昔インドネシアの推しのバンドのCDを日本で出した話 ーDISCUSに関するあれこれー(1)

はじめに

Discus(ディスクス/ディスカス)という、インドネシアのプログレッシヴ・ロック・バンド、ご存知の方も結構いらっしゃると思います。日本では「ごった煮」「闇鍋」とも形容されたその破天荒な音楽性に加え、「ゼロ年代前半当時」においては「東南アジアのプログレ・バンド」であること自体が十分ユニークでした。彼らの知名度を爆発的にあげた2ndアルバム「Tot Licht!」。この作品は本国や世界に先駆け、2003年6月に日本で先行発売されたのですが、この「日本盤リリース」には私自身も微力ながら携わりました。

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この辺りの話を前日談~後日談などを、過去の「ホムペ」の原稿を再利用しながら、数回にわけて綴ってみたいと思います。
まあ正直「過去のネタ使いまわし」であまり目新しい情報はないですが、当時書き損ねていたことも含めて、2000年代前半当時の雰囲気を味わっていただければ幸いです。

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90年代の後半、私はインドネシアの首都ジャカルタに約5年半にわたり駐在をしていました。
任期中は数々のプレッシャーと業務に忙殺される当時の駐在員の例に違わず、現地の音楽に触れる余裕も機会もあまりなく、ネットもまだ普及黎明期。インドネシアの音楽に関する情報元はほぼ無いに等しい状態でした。
そんな中、当時膨大なレビュー量を誇っていた「晴れ後ときどきプログレ」と言うサイトの「掲示板」に「インドネシアのバンド」という「リンク」が貼られているのを発見します。リンク先の内容は当時の容量制限のため断片的なものでしたが、ユニークで洗練されてたそのサウンドは興味をそそるには十分でした。
更に検索を繰り返す中、ほぼ同時期に「インドネシア・ロックマニア」という驚くべきWebsiteを発見しました。当時殆ど情報のなかったインドネシアのロックシーンについて、詳細につづられたこのサイトの運営等については2023年7月刊行の「不思議音楽館 Vol.3 Ver.2.0」の113ページから詳しく記載されています。(noteから記事を移植されたました)

幸い日本に帰国してからも、幾度となくジャカルタに出張する機会があり、サイトの運営者、Rockindさんとも訪問のたびに交流させていただき、前述のDiscusを含む現地の音楽事情について様々なことを教えていただきました。
そして何度目かの出張の際に遂に「中の人」に会うことが叶います。以下当時の「ホームページ」をほぼそのまま転載。2000年9月の初の面会のはなし。

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1.晩餐 - Andy Julias & DISCUS

2000年9月某日。私は業務で再びジャカルタを訪れることとなったのだが、今回はDISCUSのリーダー、Iwan Hasanには絶対会おう、と心に決めていた。いや、会うのは難しい事ではないはずだ。ジャカルタ南部の繁華街、BLOK-Mにある彼のCDショップ「Mats Art & Music Shop」(*閉店済)に行けば良いだけの話し。本人の店で友人から頼まれたDISCUSのCDを買おうという魂胆である。同時に日本の友人の間で彼らの作品の評判が良い事を直接伝えたくもあった。
さて、ジャカルタに到着し早速インドネシアンロックの師匠であるRockind氏にコンタクトすると、これが意外な展開になっていたのである。

「尻さん、実は先週Andy Julias(後述)とIwan Hasan誘ってメシ食おう、と言う話になってたんですけど、よかったらJoinしません?」

願ってもない話である。私は二つ返事でOKした。

面会の場所はジャカルタ南部の高級住宅街の一角にあるカフェ。渋滞で少々遅刻気味に到着すると、既にRockind氏と、Andy Julias氏が談笑中だった。

Andy Juliasはポップシンガーの作曲を手掛ける傍ら、FMラジオ局「M97FM/Radio Mona Lisa」のミュージック・ディレクターとしても活躍、また80年代のプログレ・バンド「MAKARA」の元ドラマーでもある。またM97FM*は「The Classic Rock Station」の名の下に古き良きブリティッシュ・ロックやアメリカンロックを積極的に紹介するラジオ局として知られ、特にAndy本人が担当する月曜夜9時からの番組は世界中の「プログレッシヴ・ロック」を毎週無差別に放送すると言う、前代未聞の構成。例え曲が20分に及ぼうとも基本的にはカット無し。世界的に見てもこんなの稀だと思う。

