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瞑想と呼吸の90日チャレンジ(85日目)~こうでなければできない、って結局「こうでないとやりたくない」なんだね

85日目。

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さて、昔々、瞑想を始めた頃のお話。

先生も書籍も、瞑想する最適な条件は
「なるべく静かな場所で、いつも同じ場所で、
できれば朝、食事前に落ち着いた環境で」であった。
細かく言えばもっとあるんだけどね。

生真面目な私はその最適な条件で行いたかった。
というか、もう行うことが必須、みたいな。
そこで問題が起こる。

家で行う場合は家族に乱されることがあるのだ。

なんで今起きてくるの?
なんでテレビつけるかな?瞑想してるのが見えないの?
部屋が散らかってる!いつもスッキリしておきたいのに。

そう思うだけで心は乱れた。
イライラした。
〔自分の都合通りうまくいかないことに〕
〔本当は相手こそ迷惑なのだ。何もしてないのに。〕

そして現在、驚くべき変貌。
もうすでに朝はものすごく寒いから
窓は開けず、隙間風対策にカーテンも閉めたまま。
美しい朝焼けなんて今は低すぎて見えないし。
自分も厚着でもこもこ。

今朝なんて頭上には
豪奢な鯉のぼりさながらに均等にぶら下がる大量の部屋干し。

まったく気にならないことに気づいた。
それなりに頭は静まっていく。

そして気づいたのだ。

「こういう環境でなければできない」
ということに囚われすぎていたことに!

そしてあれ?と思った。
そもそも「瞑想」ってこうでなければできない、
そういうものであってはいけないよね?
と、目からウロコが落ちました。ポロッ。

でも大抵、落ち着いた静かな場所で
って言われてるから、そういうものだと思ってしまう。
刷り込みってすごい、いや、私の思い込みがすごいのか?

確かに初心者はその方が絶対いいんだけど
目指すのはどこでもできる集中力なのではないかな。

イメージって大切だけど
現実とあまり違うと苦しいよね
そういうのって不自由だな、って思う。

他の出来事もきっと同じだ。
色んなことに自由になっていければいいな。

で、また今気づくんだけど、
「こうでなければできない」は
「こうでなければ私はやりたくない」ということだ。
人や環境のせいで「できない」のではなく
「私はやりたくない」と思ったこと。
「やりたい」と思うとやれちゃうんだよね。

それに気づければ
色んな「できない」が変わってくるかもしれない。

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