気風のない言葉

坂口安吾は、『諦めている子供たち』というエッセイの中で「新潟の方言にはまるで唄うような抑揚があって、是が非でも納得させたいと哀願しているような哀れさと同時に自分自身を小バカにし卑屈にしてもてあそんでいるような諦めとユーモアがある。」と述べている。新潟と言っても南北に幅があり、上越と下越では言葉や節回しに多少ならざる違いがある。とはいえ、「自分自身を小バカにしもてあそんでいるような諦めとユーモア」には大なり小なり共通項があるようで、自分のこっけいさを表立ってひけらかすことで人様から金銭を巻き上げよう、といったようなやくざ的刹那的考え方の人間は少なく、なにか滑稽を思いついたところで飲み込んでしまい、消化し、無かったことにするかふつふつと内燃させるか2つに1つのようである。現に、ここ四半世紀で「新潟県出身者で、全国ネットのお笑い番組で最も顔の知られた/名を馳せた、芸事をで披露することで収入を得ている人間」という枠組みで筆頭に名前が挙がるのが「林家 こん平」である。毎週日曜日の夕方5時45分から、オレンジ一色に染められた地球で1枚の着物をまとい、自己紹介の折にかならず「ちゃんらーん」という奇声を上げることで一定の人気を博した林家 こん平である。林家一門特有の人畜無害具合を表に出した芸風で一世を風靡したが、「ちゃんらーん」のやり過ぎ、「ちゃんらーん」による負荷が祟ったのかはわからないけれども林家 こん平は大病をしてしまい、誠に残念ながら高座に上がることがままならなくなってしまったのでそのポストを弟子筋の林家 たい平に譲った。

ただ、あくまで主観になってしまうけれども、皆に期待をされながら毎週毎週「ちゃんらーん」と大声を挙げるおじいさん、はとてつもなく面白く、これを超える突飛かつ瞬間最大風速を叩き出す人間というのは新潟県からは生まれていないようである。比肩できるのは、クルマで公道を猛スピードで競争させる脱法マンガを週刊誌で連載していた「しげの 秀一」ぐらいなものだ。

しかしながら、上記の2人ともメディアに露出する際に「新潟弁」を使用しているわけではない。思うに新潟弁というのは非常に内発的・思弁的な言葉で、くぐもっているからなかなか世に出す上で支障があるように思う。とっかかり・ひっかかりのある部分がそれほどない。上方言葉/江戸言葉のようなリズムや気風のよさは感じられない。茨城・栃木あたりにはいわゆる北関東のヤンキーを押し出して漫才をやる人達もいるし、大阪から西、広島、福岡、高知なんかはそれぞれ特色もあってエセでも付け焼刃でもなんとなく口調は再現できる。東北弁も吉 幾三が赤ら顔で「生まれ青森五所川原  いっぺん来てみなが」と思い切りデフォルメ・カリカチュアをかましていて、おらは田舎もんでござい!で世に出た。北海道においては劇団「Team Nacks」が地球で一番おもしろいとしている人たちの後押しで、ご当地番組が全国の地方局で放映されているし、沖縄だって「ガレッジセール」がちゅらさんとワンナイの2000年代に日本バラエティ史上における金字塔を打ち立てた。津々浦々の地方出身者が、故郷の特色をひっさげて都に殴り込んでいる。しかしながら、「新潟弁」を喋ってみよ、真似してみよと言われてピンと来る人間は少ないだろう。そしてもし、出身者に「新潟弁」ってどんなふうに喋るの、と振ったところでいやはや、みたいな顔でやり過ごされるのが落ちである。自己表現が下手くそなのである。

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「おまんなんせってんだねそんつらもん」と言えば標準語で「貴方何をバカなことを仰っているのですか」となる(冒頭でも述べたように新潟も南北に広いので、私の育った上越地方と長岡、十日町、三条といった中越、新潟市を中心にした下越でも言葉がちがうのだが)。江戸弁の「おめぇ何くだらねえ事言ってやがる」大阪弁の「自分何をしょうもないこと言うとんねん」に比較して腕をまくる・唾が飛ぶような気風がなく、どことなく「相手に聞こえないように」自己消化的、地を這うような蠕動的なよそおいがある。相手を罵倒するようなフレーズでさえそうなのだから、発声としての自己表現には凡そ不向きの言葉のようであり、メディアの波にほとほと弱い。私の中にもこのようなレッドデータランゲージを遺していこう、というような気概があるわけでなく、ただ自分の言葉としてあればそれでよい。諦めであって、ケッ、という風情が性に合っていて、じつは割りと好きである。

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次回はビートたけし『アナログ』について書きます。

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