れやすからん雄鶏の首の一箇所

 「一箇所」が面白い。さりげなく、「からん」なのが正直だなと思う。折れやすき、でも成り立つところを、事実ではなく想像として、折れやすいんだろうな……と述べる。その「一箇所」をじっと見る主体の視線がまた面白い。

胸鰭をつかうときには春とつぶやき

 そんなに面白くない句だと思うが、先述のとおり何かになろうとする句の一つとして挙げておきたいと思い。「春とつぶやき」に実感があるため、「胸鰭」も、本当にあって、使うときはある(くる)のだろうと思われる。しかし胸鰭というと魚で、人間にはもう無い(進化を逆に辿っていけば胸鰭はあるだろう)。だから普通に読めばこれは理解が出来ない。読むとしたら、主体が魚である場合と、人である場合の二つ。魚である場合は、後半が虚構になる。魚が春とつぶやくのを想像していることになる。人である場合は、前半が虚構になり、胸鰭があるのを想像していることになる。おそらく、他の句を見ると「何かになる」という動きがあるため、これは主体は魚になった(なろうとする)人で、魚になったなら鰭はあるし、春とつぶやくことも出来る。魚になっても「春」は良いものなんだな、と和むものがある。

記憶とはわれ陸であることである

 速い句の一つ。速すぎて、分かった気にはなっているが、「記憶とはわれ陸であること」をいまいち分かりきれてない気もする。陸、大地は、その上に動植物を置き、地球が生まれた頃からずっと色んなものを見て感じてきた。記憶というのはそんな根源的なもので、自分がその陸になってしまえば、まさにその記憶たるものになるのだ……ということだろうか。「何かになる」、という働きがここでは陸に向いていると考えた。「である」が二回出てくることでうまれるテンポの良さと、「われ陸である」の不思議さが丁度エレベーターの一瞬の浮遊(下に落ちながら上に浮く感覚)のようなものを生んでいるな、と感じた。

○鯉におしえられたとおりに町におよぎにゆく

 これは「何かになる」のとは少し違っていて、鯉に教えられる。自分は人のままで。人と他の動物が、さも仲良しかのように、動く。人の言葉は魚はわからないし、魚の意図することは人間は聞き取れないはずだが、ここでは「おしえられたとおりに」とあるため、鯉が教えることも、人がそれを理解することも成し遂げられている。そして鯉の話を疑うことなく、従順に町に泳ぎに出る。
 自由律の句で、内容も軽く、嫌う人もいるだろうと思うが、この鯉と人の信頼関係がなんとも言えない心地よさがある。「町におよぎにゆく」、これはおそらくプールとか海とか、人が普段から泳げる場所のことではない。なぜなら鯉はそこまで速く泳ぐ動物ではないし、速い泳ぎ方を教わるならもっとほかにいるから。鯉が泳いでいるような場所(川とか)や、もっとファンタジックに、町の上空とかを鯉のようにすらすらとのんびり泳ぐ……。鯉と話せたら、僕もそうするだろうと、憧れるような句であった。

みどりの尾の何という夏の人物

 先ほどの〈むらさきの他人〉を思い出す。何だかわからない人物、ただ「みどりの尾」があることだけは分かる。「何という夏の人物」、これは人物名を知りたがっているという風にもとれるし、なんという不思議な(素敵な)人物なのだろう!という風にも考えられる。人、ではなく、「人物」と敢えて距離を作っているところに、「尾」の異物感が強く出てくる。

薄雲のとても十二階であつて

 速い。雲や空と階段が合わされる句はちらほら見たことはあるし、そこまで新しさを感じるわけでもないが、この風が吹き抜けていくような一句に漂う涼しさが良い。十二階、今の感覚でいえばそれほど高いわけでもなく、雲はもっと高いだろうと思うが、それでも薄雲が「十二階」であると思える気持ちは少しわかる。「とても」とあるのだから、その時の薄雲はかなり十二階だったのだろう。そういうときもあるだろう。「あつて」と余韻を残しているのは、それなら登っていける、と思ったからだろうか。

