インドネシアの推しのバンドーDISCUSに関するあれこれー(5)

2005年のDiscus

(*CDリリースの話は落ち着いたので、今回からタイトルを変えました)
Museaからワールドワイド盤がリリースされ徐々に知名度を上げていくDiscus。プログレッシヴ・ロックのバンドとしては出身国のユニークさからも各媒体から注目され、欧州のフェスにも招聘されます。映像でもよく知られているZappanale出演もこの流れにあるのですが、このあたりの事情については当時のTempo誌の記事で端的にうかがえるので、ベタ訳+一部意訳、にて紹介したいと思います。まずは前半のProgSol編。

Tempo 2005年10月30日号

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「バーゼル ー ヴュルツブルク 懐古趣味に抗う道のり」

Tempo 2005年10月30日号 149~154頁

Discusはインドネシアのロックシーンに於いては特異な存在だ。ここ(インドネシア)ではポピュラーではないが、各国のプログレフェスでは歓迎を持って演奏の場を提供される。好意的に言えばDiscusの音楽は懐古趣味ではない。彼らは単なる「プログレの伝統の中にある切れ端」ではないのだ。今回用意された大舞台。2005年10月、彼らはスイスとドイツで開催された2つのプログレ・フェスに出演し、翌年には故フランク・ザッパを称える大ロックフェス、Zappanaleに出演の可能性も開けてきた。Discusの欧州ツアーに同行したTempo誌記者セノ・ジョコ・スヨノがその様子を紹介しよう。

(同誌149頁)

現地時刻朝6時、彼らがチューリッヒに到着すると、空港では既に二人の人物が彼らを待っていた。一人はProg Sol又はスイス・アートロック・フェス代表のDominik Sehoni。もう一人はスイスのプログレレーベルGalileo Recordのオーナー、Patrick Becker。スイスの誇るプログレ・フェスへDiscusを招聘した当事者だ。彼らは自ら運転する車にDiscusを乗せ、3カ国の国境に面した町、バーゼル郡プラッテルンに向かった。行程は1時間。道の所々に踵の高さほどの雪が残り寒さが肌をさす。「Z7」とよばれる彼らの演奏会場は、バーゼルの中心であるバーゼルシュタットからは少し離れた工業団地の中、古い建物が並ぶライン川のほとりにある。到着して目に入ったその建物は「古い倉庫」で荷物の積み下ろしに多数のトラックが往来していた。
「先週Barclay James Harvestが此処で演ったよ」Patrickが著名英国バンドの名を語る。
「Z7」の前にある壁はグラフィティーで一杯だ。外からは目的の会場と認識できる目印は全くないが、中に入ると格納庫並の広さ、ステージはジャカルタ芸術劇場に比べても十分に広い。2つのミニバーにはZ7で演奏した、メタル/ハード系、そしてプログレを含む70年代から90年代までのミュージシャンのポスターがいくつも貼られていた。名を上げるとAlan Person’s Project、Ritchie Blackmore、Uriah Heap、Jethro Tull、Kansas、Procol Harum、Spock's Beard、Gamma Ray、Stratovarius、Porcupine Tree等。
Discusとの共演者はスウェーデンのLiquid Scarlet、イタリアのThe Watch。3グループが掲載された白目の女性のポスターはMark Wilkinsonの作。Patric曰く、Mark Wilkinsonは著名グループMarillionのFugaziからScript of Jester Tearsまでを担当したイラストレーター。彼は2003年のProgSolでの展覧会に招かれ、現在も関係を継続している。
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 ゾロトゥルンの街で誕生したイヴェント"Progsol"はProgressive Solutionの略であり、新しくイヴェントでありながら「シリアスなロック」を好む愛好家を惹きつけている。
2002年に開かれた初回ではスイスの4バンド:Travel Mind、Deep Thought、Thonk、Ertlif、そしてフィンランドのLest、オランダのHigh Weel、イタリアのMoon Gardenらが出演した。第2回はスペインのOmni、日本のArs Nova、フィンランドのEx Vagus、そして古典ロックのシニアであるオランダのFocus。そして3回目の昨年はスウェーデンのGalleon、スイスのIrrwisch。
そして今年からは、より多くの聴衆を呼べるよう、既に各国ミュージシャン招聘の定位置となっているバーゼルの「Z7」に会場を移転した。
因みにこの年のProgsolは音響エンジニアを元KrokusのベーシストJurg Naegeliが担当。サウンドチェックの才能に満ちた彼は会ったばかりのDiscusのメンバー達とまるで旧知のように握手を交わした。
会場に訪れたオーディエンスは数百人。最初にステージにたったのはLiquid Scarlet。楽曲はMoody Blues風。次のThe Watch はパントマイムを伴う白塗りのヴォーカリスト、演劇的なステージング、メロトロンやムーグの使用などガブリエル時代のGenesisの影響が濃く、耳に馴染む。

