がんばらなくていい

僕が過去に本気で「死にたい」と思ったことが二回ある。

一度目は中学校二年生のときで、二度目は浪人中だった。

その人にとっての重大な悩みが他の人にとってはどうでもいいことだったりすることはよくあるだろうし、それはおそらく誰もがわかってることだと思う。たぶん悩みの絶対値なんて無くて、あくまでその人の相対的なものでしかないんだろう。ちいさな虫をはたいたら死んじゃうかもしれないけど、ゾウとかサイとかをはたいたら気持ちよく思ってくれるのかもしれない。それはおそらく誰もがわかってることだと思う。

一度目に「死にたい」と本気で思ったときのことを思い出す。こまかくは覚えてないけど、さっき言ったように、いま思うと大したことじゃなかったなあと思う。それは中学二年のころだったけど、自分のことを好きだと言ってくれる女の子がいた。とても好きでいてくれたみたいで、周りにいた女の子からも「とても好かれてるね」といつも言われた。いまの自分だったらありがたいなあとか思うのかもしれないけど、全然タイプじゃなかったし本当にどうでもよかった。むしろしつこいその子を見るといらいらした。好きでもない子にしつこくされるのが僕をいらいらさせた。だから僕はその子が嫌がることをした。

ある日はその子の電子辞書をこわしたし、他の日にはたぶんもっと嫌がることもいくつかしたと思う。そうしているうちに、それが担任の先生にばれて呼び出されることになった。それでこっぴどく叱られたけど、あんまり深く考えてなかったし、大丈夫だと思ってそのままやめることはしなかった。途中は省略するけど、結局それが大問題になって、いじめだと認定された。自分はいじめのつもりではやってなかったけど、ふりかえると確かにいじめだったと思う。

学校から処分を受けて、先生たちからは冷たい目で見られたし、両親は叱りながら泣いてたのを覚えている。つらかった。というのも、小学生のときから模範生として生きてきて、人から期待される自分の人物像を自覚してたし、それを裏切ってしまったことへの罪悪感だったり、親を悲しませてしまうことへの申し訳なさ、なんであんなにつらかったのかを詳しくは覚えてないけど、言葉にして表すとしたらこんな感じだと思う。思えば、いまの心持ちでそういう事態になっても何も動じない気がするけど、中学生の自分にとってはそれが本当につらかった。それに、担任の先生がこわいというか理不尽だったのもあって、その件とは全然関係ないところで先生に頻繁に嫌がらせされるようになったのもつらかった。大人は正義とかそういうのをしっかり持ってて、いつも子供の模範としてあるものだと思ってたから、先生から他の人の罪を着せられたり、あるいは何もしてないのに罵声を浴びせられたりするのも耐えがたかった。そういうわけで本気で「死にたい」と思ったんだろう。


次に「死にたい」と思ったのは一浪目のとき。中学受験で中高一貫校に行って、そのまま高校に進学し、あんまり勉強はしなかったけど、定期テストとか模試とかでもちょっと一夜漬けすれば悪い成績はとらなかったし、それこそ「挫折」を知らなかったから、いざ大学に落ちて本当に浪人するってなったときはつらかった。それでも何とか頑張ってはいたんだけど、ちょうどそのときに失恋もした。あんまり言うのは憚られるけど、自分が本気で好きだった子が、ある人にとってはただの性欲の処理のための相手でしかなかった。でもその好きな子にとってはその相手のことが心からすきだったみたいで、どんなにその子のことを思っても、その子を身体目的でしか見てない人にまったくかなわないのかと思うと、またつらかった。浪人中に失恋して、ちょうどそのとき予備校の同じクラスの人達に嫌がらせをされはじめた。いま考えても何で嫌がらせされてたのか分からないけど、集団で嫌がらせされたらさすがに心に来た。そういうこともあって、二回目の「死にたい」を考えた。

一回目も二回目も、どっちの「死にたい」も本気でつらかった。最初に言ったように、「悩み」は人それぞれだし、同じ自分であってもその悩みを何年か経って振り返るとささいなことだったりするけど、その時の自分は本当につらく思ってたし、「もし何年後かに振り返ることがあったら、ささいなことだと思うかもしれないけど、つらかったことだけは忘れないようにしよう」とそれだけは強く思っていた。

そういえば二浪目はまったくつらくなかったけど。

ここまでの話で言いたいのは、こういうつらいことがあったんだよってことだけで、そこから共通点とか本質とかを見出そうとかって話では全くないのだけど。

上に言ったようなときのことを思い出すと、あるいはそれだけじゃないし色々ありはしたんだけど、いまの自分は強い気がする。たぶん多少つらくても「死にたい」とは思わない気がする。今までの「死にたい」を思い出すと、それを乗り越えた自分ならなんとかなると思える気がする。周りを気にしなくなった。周りからいろいろ言われても気にならなくなった。周りに笑われても、あるいは踏まれたり蹴られたりしても、気にしなければつらくない。気づかなければ痛くない。周りを気にするだけ無駄だと思う。周囲から期待される自分の理想像とか、社会的規範とか、そういうのは全部捨てたらいい。不謹慎って言われるもので笑えばいいし、タブーと言われるものもどんどん話題に出したらいい。不要だと思うしきたりに従う必要はないし、したくないことはしなくていい。したいことをまずすればいいし、明日できることを今日やる必要はない。まずは自分の感情を大事にすることだと思う。人を思って、人のために動く必要はない。自分のことを思ってくれる人、大切に思ってくれる人は必ずいるんだから、その人を大事にしたらいい。どれだけ周囲の期待とか望みに応えたところで、周囲は自分を「大切に思ってくれる人」ほど思ってはくれない。誠実さは利用されるだけ。だったら、利用されるくらいなら利用したほうがいい。

これはちょっとだけ嘘だし言いたいことの本質からはずれてるけど、僕はそんな気持ちで生きている。ただもうちょっと丸い言い方というか言いたいことに話を寄せようと思う。

ひねくれた自分にらしささえ感じるくらいには斜めから見ているのかもしれないけど、そこまでする必要はないが、もう少し気楽に生きた方がいい。みんな頑張りすぎに見える。

先日、自分が大切に思ってる人との価値観の違いに気付いた。その人は自分らしさを、他人からの見られ方に依存していた。人からどう見られるかを過度に気にしているように思われた。たぶん何を言っても伝わらないと思うし、人の価値観を変えようとかって大それたことは思ってもないけど、あんまり気張りすぎないでほしいとは思った。もうちょっとわがままに生きたらいいし、そっちのほうが楽しいと思う。どんなに頑張っても、きっと周りはそういう人なんだと思うだけで別にそれ以上のことはないし、逆にもう少し気を抜いたところで評価は下がらないと思う。他者の目線なんてしょせんはそんな感じ。

ばかみたいにまっすぐに正直に生きるひと、がんばってがんばりすぎるひと、それでちょっと無理したりきつくなったりつらくなったりするひと、そういうひとがたくさんいると思うけど、応援するときの常套句「がんばれ」が嫌いな僕が「がんばらなくてもいいよ」という言葉をそのひとたちに届けたい。





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