木槿白花おのおのはなれおのおの咲き

 テンポの良さ、言葉の軽さが、写生に向いた句。木槿白花(シロバナムクゲ)は、たしかにそれぞれが一つ一つとしてしっかり咲く。紫陽花のようにキュッとくっつきあって咲く花ではなく、それぞれ離れて咲く。「おのおのはなれ」、「おのおの咲」く。木槿の画がありありと浮かぶ。「おのおの」、一句のうちに二回も見ると、戦く(おののく)に見えてくる。木槿が少しよれよれと開くのが、震えているようにも、思えてくる。

一九八六年

妹の手が鮎になるそして鮎ゆく

 もう自分以外も動物になってきている。しかもこの句でリアルなのは、「手」という一部分である点。妹が鮎になるのではなく、妹は大部分を保存して、一部だけ鮎になる。こうなってくると、痛いのでは、と思ったりする。「そして鮎ゆく」にすることで、完全に鮎になって去っていった、その手はもう妹ではなく、かつて妹であっただけの鮎になった。阿部完市に妹がいたのかどうかは知らないので無理な読みだが、この句だけを見ると、「妹の手」が何らかの理由で欠損して、それは鮎になって泳ぎに出たんだ、と優しく理由付けしているようにも見える。

鯉の神の目は鯉の目の初冬

 助詞「は」が天秤の真ん中のようにして、「の」「目」「鯉」を支えている。神がある分左が重いか。
 鯉の神がいて、その目は神と言えど鯉と同じ目であった、という句。「の初冬」という収め方が若干尻すぼみ感はある。なんだか面白い句である。そういえば、人の形をしている神の絵、あれも目は人と同じような目をしている。

一九八七年

○もくれんの花はたいせつ蔵にいれる

 「もくれんの花」を「たいせつ」だと思い、「蔵にいれる」。ただそれだけの句である。平仮名が多いところ、「たいせつ」という言葉遣いから、幼稚だと思う人もいるだろう。僕はここまで木蓮を大事にしている句は見たことがなくて、ああ一番木蓮が詠まれている句だ、と思った。「蔵にいれる」とまで言えることに、初めて見たときに少し涙が出たことを覚えている。これがたとえばタンポポだったら、別になんとも思わないし、蔵にまで入れるか?と思う。桜の花びらでも、こうは思えないと思う。木蓮だからこそ、なのだろうな、と思う。これはシンプルに僕の木蓮への感覚がこの句に合っただけのことなのかもしれない。大切なものはしまっておこうと思うのも共感する。ただ、木蓮の花をそのままちぎって蔵に入れたとしたら枯れるし、落ちた花弁を蔵に入れても萎れるだろう。そんなことは分かっていても、入れたのだろう。ますます「たいせつ」がどしっとしてくる。

木槿花花いつせいに真でありけり

 おのおの咲く句もあったが、これも木槿であるなあと思った。一斉に真、少し花に対して「真」は近いというかくっつきすぎな言葉だとも思うが、まあ木槿だしそうだろうと思う。この句、〈木槿花花いつせいに真である〉で17音だし、〈記憶とは〉の句のように「である」は用いているわけだからここでもそうして良かったと思うが、わざわざ「ありけり」まで言わなくてはいけなかったというのは、木槿の「真」さによる要請なのだろう。

鵲にきちんとあつてかえりゆく

 僕は鵲という鳥が非常に好きで、どうにかして詠もうと、定期的にチャレンジしているものの、難しい。どうしても、それがもつ意味や伝統を引っ張ってきてしまう。七夕伝説、橋、時間、夜、などなど。そんな中でこの句を見て、口語で軽く鵲詠を仕留めていると思って、作る側として凄いなと感じた。「きちんとあつて」、なるほど、時間をこういう風にして躱せば良かったのか、という感動。鵲が二人を会わせるのを使って、鵲に会いに行く風にすれば良かったのか、などなど。非常にしてやられた!と思った句だった。
 この句は鵲の情報が無ければ交換可能にも見えるし、幼稚で無内容にも一見思えるが、鵲のことをちゃんと考えると、巧いこと言ってるな、と分かる。ただ、その情報を知っていると、その「巧いこと言ってる感」が強く見えるので、どちらにしても脆いものを持っているな、と思う。しかしそれはこの句の問題というよりは、鵲という季語の難しさなのかなあと思った。

