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「友人と会うのがしんどい」の正体

友人関係についての相談を受けることがある。
ライフステージによる分断については拙著『そろそろいい歳というけれど』で長々と綴ったが、どうやら仕事やパートナーや子どもの有無にかかわらず「なんかぎくしゃくしてきたぞ」という現象が多発しているようだ。

仲がよかったのに、なぜかこの人といると心が疲れる、連絡をとるのが億劫になった、集まりに顔を出さなくなった......。

私も経験がある。
友人と会うのがしんどい時期。定期的に集まっている旧友との飲み会をスキップしたことも、気分の起伏が激しい友人と距離をあけてしまったこともある。
昔は一緒に悩んだり考えたりできていたのに、どうにも心が摩耗して連絡をとる気にならないのだ。

いくつになっても、人間関係は難しい。学生時代と違って頻繁に会えないうえに、職場や家庭での小さな問題はテトリスのように無情に積み重なる。お互いに波がある中で、いいタイミングといい距離感で友達で居続けることの難しさをひしひしと感じるのだった。

でも最近、偶然出会ったおばさまのひと言にちょっと救われたことがある。彼女とはフィンランドから日本への飛行機で隣り合った、本当に偶然の出会いだ。
乗り継ぎが無事に終わり、安心と疲労に包まれながら離陸の揺れに身を任せていると、窓から無数の湖が見えた。まだらに散らばった大小の湖は、青々しく茂った森と絡み合うようにして静かに空を映していた。

なんじゃこの神秘的な自然は、と興奮しながら写真を撮っていると「すみません」と遠慮がちな声が左から聞こえてきて、私は身を引いた。通路側の、メガネをかけた淑女が iPhoneのレンズをかざしていた。 
あいにく飛行機はあっという間に上空へと上がり、彼女のフォルダには雲がかった写真しか残らなかった。私は興奮したまま「私の写真、よかったらどうぞ」と土産物のまんじゅうを配るかのごとく、素人の空撮をエアドロップした。彼女がにっこり笑う。左右対称のきれいな八重歯がのぞいた。

八重歯のおばさまは、かつてボーナスをすべて海外旅行につぎ込むほどの旅好きだったらしい。なんと一人でメキシコやケニアも訪れたという。スマホもGoogle マップもない40年前に。 

結婚し、3人の娘の子育てを終え、コロナ禍も落ち着いたため数十年ぶりの一人旅を再開したそうだ。今回の旅程は、フィンランドに住む長女の家に数日滞在したのち、ポーランドに1週間ほどステイ。
死ぬまでに一度訪れたかったというアウシュビッツ強制収容所のツアーの話から日本での週末の過ごし方まで、いろいろな話を伺った。食と仕事が生きがいの夫は今回はお留守番だったこと、週末は犬の散歩をしたり英語の勉強をしたりして楽しく過ごしていること、専業主婦になってから税関で「無職」と書くたびにもやもやすること。

彼女は郊外に居を構え、学生時代の友人やご近所さんなど種々のコミュニティで不定期に集まっているようだった。

そこで私はどうしても気になって、友達付き合いについて尋ねた。

「ステータスや環境の違いのせいで友人と疎遠になることってありませんでしたか?」

 嫌な思いをさせただろうか、と左隣を見たが、彼女は気分を害した様子もなく少し間をあけて答えてくれた。
「本人が幸せかどうか、が一番大事ねえ。幸せな人とは友情が続くかな」

 幸せな人とは友情が続く。なんとなくわかる気がする。だが、まだ真意はつかめない感じ。八重歯のおばさまは身近な例を挙げて言葉を続けた。
インスタを始めてから外食や旅行の写真をアップしていると、毎回のようにコメントをくれる友人がいた。その人はメッセージのやりとりをするたびに「いいなあ、私なんてお金も時間も余裕がないから行けないわ」と伝えてくる。
それに嫌気がさしてSNSに写真をあげることはやめた。自分が気を遣わなければいけない人とは、どうしたって自然に距離があいてしまう、と。

凡百な例ではあったものの、そういうことか!と心の中のドンキーコングがドコドコドコと膝を打った。
友人と過ごしているのに、居心地の悪さを感じる瞬間。心を削りとってくる敵の正体。かすかな生臭さを放つ「奴」の姿が見えた気がした。その正体は、自分か相手、もしくは両者の「私は不幸」という薄暗い感情ではないだろうか。
卑屈さや妬み嫉み、「どうせ私なんか」といういじけた気持ち。
そのかすかな痛みに蓋をしたまま無理に誰かと会話を続けると、痛みは粘着質のぬかるみとなって自分の外に表出する。
言葉が空回りしたり、とげとげしい態度をとってしまったり、自分や他者を卑しめるような発言が口をついたりする。
思い返してみれば「私はこんなに大変なのに」「私は今、痛いのに」という泥を丸めて、大事な人に投げたことがある。投げられたことも。

誰にも会いたくない、と引きこもっていたあの時期、どうせ誰かに会っても今は泥だんごをぶつけてしまうだけだ、と私は知っていたのかもしれない。

だとすると、心の不調期に友人との会合を控えるのは「拒絶」ではなく、むしろ思いやりに近い自重の念とも解釈できる。
人は、人目につかない場所にたくさんの事情や傷を抱えている。不幸というものは、波のように満ち引きして、私たちの足をすくいとる。友情だって流れ動く ものじゃないだろうか。絶えず押し寄せる幸と不幸の波間を、よろめきながら歩 く自分。同じように歩んでいる他者。

その二人の距離感を固定しようとすれば、 そりゃあうまくいかない。連絡が途絶える時期や会わない時期が生じるのは自然なことで、健全なこと。
人間関係とは断続的で流動的なものだと、お互いに思い置きながら付き合うことが、長い人生で友情を持続させる唯一のコツなのかもしれない。 


3/18発売「私たちのままならない幸せ」後半のコラムより抜粋


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