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2021/09/09

9月の中旬に、日帰り温泉旅行に行く予定だった。
友人たちと5人。
ハイキング (?) をした後で入る温泉はすごく気持ちよさそうだし、そこまで暑くもない気候だから、私自身割と楽しみにはしていた。
けれど、私は行くのを辞めた。
理由は単純。
そこから人数が増えたからだ。

昨日の夜、日記を書き終えた後、その勢いで自己紹介を更新した。
私を構成するくだらない情報を増やした。
PCを閉じて寝る前に少しバイトの予習を進め、疲れてきたので横になる。
スマホを眺めていると、その旅行のためにできていたグループの人数が1人増えていることに気がついた。
見ると、誰とでも仲良くする友人が、1人知らない人を招待していた。

とりあえず何者なのか知りたくて、そのグループの1番信頼のおける友人に聞いてみた。
「友達だよ」とのこと。
フルネームを尋ねると、一度聞いたことのある名前が返ってきた。
あーそういえば「良い人だよ!」って言われていたっけ。


知らない人だから、その新しく招待された人についての印象は「無」だ。
普通の人は友人の紹介で「良い人だよ!」と言われた人は良い人なのだと素直に受け取るのだろうな。
けれど私にとって「良い人だよ!」というフレーズは「明らかに危険な思想を持っている可能性は低いし、直ちに害を為す可能性は低い人だよ!」以上の意味はない。
つまり「良い人」であることはある意味「当然満たしているべき必要条件を満たしている人」であると言うことができる。(あくまで私の中だけで。)

友人は「性格が良い」という風に言いたいのかもしれない。
優しい人だとか、明るい人なのだと。
だけれども、性格の良し悪しなんて、結局は (少し言い方が悪いけれど) 当人にとっての都合の良し悪しだと私は思っている。
極端な例を持ち出せば、裏社会の武器商人は、私たちにとっては関わりたくない存在だけれども、裏社会で生きる人々にとっては是非とも関係を持ちたい存在になる。
それと同じようなものだ。
私はあくまで「私にとっての良い人」と仲良くなりたいのであって「世間一般の良い人」や「あなたにとっての良い人」と仲良くなりたいわけではない。

もしかすると「善い人」だと言いたいのかもしれない。
人の悪口、陰口を言わないとか、人のものを盗まないとか、宗教の戒律で定められてそうなことを全部守る人なのだと。
もしもそうだとするのなら、私が抱く感想は1つ「どうでもいい」だ。
もし仮にそこまで聖人のような完璧な人が来ても、息苦しくて私は窒息してしまう。
そして真逆のような人はそもそも「良い人」とは言われないだろう。
つまり、この意味で「良い人」というフレーズが使われた場合は、結局何の情報も無いのと同じか、息苦しい人である可能性が渡されただけのことになる。


私が聞きたいのは「良い人かどうか」ではなくて「どんな人なのか」だ。
普段どんな風に過ごしている?
何が好き?何が嫌い?
どんな風に話す?
何を大事にしている?
そういうことが聞きたいし、私は他人に友人を紹介する時、そういうことを伝えるようにしている。
「良い人です!」は「犯罪に手を染める可能性は今のところありません!」ぐらいにしかならない。
もっといえば、良い人かどうかなんてどうでもいい。
私が仲良くしたいと思うかどうか、そしてそれを相手が受け入れてくれるかどうか、それが全てだ。


にゃんたこさんのエッセイを読み進めている。
脱力と真面目さがいい塩梅で調和しているから、とっても読みやすいし面白い。
またお気に入りの節が見つかったので、少し紹介したい。

1つ目は「ほんの一面としてのショートパンツ」という節。
なんといっても帯にも書かれている言葉が印象に残った。

本当に、年齢なんて、私の一面に過ぎないのだ。容姿、学歴、家柄、趣味、住んでいる場所、持っている資格、奥歯にかぶせられた銀歯、変な方向に曲がっている左の親指、胸の下のほくろ、私を構成するすべてのものも同様に。

ほんの一面をその人の全てだと思い込むのは悲しい。
けれど、防衛の意識からか、SNSで簡単に人と繋がれるようになった分だけ、私たちはそんなことを忘れてしまった気がする。
私たちは昔よりもずっと、簡単に人を遠ざけられるようになったと思う。
ほんの一面だけを見て「この人は嫌だ」とか思うようになってしまったような。
昔のことなんて想像するしかないけれど。
やっぱり人をある意味で評価するためには、長い時間をかけて、じっくりその人の色んな面を知っていくしかないんだろうな。
大人になれば、そんな時間的余裕はなくなるのかもしれないけれど。
私は人のほんの一面だけを見て、人を評価する人になりたくないな。
私もにゃんたこさんのように、そんな悲しい価値観には抗い続けたい。

2つ目は「理由なんてない」という節。
この節の中で、にゃんたこさんは共感されることに否定的だけれど、私はそこにすごく共感してしまった。

なんとなく昔から、ひとりでいればいるほど、傷つけば傷つくほど、優しい人間になれると思っていた。
(中略)
だから「どうして?」と聞かれるような選択ばかりしてきた。共感されるより、否定されることを望んだ選択ばかりを。否定されたい、というわけじゃない。ただ、安易に肯定されたくなかった。

心の中にずっとあった不定形な何か。
それの輪郭をようやく捉えられたと思う。
私も、独りでいた分だけ、傷ついた分だけ、優しい人間になれる気がする。
そのためか、今まで「それ」の存在を感じることはあったけれど、明確に認識して、言葉にすることはできなかった。
けれど最後の2行「否定されたい、というわけじゃない。ただ、安易に肯定されたくなかった。」は「それ」に言葉の輪郭をはっきりと与えた。
私も人から否定されたり、首を傾げられたりすることが多い。(自己紹介にもある通り。)
そうか、安易な肯定を避けていたから。

私とにゃんたこさんは全然別の人間だから、これが私に完全に当てはまるわけじゃないだろう。
現にその節の後半部分の「未熟な一人」の考えはあまりピンときていないし、引用文の直後の部分も、共感できなかった。
しかも、今の私は共感されると嬉しいことも増えた。
けれど、確実に私の中に存在している、正体不明の私を少し明らかにしてくれたことが嬉しかった。

もうこのエッセイも第3章まで読み進めてしまった。
残り少ないページ数。
今まで同様にじっくり味わっていきたい。
私の心の中に、いつまでもとどめておきたい。


今日1日、なぜかNeruさんのテロルが頭の中でループしていた。
にゃんたこさんは、世の中のものは何の理由もなく唐突に始まって終わることもあると書いていたけれど、私の日記はきちんと理由があって、その中の一つに「今までで獲得した自分を大事にしつつ、自分の心を取り戻す」というものがある。
その「自分を取りもどす」という部分にテロルの歌詞が重なった。

昨日くらいまで、Neruさんの曲を聴くと辛いことを思い出すから聞かないようにしていた。
けれど、今まさに自身の心を奪い返さんとしている私には、テロルはなにか懐かしく思えて、同時に自分を奮い立たせることができた。

そういえばあの時の私は、友人だったあの人に軽くあしらわれたこの曲に救われたんだった。

大丈夫、私は上手くやれている。
私の大好きな歌。
まだ少し辛い感情がよみがえってくるのが怖くて、ちゃんと聞くことはできないけれど。
いつか失った自分を取り返せたなと感じられた時、この曲を聴けるようになってたらいいな。



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