一九八八年

純粋に鮎をならべてはこわす

 鮎が本当に好きなのだろう、と思っていた矢先、こんな句が出てきたからびっくりした。捌くとか切るではなく「こわす」。もっと破壊的な、ボロボロにしてしまうようなニュアンスが出てくる。
 好きだからこそ、ちゃんと見つめたい、その結果としてこの句なのかもしれない。鮎が人にぶち殺される所もちゃんと詠まなければ……という。
 とはいえ、この句は単に人に魚がさばかれるのを皮肉った句だと見定めるにはいかず、やや変わっている。「純粋に」「こわす」というのが、なんとなくイデアというか、鮎の実体ではない、鮎の概念?本体?心?を示しているように思える。鮎を鮎たらしめているものを、「こわす」。捌くとかよりももっと暴力的で本質的なことだろうと考えられる。どういう気持ちで作ったのか分からないが、でも「純粋」に作ったんだろうな、というのは分かる。

川の中州の川鵜のことから書かん

 描写を細かくしているのかと思ったらそこから「書かん」と飛ばす。小さなどんでん返しみたいなものか。こういう頭を使ったメタ的な句、そんなに嫌いではない。川、洲、川、の文字の相似、川、中、川、書かん、のk音の頭韻。嫌いになれない句である。

ねぱーるはとても祭で花むしろ

 個人的に好きではない句。「で」がトリッキーで面白い。地名詠が多いと最初に言ったが、ネパールもその一つ。アフリカなども出てくる。名詞に繋げる「とても」が変な役割を果たすのには気づいていたのだろう、頻繁に出てくる。

秤られて空のからすとなりにけり

 動物になる句。「秤られて」という理由が面白い。何のために、誰(何)に、何と、秤られたのか分からない。秤られてからすになったとはいうものの、いや、秤られてからすになるか?と思うところで。でも、なったと言っているのだから、なったのだろう。秤った結果、片方をからすにしてしまえるものがあった、なんとも変な句である。「空のからす」という表現が、さりげなく良いと思った。

ぜつたいのごとし南のばすすとつぷ

 これはほぼ確実に波郷の〈バスを待ち大路の春をうたがはず〉を引いているだろう。疑わないのを「ぜつたい」へ、春のあたたかさを「南」へ。比べてみると、完市の句では、あたかも「ばすすとつぷ」が「バスを待」っているかのように見える。面白い。

○牛飼に夏の大牛ねむるなり

 綺麗にまとまっていて、雄大な時間と、牛飼いと牛だけの空間を感じて、ぐっとくるものがあった。シンプルで、こういう句も作れるのだなあと思った。「大牛」の大の文字が、良い。

一九八九年

岩手県に水を流して鮎とくらす

 もう好きすぎて鮎と暮らしている。「岩手県に」と自ら説明に走っているのが滑稽で面白い。「水を流して」が詩的である。岩手の水は美味しそうだ。

○竹林に竹は話をして了わる

 この句では人は出てこないとなんとなく思っている。竹林の中で、竹が竹同士で話して、ぱっと終わる。またいつかふと話し出して終わる。というふうな。森の中に小屋を構えているような人が、竹の話を聞いている、という光景も、悪くは無いなと思う。「了」の字が、「竹」の下に流れるような作りと似ていて、この句は縦書きの方がいいなと思う。

馬が川に出会うところに役場あり

 季語が無いが、なんとなく夏から秋あたりかなあと感じる。「馬が川に出会う」のがまず一つ、そこに「役場あり」と繋げるところがもう一つ。この二つがひねりがあって面白い。川は動けないが(流れてはいるが)、馬は動ける。両者とも待ちわびていたかのような表現。そこに馬にも川にも関係ない人間の、しかも事務的な「役場」がある。その取り合わせというか発見に、別に詩情など無いと思うし、そこに役場があるな、と思っても言わなくていいことだと思うが、でも言ってしまう。「あり」なんて言うところに意地悪さというか、あるんだからあるんですよ、と笑いかけてくるような感覚を得る。この役場が、馬にも川にも優しいことのみを祈る。

たまごやきやまと絵に木のありにけり

 ちょっとふざけているのかなと思うような取り合わせ。「やまと絵」に木がある、描かれている、それと卵焼きが取り合わされている。わかりやすい対比としては、現代と古代(風)という感じだろうか。絵に木がある、というのは、凄くいい表現だなと思うものの、それを敢えてたまごやきで下げていくところが、憎めないところだと思う。明らかに浮いているたまごやき。たまごやきもどうすればいいか分からないだろう。

