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読書︰柚木紀子『岸の黄』

 色々な友だちと会話をしながら生活をして、ここ数ヶ月、僕は何にもなれないし、どこにも行けないのだということに漠然とした不安を抱いていた。ただ、どこかで、それは「ここ」を愛すことができる条件なのだろう、という期待もあって、浮き沈みを繰りかえし生きていた。

 その中で、結局、自分は短詩をやっていくうえで、何を良いものとして感受しているのかをやや見失っていた。これは良い、と思うことはあっても、何を以て、どこに、どれほど、良いと思ったのかが以前よりも不明瞭になった。別にこの状態が悪いことだとは思っていないけれども、このまま文章を書くのもどうだろう……と思い数ヶ月俳句と短歌の作品の創作以外の文章はあまり書かずにいた。

 そんな日々のなかで、とりあえずいい句を摂取して覚えようと思い、角川学芸出版の『覚えておきたい極めつけの名句1000』を電車に揺られながら読んでいると、〈花の雲ははのかたちにははの灰 柚木紀子〉という句に妙に惹かれた。ん、と思って、まあいいやとページをめくっていっても、どうしても頭から離れず……。

 ずっと思考がふわふわしたまま、句友と合流し三鷹の水中書店に行くと、柚木紀子『岸の黄』があり、これは共鳴ということなのだろうかと思いとりあえず購入した。
 帰宅後、ぱらぱらと読んでみると、非常に心を衝く章があり、なんとなく、今求めているのはこういう句集だったのだなと感じ入った。ちゃんと感想を書くとともに自分の思考をまとめたいと、心を急がせて書くことにした。

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柚木紀子『岸の黄』(平成二年、角川書店)

 最初に小説家の小川国夫による序文「柚木紀子の現在」が書かれている。そこで小川は〈野火よ吾はたましひの番を〉という句を引いてこう述べている。

 柚木紀子は決意を表明しているかもしれないけれど、そうとしても、一風変った決意といわざるを得ない。私にはそのことが徐々に解ってきた。彼女の採る方向は、何者かであろうとすることではなくて、何者でもなくなろう、とすることらしい。そうなれば、今まで見えなかったし聞こえなかった或る消息が、見えてくるし聞えてくるに違いない、といったていの思い込みであるようだ。
(中略)
 とにかく柚木は風景にまぎれていながら、自らを罠のような欠落にして、見えない人の姿や聞えないその声をフッと捕捉しようというのであろう。

 「何者かであろうとすることではなくて、何者でもなくなろう、とする」ということに納得がいった。季語やその世界に迫り触れるために、いないところから表現しようとする。この句集、不思議と立ち上がってくる主体が常にぼやけていて、でもその主体の眼差しだけは強く残るなあと思っていたから、なるほど、消えることで浮かばせているんだ、と分かった。

 そういう曖昧なことはまた最後にふれるとして、早速良いと思った句を鑑賞したい。できるだけ多く見ていきたく、そこまで深くなくさっさっと書いていく。
(「」内が章題、()内は本文ではルビ)

「鉧(けら)」

冬茜針の山から針を抜き

 この句集の最初の一句。冬茜、冬の夕焼けの短く赤らむ空が広がる。針をすっと抜く行為が、一瞬の赤さとこれから夜に変わる冬茜と重なり、静かで冴えた句。針が二度出てくることで冬の清冽さが映えている。

荒荒と鉧の冷めゆく月見草

 注に、「鉧=刀にする鉄塊」とある。「鉧」のらの音を考慮すると、「あらあらと」と読みたい。でも火を受け刀になっていくのを思うと、「こうこうと」(煌々と、に重なる)でも良いかと思う。月見草の小さく淡くぽんと咲く様子と、鉄塊である鉧が好対照でがつん、と景が息をしている。「荒荒と」が「冷めゆく」にかかっているのも、目が細かいなと感じた。

引鶴や炎さらにも明かしあひ

 この鉧の章は、刀鍛冶の連作である。この句では「明かしあひ」が向こう側に飛んでいる表現だと思う。春になり北に帰る鶴、そして炎はより強く何度も「明かしあ」う。それは火同士なのか、火と刀なのか、火と人なのか、それとも引鶴にも通じるような、われわれには不可知の世界との会話なのか……。「さらにも」というところに、火の深遠さが現れている。

「岸の黄(くわう)」

耕やこころの岸の黄そのまま

 煩雑になると思い入れなかったが、ルビは「耕(たがやし)」、「黄(くわう)」。内的世界を表すのに、「こころ」とそのまま入れるのは安易なものに終わりがちだが、「岸」という言葉と、「黄そのまま」の内容・リズムで、空間的にも時間的にも広さが生まれた。上五との景の交差で、不思議な場所を見られたような感じがする。
 栞として入っていた紙の中で、海程の解説より抜いている部分があり、その中で金子兜太は「俳句は一語で決まるとよくいわれるが、ひとつの言葉のよさがその俳句を決めてしまう場合が多い。「黄そのまま」の「黄」の一語。これは作ったというより言葉が湧いてきたということだろうね。湧いてきたときがこの句を決めているときだ。(略)こういう言葉がひとつ出てくるともう句が決まってしまう。」と書いている。この「湧いてくる」というのが、「耕や」と響きあって、ますます胸に届いてきた。