(同誌150頁)

The Watch

そしてトリがDiscus。オープニングはKi Narto Sabto作曲"Gambang Suling"のロック的解釈である”Contrast"。バティックのガウンを纏ったヴォーカリストのYuyunはそのエレガントな佇まいで聴衆の目を引き付ける。驚くべきは複数の曲が既に馴染みとなっている様子で、特に"System Manipulation"の冒頭では聴衆も一緒になって詠唱を追う様子が見て取れた。
Discusが始まる直前話しかけてきたチューリッヒ在住の生物学専攻の学生はこう語る。「彼らは全く独自のスタイルを持っていて、色んな要素を混ぜていながら破綻せず、演奏力も構成力も高いね。」 やや長めのThe Watchの演奏が終わると彼は待ちきれないようにステージに向かった。

(同誌150~151頁)

ProgSolでのSystem Manipulation。
記事とは裏腹に、少々危なっかしい演奏になってしまってますw


インドネシアのロックの歴史においてDiscusは特異な存在といって良いだろう。Godblessのように有名でなく、ましてやEdaneやBoomerangとは比較にならない。にも関わらず彼らは「国際的なコミュニケーションを持つ唯一のバンド」と言える。海外公演はスイスでのフェス出演が初めてではなく、既に米国とメキシコでの演奏経験がある。
今回のツアーに同行したPadiのヴォーカリストFadlyはそんな彼らの様を「偉業」だという。通常、国内の著名グループが海外公演を行うのは、外地にいるインドネシア人の学生や大使館の招聘によるものが普通だからだ。
"Nanggroe"とマカッサルの童謡を再構成した曲でヴォーカルを担当したFadlyは「僕はDiscusの見習いだよ」と謙遜する。

(同誌151頁)

▶Padi:デビュー当時は第2のDEWA19とも言われた大メジャー級バンド。

インドネシアの音楽市場で彼らが無名である理由は、選択したそのジャンル、即ち楽曲とテーマを重視した複雑な音楽とみなされる"プログレッシヴ・ロック"だからだ。
実はDiscusは「インドネシア初のプログレ・バンド」ではない。Godbelssのアルバム"Cermin"やGuruh Gipsyは極めて複雑な(プログレ的な)音楽性を十分持っていた。しかしながら彼らが海外へ進出することはなかった。
Discusの国境を超えた成功、これは「海外のレーベル」からの2つのアルバムのリリースを抜きにしては語れないだろう。1StアルバムはイタリアのMellow Recordsから1999年に、そして2nd"...Tot Licht!"は2003年にフランスのMuseaからリリースされた(訳注:実際のMusea盤は2004年)。
Mellow RecordsのMauro Moroniは、米国のプログレ誌"Expose"の代表であるPeter Thelenに「レビュー用」としてCDを送付したのだが、これを聴いたThelen氏は、早速2000年のMenlo Parkで演奏するようDiscusに依頼。更にProg Dayの主幹Peter Renfroにも推薦し、"Prog Day"と"Knitting Factory"への出演が実現する(▶米国ツアーについては第2回参照のこと)。更に翌2001年にはメキシコ最大のプログレ・フェス"Baja Prog"にも出演(▶第3回冒頭にビデオあり)することになった。

(同誌151頁)

