郭アルバム

KAWASAKI2 ~ME, WE~ 師匠からの応答

KAWASAKI2 ~ME, WE~
FUNI

師匠ーから
俺の情報に対する応答が来た

ていうか俺のアルバムを聞いた殆どの
人間からは返信が来ない

おそらくどう感想を述べたらいいかわからないはず

もちろん簡単に返答できるように作ってもないし
求めてもない

本当に真剣に向き合った作品は
本当に真剣に向き合って応答しなければということなんだと推測する

俺は何も恐れていない
ただ
死ぬ気で
まだ見えない未来を
確信という形に変えたいだけ
それだけ

そして
屍を超えていく

師匠からの
応答

俺に舐められたくないんだなってのはわかった
お互いにお互いの仕事をやるのみですよ

しかし
相変わらず言葉難しくて
わっけわかんね汗

修行修行

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「いまだ知られない技に心を打ち込む」(『若い芸術家の肖像』ジョイス)。いままでのやり方が通用しない。前例から学び自分の予想の範囲内でことに当たればOKという時代ではない。だから、だれであれ、自分の「生が生きていない」日々の状況からずれて逃げて行くためには「いまだ知られない技に心を打ち込む」必要がある。しかし、それができる人、そういう瞬間にかけられる人は多くはいない。でも、多くの人は、そういう人が発する言葉で、少し息継ぎできたり、自分のなかの「生」が少しだけ息を吹き返したりすることができるのだろう。
 時代のキシミが全体に響き渡っている。でも、キシミの響きはキシミだけで占められていなくて、なにかを「待つ」感じだったり、なにかがほのかに顕れるようだったりする。そのように感じる。「希望」という言葉は陳腐にすぎるし、アウシュビッツのあとでは「人権の概念は、・・・人間が国家によって保証された権利を失い現実に人権にしか頼れなくなったその瞬間に崩れてしまった」。そういう時間のなかを生きる者は、闇のまっただなかになぜか顕れる、か細い、だからこそ鋭い光に目がくらむ。
 「くらっ」という魂とからだのゆらぎが、全体に響き渡っている。収録された「叫び」を包み込むようにゆれる何かは、発せられる言葉そのものもさることながら、そのトーン、調性にあらわれている。昔、だれかがガリレオに言わせていた。「ヒーローがいないことが悲劇なんじゃない。ヒーローを求めることが悲劇なんだ」。
 「ある」ことよりも、「ない」ことが語られている。10代のときに、あなどれないおとなに、「この世界と数行のことばとが天秤にかけられてゆらゆらする可能性を前提にするわけにはいかなくなっている」と教わった。そのことが裏声に響いているように感じた。「いまだ知られない技に心を打ち込む」姿勢がそのことを担保しているのではないか。

みなさんのサポートでより一層ぶっ飛んだ行動ができます。一片の悔いも残らない程ぶっ飛ばしていただければ幸いです。