星とぶやインドの胡椒すりつぶし

 世界史の授業で、香辛料を求め大航海時代にはいろんな人がインドや東南アジアへ進出したのを習ったなあと思い出した。よく分からないが、インドの胡椒は辛そう。この中七下五の景に対して「星とぶや」なのが面白い。強引であるものの、さほど違和感なく受け入れられる。飛ぶように流れていく星と、より小さくなっていく胡椒が重なる。

ヨット迅し優しき舌はいのちの木

 注に「箴言十一」とある。あまり聖書には明るくなく分からないので調べたところ、箴言11の30に「正しい者の結ぶ実は命の木である、不法な者は人の命をとる。」とあるらしい。どこまで汲んで読めばいいか分からないが、単純にこの穏やかさと、海をすいすい行くヨットの相性がいいなと思った。最後に「木」で終わるのもなんだか良い。よく見ればi段の音が鏤められている気もする。個人的に、自分の名前が入っている句には目が留まってしまう。名前が季語である者の宿命であろう。

「卵の話」

母を焼くおほきなとびら花の昼
芽芍薬母の炎となりにけり
さくらふぶき灰に全きのどぼとけ
花の雲ははのかたちにははの灰

 この章は母の死に際した句群が並んでいる。あとがきから分かったが、柚木の母は脳死であると告げられた。

 脳死です、と告げられた母は、あたたかかった。零時の玻璃戸に、夜桜が揺れうごき、そばの機器に、この世を退きゆくものの心音が、なだらかな光の漣を綴っていた。喉もとにつながれた管を、ツツーと上ってゆく薔薇色のもの……その色は、かつて疎開先館林で、躑躅の花ごしに、遥かに眺めた東京炎上の空の色であった。
(中略)
あの終末光景を、母を通して見てしまった日から、生きながら死ぬ風狂のたましいは、焰の芯の静謐と照合し、一つになってしまっていた。

 母から見る火、そして死して火に包まれてゆく母。句が静かにその息詰まりと終末感を描いていく。

上に挙げた四つは連続して並んでいる。
母を焼く〉は、「焼く」というストレートな表現が重い。それを緩和するかのように中七下五が続いていて、娘としての主体の複雑な心境、ぽっかりとした心に訪れる花が明るすぎるくらいに映る。
芽芍薬〉は「なりにけり」という伝統的な描写が突き刺さる。「芽」という文字が希望のようにも思える。
さくらふぶき〉は、もう焼かれて終わった母、''母であったもの''と対峙しての句。「全きのどぼとけ」が、喜べる対象のように聞こえてしまうのも苦しい。灰と桜吹雪が似通って、春全体が母を見送っているような気持になる。
花の雲〉は、「のどぼとけ」に比べて抽象度が上がっている。「ははの灰」を通して、「はは」を幻視しているのであろうか。これは母の形なのだと認識するとき、「花の雲」はどのように心に影響するのであろうか。

そのあとにも〈清明の壺中にかさね母の骨〉、〈母の日の骨壺の向きすこし変へ〉、〈初螢柱に母がゐなくなり〉など、静かで些細で大きな母への感情が垣間見える切実な句が並び、章を通して春の季語が初々しく連なっていることも、僕には辛く、でも風のように吹き抜けていくような気持ちにもなった。

「眉間」

春あけぼの原爆ドーム未完に似

 この章は原爆投下を受けた広島への祈りが込められたものが並んでいる。栞にあった、「『麦』平成元年収穫祭」への応募作品「未完に似」への選評を見ると、〈春暁の原爆ドーム未完に似〉となっていて、上五が変わっている。まだ終わっていない、祈りつづけるのだという感情が強く現れていると感じる。「春あけぼの」とすることで、句に緩急が生まれて、より下五の印象が強まった。

聚まれば誰かの耳から夏の蝶

 発想自体は、詩的というか、探せば他にもあるだろうと思われるものの、なんだかこの句集の中にあることによって、妙にリアリティをもって入ってきた。「聚まれば」という接続が、繋がっているようでよく分からない論理の上に立っていて、だからこそ「耳から」が生々しく聞こえた。「聚」の字に「耳」が入っているのも、徹底されている。

父に雉啼きゐて濡れてゐない沖

 父と沖というと、〈沖に/父あり/日に一度/沖に日は落ち 高柳重信〉を想起する。父に対して雉が啼いていること、そして濡れていない沖。沖はそもそも、陸を離れた海域のことであるので濡れているかどうかでいえば確実に濡れているはず。だからこの「濡れてゐない沖」といった表現は明らかに空想に足を踏み入れている。「濡れてゐない」を、父や雉にかけて読むことは可能だろうが、それだと「沖」が唐突で不自然だと思う。
 空想というか、言表できない域に踏み入れた沖-雉-父の空間がなんだか魅力的に見えた。発音すれば分かると思うが、i段やk音がまとわりついて韻律も凄く変。父も雉も沖も、三者とも細かく述べられている訳では無いのに、それぞれが同居することによって不自然だけど成り立っている、逆に現実的な状況が生まれる。「ゐて」「ゐない」の存在の把握も、独特の世界を生んでいる。一句としての世界の立ち上がりと、そのための表現がものすごく好みだった。