続いてリリースされた2ndアルバム「...Tot Licht!」はミクスチャーミュージックの試みとして、多くの海外レビュワーの支持を受けた。こうした評価の背景にはDiscusのメンバーが持つ資質がある。Iwan Hasanは米国ウィラメット大学で、クラシックギターやジャズのインプロヴィゼーション、作曲に加え、Jon Doanからハープギターを学んだ。彼は室内楽からジャズのビッグバンドまで経験した後インドネシアに帰国する。帰国時に持ち帰った彼自身の手になる楽曲はYazeed Jamin指揮によるるヌサンタラ・オーケストラの候補曲にもなった。
1995年、巨匠Franki RadenはIwanにMerah Putih楽団の指揮を依頼するが、此処でIwan Hasanはクラリネット奏者のAnto Praboeと出会う。ジョクジャカルタ芸術大を卒業し、ジャカルタ交響楽団を始めとする幾多のオーケストラで活躍するAnto Praboe。「実験精神のないオーケストラでの人夫役」に「飽き飽きしていた」彼はIwanの「ロックバンド結成の誘い」を快諾した。
更にIwanは高校の学友でバンドSea SerpantのメンバーでもあったFadil Indra、そしてストリートミュージシャンであり、シアター・コーマでも活躍していたヴァイオリニストのEko Partitur、更に追加のキーボディストにKrisna Prameswara、ベーシストにKiki Caloh、ジャズのバックグラウンドを持つドラマーHayunajiをメンバーに加える。
ヴォーカルは初代はNonnieが担当したが、2ndアルバム制作後は舞踊家でもあるYuyunに交代。Yuyunは舞踊家のSardono W Kusmoや、電子音楽家のOtto Sidhartaのサポートでも知られる。

(同誌151~153頁)

Sardono W Kusmo "The Family of Man & Sea" 


Otto Sidharta "Kajang"

Discusのメンバーはそれぞれ異なったスタイルを持つとも言える。それ故、1995~96年頃のバンドがまだ纏まっていなかった時期においては「自分たちが何を演ればよいか分からなかった」とIwanは言う。もっともエスニックな音の扱いについては、I Wayan Sadraとの出会いから「誰でも好きなように使って良い」という知見は得ていたそうだ。
又Iwan Hasanは、「プログレ」に特化したバンドにとっての最重要課題は、「懐古趣味」に陥らないことだと言う。彼自身「プログレ」の全盛期は70年代であって世界的潮流だったことも理解している。YESのようなグループは暴力を嫌悪し精神的なものを探求した。こうした潮流はメディアや音楽産業にもサポートされていた。
現在メジャーレーベルやメディアは全く「プログレ」を支持していない。彼らを支持するのは弱小レーベルであり、彼らは音楽への愛情だけで活動を維持している。そのような状況でも「プログレ・バンド」は絶えることなく出現しているのだ。問題は90年代に出てきた多くのバンドが「著名グループの強い影響下」にあり、その意味で現行の「プログレバンド」の戦いは「懐古趣味」に抗うことにある、とIwanは言う。彼の望みは「過去の例にとらわれない、Discus流のプログレ」を西欧の聴衆に示すことだそうで野心的である。
「結構変なことをやっているよ」PadiのヴォーカリストであるFadlyは言う。Discusの曲は半音階の領域で冒険を試み、テーマやテンポは1曲の中で頻繁に変化をし、予見不可のハーモニーが現れる。
ヴァイオリニストのEko PartiturはDiscusで求められる正確な運指のお陰で「Bulungan*での演奏は大分楽になったよ 」と笑う。

(同誌153頁)

*▶Bulungan:Warung Apresiasi Bulungan。南ジャカルタにあったローカルアーティストのためのイベントスペース。


作曲においては各メンバーが各々旋律を作る。それを元にIwan Hahan が構造を探す。メタル、フリージャズ、無調、民謡調のヴォーカル、といった要素が現代クラシックの方法で構成されてゆく。此処におけるエスニックの要素は所謂「エキゾチシズム的」な「浅はか」なものではない。こうした多彩な要素の探求が多くのプログレ・ファンを惹きつけるのだろう。

「米国では既にPeter ThelenやPeter Renfroと知り合ったし、欧州ではプログレ・フェスのネットワークとつながりを持ちたい」Fadil Indraはそう語る。今回の欧州ツアーはその意味で重要だ。Discusは今回、スイスに加えドイツにも訪問する。ドイツで行われるZappanaleの中心人物の一人、Volkmar ManteiはDiscusを「直近10年におけるベストグループ」と評する。
これは単にハッパをかけているのではない。Volkmarはプログレの新作レビューに特化したサイトRagazziの運営者であり、サブジャンルごとに数百枚のレヴューを執筆している。スイスのProgsolでの公演を見た際、彼はこう述べた。「The Watchは懐古趣味で創造的とは言い難い。一方Discusは独自で新鮮なスタイルを持っているよ」