○英文法習つています冬櫻

 この冬櫻は効いているなと瞬間的に思った。よくよく考えると、適当に付けられたものなのかもしれない……とも思うが、英文法と冬櫻の相性は抜群にいいと思った。「習つています」という控えめな、親や恋人に送る手紙に書かれている文章のような言葉が、ささやかさを出す。ちょっと胸を張るような、ちょっと背伸びしたような感じも、冬の桜と響きあう。なにより、主体が英文法を習っていることになんとなく嬉しそうなのが、こちらも嬉しくなるのである。

青わすれず鰤漁をくりかえす

 色でものを把握するというところがあるのかもしれない。たまにこういう色が色としてある句がある。青とは海の色で鰤の体にもあるが、そんな具体に降ろすのは愚行だろう。
 鰤漁を繰り返すには、礼儀として、信条として、青を忘れてはいけないのだと心に誓っているような主体が見える。とても信頼できる。

一九九〇年

わがからだ虫かごであり大きい

 自分の体は大きい、と言われると、そうか、と思うけれども、「虫かごであ」るのが挟まると、ここまでおかしくなる。体が虫かごであるなら、体に何か虫を入れたり、虫を飼っていたりするということだろう。虫は、食べ物だったり、もっといえば心にも繋がるのかもしれない。心を入れておく籠としての身体。
 なかなか強引な比喩のあとの、ダメ押しのような「大きい」。虫かごとしても大きいほうだ、と。これが可笑しく見えるのは、きっと、同語反復というか、人が虫かごであるなら、本来の虫かごよりサイズが大きいのは当たり前で(それは簡単に予測がつく)、当たり前のことが改めて言われているからだろう。当たり前を更に言うことで、虫かごであるという比喩をより強化しようとしたのだろう。「大きい」で、より物質的な虫かごが見えてくる。

うす曇りかもめの心(しん)にさわるかな

 この「うす曇り」の付き方は、この句集では珍しい方だと思う。第一句集(『無帽』)に入っていそうだなと思った。「かもめの心」とはまた直球な表現である。薄曇の空が、かもめの心なるものに触れる。下五、「さわるかな」とさわるという行為に詠嘆が来ているため、空がかもめに触れゆくその一瞬がクローズアップされている。
 その触れる瞬間を際立たせているのは、「に」でもある。「心」という、見えないけどあるらしいものに、ちゃんと触っている感が出る。この「に」で一気に空とかもめの距離が近くなっている。高校の英語でonは接触、と習ったが、そのイメージ。
 一応僕は、薄曇りの空が、かもめの心に触れたと取ったが、上五で切って、自分(や誰か)がかもめの心に触れたとも取れなくはない。そうすると触り方がより謎になってくるのと、心なるものに人間が触れられるという前提の上に成り立つため、触れると思って、触れているのはやや傲慢というか、そんなことある?と思ってしまう。人の意図や思考が届かない範囲で、空とかもめが触れ合っている方が、より自然で、より「心」が大切にされているような気がする。

当時わびしやわれは一羽に名つけて

 父親と惣菜を売って暮らす、みたいな句が他にあったが、この「当時」はいつのことを言っているのだろうか。戦争中のことか。直情的に始まって、「われ」、と吐露するような口調の句になっている。鳥だろうか、一羽に名を付ける。僕は名付ける、という行為は非常に大切な行為だと思っている。別に名などなくても良いけれども、他の何でもないあなた、という固有性を名は付与する。ほかの鳥とは違う、一羽。この鳥もいつか食べられたり、ここから居なくなったりするかもしれないが、その日々だけは、自分にとって特別な一羽になる。「わびし」い「当時」を振り返るのにそんな些細なことを思い出すとは、と思うが、本人にとっては大事な思い出なのだろう。自分も名前をつけた猫や金魚のことを覚えておかなくては、と思った。

鳥類を自転車にのせひそかなり

 あえて鳥と言わず「鳥類」と解像度を下げることで、自転車も変に見えてくる。「ひそかなり」というのもなんだかおかしい。人にバレないように気にしているのだろうか。密かなのは主体だろうか、鳥だろうか、自転車だろうか、その空気一帯だろうか。おそらくこの感じだと全部だろう。鳥類を自転車に載せることが引き金となり、自分や鳥を含めてあらゆるものがひそかになっていくのだろう。たとえば下五を〈大西日〉なんかにして、季語をつけてかっこよくまとめることもできるはずだが、「ひそかなり」という面白いオチのような方向に持っていくのが、この作者らしいところだなあと思う。ここまで言わないと気が済まないのだろう。