「石塵」

エプロンに片はなむすび初あらし

 方はなむすび、よくスーパーで買い終わったあとのレジ袋にしたりする。蝶蝶結びの半分(認識、合っているだろうか)。この「に」は、ちゃんとしているな、と思うし、ちょこん、という感じが出ている。「初あらし」の持ってき方も良く、可愛らしくて、するすると入ってくる。要素は近いが、綺麗に収まっている。カタカナ漢字ひらがなのバランスも見事。

紅梅や石工がはたく石の塵

 季語のチョイスが良い。映像を一気に引き締めて、鮮やかな景が浮かぶ。「石工がはたく石の塵」、塵という語にはいいイメージは無かったのだが、これはなんだか格好良く見えて、紅梅と合わさってこの場所に居たい、もしくは「ここ」に居るみたいだ、と思った。

「黄の帯」

十若くなる鐘撞いて朝曇

 この句集では珍しい方の、面白めの句。中国詠のひとつとして並んでいる。この鐘をついたら十歳も若返るよ〜なんて、怪しさたっぷりだが撞く主体。「朝曇」なのもなんだか信用していない感覚が出ている。でもそんなに悪くない気もしている、感もあって、この季語は絶妙に落ちたなと思う。実際どうなんだろう、この鐘……。

「烟して」

高きより魚に塩ふる良夜かな

 類想どころか同じ句がふつうに存在しそうだが、ふつうに美味しそうだなと思ったし、良夜だなあと思った。高くからふった方が満遍なくかかる。魚は秋刀魚とかだろうか。おいしそう。

似かよひて火音水音竹の秋

 一読して「竹の秋」が上手い!と思った。火の音と水の音が似ているという鋭い発見から、映像を外に向けて拡げていく。竹の秋は、晩春の季語で、竹が春に黄葉することからそう呼ばれる。水も火も盛りに、栄養をたくわえていく竹、私たちの触れえぬ自然で何かがおこなわれているのかもしれない。

「驢馬の背」

花屑に母を踏みゆくおもひかな

 句集最後の句。モロッコやスペイン、ドイツなどの海外詠の後に続く。親の死のあと、その親を踏んで先に進んでいくような感覚を、花屑に覚える。「かな」が切に響く。

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 あとがきにて、柚木は、

〈私のために俳句がある〉という過程を経て、〈俳句のために私がある〉という境地を夢見つつ、研鑽をかさねてまいります。

 と述べている。なるほどなあと感じた。僕もそうなろうとか、僕はそうじゃないとかいう判断は、今はまだ明確には下せないけれども、作品のための私の在り様は、参考になるところが大きいなと思った。

 「卵の話」の章が本当に心を揺らしてきて、それをしばらく考えた。今までそこ(作品)に何が生まれたか、を見ようとばかりしていたが、そこまでに何を見たか、見ようとしていたか、そこから何を見つめているのか、という主体​──ひいては作者の、視線やまなざしというものにも大きな魅力があるのだなと、当たり前のことかもしれないがちゃんと気づけた。自分の中で読みが一段階深まるきっかけになった気がして、とてもいい本に会えたなあと読後じわじわと嬉しい気持ちになった。自分の創作にも還元していきたい。
 きっと、どこにも行けないということは、マイナスでしかないことだが、どこにも行けないからこそここが改めて光りだすものはあるだろう。どこでもドアを手にしたらもう二度とここには帰ってこないかもしれないことを思うと……。向こうを透かして見るような、澄んだ視線と、ちゃんとここにあるものを愛でられる余裕、その二つを漂流できる詩的感覚の平衡……上手くやっていきたいし、やっていけるだろうなと思う。

 自分の話が多くなってしまったが、いい読書だった。悩んでいる期間にスルーしていた書くべき文章をやっと書けるようになったため、こつこつ書いて行きたい。ここまで読んでくださってありがとうございます。

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以下、鑑賞はしなかったものの、他に良いと思った句群を並べておきます。

「鉧」

六月の指梳くごとき真砂砂鉄
明易し火と鉄と水一列に
立春や魚ならべしは獺か

「岸の黄」

赤鉛筆葭切きよきよと啼きにけり
啄木鳥や身のうちそとの仄暗き
青嶺遠嶺あふるるもののながれけり

「卵の話」

流氷を見てきて部屋にひとりづつ
風邪ごゑに鶴の卵の話かな
くらがりにさかなかさなる霧氷林
百千鳥母より枕はづしたる

「眉間」

まつすぐに眉間みぞおち春霙
秒音はあちらの世から花水木
たしかなるひそひそごゑやあめんぼう

「石塵」

鳥渡る陶の椅子にて記すこと
槐あかり以て丸の内一の一

「黄の帯」

花合歓やまつげの密に馬車の馬

「驢馬の背」

驢馬の背に芹あをあをと昼の星
ペテロの鍵わたくしの鍵冷まじき

(2019/4/10)

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