(同誌153頁)


ドイツのハイルブロンからはるばる来たAndyという熱心なファンは、Progsolでライヴを見た後、ドイツ、ヴュルツブルクでのライブにも訪れた。彼はProgSolに出演した3バンドのうちDiscusが一番良かったという。「Flower Kingsは好みではないけどDiscusは好きだよ」と語るAndy。彼の言葉によればDiscusはクリエイティヴかつ多彩。例えば宗教を個人の利益に利用する人々を描いた"System manipulation"ではコーラス、コール&レスポンス、調子外れなカリマンタンの弦楽器に至るまで多彩な音が提示される。Anto Praboeは1曲の中でフルート、クラリネット、テナーサックス・・と次々楽器を持ち替える。PadiのFadlyが歌うマカッサルの”Cincimbanca( お猿の出入の意)"は半分の静寂と半分の激しさで構成される。
「これ(CinCimbanca)、童謡なんだけど政治風刺でもあるんだよ」と語るFadly。彼が木製のパーカッションでリズムを取りながら「チンチン バンチャ、バンチャナク バンチャ・・」と歌い始めると、聴衆達も手拍子で呼応した。
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元KrokusのベーシストJurg Naegeliは、Yuyunの存在感、グループにコントラストを与える立ち振舞に強い印象を受けたと言う。女性的要素、直立不動でも沈黙していても観客側を凝視する視線、次々と変わるその声の性質。Yuyunはアチェ、カリマンタン、ジャワの唱法を併用するが、Jurgはそのことについての知識はない。記者がYuyunは舞踊家であることを説明するとJurugは漸く「ああ・・・そういうことか、道理で・・・」と頷いた。
更に言えば、約20分に及ぶ”Anne"、即ちナチから隠れて生活していた少女アンネ・フランクを歌った曲、におけるYuyunの表現は尚更印象的だ。この曲は地下室での家族との生活に関するおしゃべりから始まり、アンネの嘆きまでを描く。アンネが啜り泣きながら”無意識が日々を支配する・・・"と歌う場面において、Yuyunの声はまるで悲嘆に暮れた子供のようだ。この場面はまさに「鳥肌物」でオーディエンスの心を鷲掴みにする。"Anne"は提示~展開~再現のいわゆるソナタ形式で構成される。各プレイヤーは各々の解釈を行い、Iwanがそれを纏め上げる。楽曲の進行に連れ、多くの意外性やクライマックスとアンチクライマックスが現れるが、それらは必然であり無駄はない。ケチャによって表現されるナチの兵士たちの軍靴の音さえも。そして最終パートで歌い上げられるアンネの精神。
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「3rdアルバムはいつ出るのかな?」と冒頭の生物学専攻の学生は尋ねる。例えば今回演奏された"Nanggroe”を始めとする数曲は2ndアルバムに収録されていない。「恐らく大量の(東洋的な)エスニック要素が織り込まれるのかな?Breatheでの咆哮や呼吸すら西洋のやり方とはぜんぜん違うしね」と彼は聞いた。

(同誌153~154頁)

”Nanggroe” with Fadly

この晩のDiscusのステージは予想以上に長く、終了時間は予定を1時間超えた午前2時。終演後の熱烈なアンコールの声に、Discus は”DocsTune"と"Fantasia Gamelantronique"で応えた。

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スイス第3の都市であるバーゼルにおいて、一つの「特異」が生じた。はるか彼方の国からやってきたDiscus。自国では名声のない存在にも関わらず、海外諸国では、グループ名の由来である「魚」と同じ、まさに「希少種」そのものだ。彼らの音楽は「懐古趣味」でも「エピゴーネン」でも「西洋ロックの巨匠の語法の踏襲」でもない。そして彼らの挑戦はスイスのプログレ愛好家たちに十分に受け入れられたのだ。

(同誌154頁)

・・・なんかオーセンティックな「プログレ」が結構Disられてますが笑、記者の主観+Disusのユニークさを際立たせる意図かと思います。

以上、前半のProgSol編でした。後半のドイツ、ヴュルツベルクでのFreak Festival出演、即ちZappanale出演のきっかけに関する記事は出来上がり次第。

(続く)

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