○鶺鴒短命空はながれていますから

 鶺鴒はお腹が白い、ぷっくりした可愛い小鳥。黒と白の体がとても美しい。鶺鴒に限らず、こういう鳥は寿命が短いと聞く。確かなことは分からないが、1年と少し、というのを見かけた。「鶺鴒短命」という始まりには、驚きとうつくしい悲しさのようなものが詰まっている。「空はながれていますから」、がすらすらと本当に空のように述べられていて、安心する。これは鶺鴒に向かって言っているのだろうか。自分や人を安心させる為に、独り言のように、唱えているのだろうか。鶺鴒が短い間で死ぬ、人間もさほど変わらない。生まれて気がつけば十代が終わり、じわじわと二十代が過ぎ、なんとなく三十代を経て、あとは徐行で衰えて行く。人が生まれて死ぬのも少しの話だ。空は変わらずずっとある。ずっと上にあって、何をすることもなくすらすらと流れている。空は流れている、それだけで元気が出てくるような気がする。短命のわたしたちが、空を通して繋がっているような、こういう感覚はきっといいものなのだろうと思う。とても好きな句である。

鮎たべてそつと重たくなりにけり

 鮎シリーズ。今度は食べた。鮎を食べたら鮎の分だけ太るだろう。「そつと」重たくなるとはそういう事だろう。「なりにけり」とはまた、そんなに?と思うが、満腹感もあり、鮎美味しかった、という感覚がそう言わせるのだろう。この句集に入っていなければどうってことない句であるし、別に気になりもしないものの、これだけ鮎の句が出てくれば、「そつと重たくなりにけり」の満足気な主体は愛おしくも見えてくる。

少雨警報歩き方には気をつけて

 雨の警報が出て、誰かへ発言している。おそらくその辺の人間全員に、だろう。雨の警報が出たのだから、雨に、気をつけるというのがふつう。しかしここでは「歩き方」に気をつけてと言っている。一体どういうことなのか、いまいち分かっていない。雨になると歩き方が変わる……思い当たるのは、普通に歩いていたら水たまりに足がつくと濡れるから避けて通る、とか、雨が斜めに降っていたら傘も少し傾けてさすから、目線も変わって歩き方が変わる……とか。ここでは何かそんな簡単なことを言っていないような気がする。
 もっと根本的な、二足歩行の我々の「歩き方」、歩くという行為そのものを見直さなければならないような、そんな力がある。そもそも、現実で「歩き方には気をつけて」なんて言われること、一度も無いからだ。警報が出ようと、である。
 それに、「には」がもっとそれを強めている。強調というか取り立てというか。凄く「歩き方」というのを考えなければ、気をつけ用がない。
 これがどこまで詩なのかは分からないものの、雨と歩き方が繋げられる点、誰かが誰かへ気をつけた方がいいと分かっている上で伝えている構図、歩き方を根本から見直させる中七、は面白いのかなと思う。

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 以上が気になった句と鑑賞になる。
 総合的に、とても良い句集だったなあと思う。読者を飽きさせないようなものだった。ときどきこの作者特有の遊びすぎる句も見られるが、またそれはそれで息抜きというか、またやってるな、くらいで楽しかった。最近『無帽』(昭和33年、未完現実社)を読む機会があって、それとは全く傾向が違うためその差にも驚いた。ちなみに『無帽』だと、

鰯雲人を死なせてしまひけり
双眸に耕す広さありて老ゆ
冬近し死ぬときの言葉胸にしまふ
胡蝶の媚ひらめき終わりまた始まる
白蝶のおのれはずませ生きること
句集出せぬ摑むメロンが宙に匂ひ
子を抱いて大断層の上に出る


 が好きだった。死や家族、蝶が多かったのが印象的だった。
 阿部完市の句はまだまだ参考になるところが沢山あるため、また句集が手に入れば鑑賞したいと思う。

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 ここまで読んでいただきありがとうございました。他、句集や歌集等の感想、自作など色々上げておりますのでお暇なときにご覧ください。

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