*注▶M97FM:1972年にダンドゥット専門局として開局、1995年からは古典ロック専門となったが、現在はダンドゥット専門局に戻り、局名もRadio Dangdut Indonesiaとなっている。

往時のM97FM
M97FM事務所入口


 1-1.Andy JuliasとM97FM

(以下Andy Julias=AJ, Iwan Hasan=IH, ROCKIND=RD, 筆者=尻。敬称略)
AJ:「尻は、どんなバンドが好きなの?」
尻:「いろいろあるけれど、イタリアのオザンナとか・・・」
AJ:「ああ、オザンナね」
尻:「ヘンリーカウとか、ユニヴェルゼロとか、マグマとか」
AJ:「うわあ・・・ヘンリーカウwww、凄いっていう評判だったから探しまくって、ようやく聴いたんだけど、アタマ痛かったよw。マグマについても面白い話があって、これまたやっとの思いで手に入れた ”Mekanik Distruktive Kommandoh”をBudi Harjono*に聴かせたら、”兎に角、不快だわ!”って」
・・・・一同爆笑。
*注▶Budi Haryono:ドラマー。Krakatauの結成メンバーの一人。90年代後半は人気グループGIGIにも参加する等、数々の著名バンドで活躍


尻:「そっかー、自分はマグマの来日公演に合わせて休暇の予定ずらした程なんだけど・・・」
AJ:「基本的にインドネシアで人気があるプログレ・バンドはやっぱりシンフォニック・ロック。ジャズロックやアヴァンギャルドはあまり人気ないんだ。」
尻:「そうなんだ。いやジャカルタに来て間もない頃、Duta Suara(CDショップ)でMari BoineのCDを見つけたんで、そこそこ人気あるのかと思っていたんだけど」
AJ:「Mari Boineは知らないけれどDuta Suaraは品揃え良いよね」
尻:「Duta Suara*も良いけれど、一番凄かったショップはAquarius*のポンドック・インダー店かな?」

*注▶Duta Suara:嘗てカセット・CDを販売していた一大チェーン店。
*注▶Aquarius :大手音楽レーベルAquarius Musikindoの直営小売り店。


AJ:「あそこのAquariusは俺の知り合いがやってたんだけれど、東南アジア一帯では最高のコレクションだったと思うよ。オーナー自ら、かなりマニアックにセレクトしていたからね」
尻:「ビル・フリゼールやジョン・ゾーン、PFMやバンコのブートまで有ったもんね。98年の暴動*で焼けちゃった時はホント、悲しかった」

*注▶1998年5月暴動:詳細はWikipediaで。私も渦中にいました。)

AJ:「そうだよね・・・。実はあの暴動で全焼した後、焼け残った在庫品を10枚一束ぐらいで投売りしたんだ。因みに俺はBirdsongs of The Mesozoicを手に入れたよ。 もっとも火の中くぐっているかも知れないし、聴けるかどうか、わかならいけどね。因みにそこのオーナー、又店を再建するらしいけれど、前みたいなセレクションになるかは約束できないって言ってたよ・・・」

AJ:「そういえばRockind、"Abbhama"は何処で見つけたって言ってたっけ?」
RD:「Pasar Jatinegara*で発掘したんよ。(笑)」

*注▶Pasar Jatinegara(パサール・ジャティネガラ) :ジャカルタ東部にある市場、商業地区。蚤の市的エリアもあり中古カセット店が複数存在した)

RD:「それにしてもAndy, 何であんな長尺の曲をオン・エアできるの?この間のDevil Dollの20分ノーカットにはびっくりしたよ。」
AJ:「Rockindが貸してくれたDevil Dollね。へへへ、M97FMではなんでもできるんだ。この前なんて "コンセプト・アルバム特集"やったんだよ!・・サージェント・ペパーズから始まって、ジェネシスの"魅惑のブロードウェイ”、アラン・パーソンズ等、全部ノーカットでかけちまった!わはははは!」


 1-2.Iwan Hasan 登場

話もいよいよ盛り上がってきた頃、Andyの携帯電話が鳴った。Iwan Hasanかららしい。
AJ:「・・・Iwan Hasanは15分ほどで着くそうだよ。」
彼の言った通り、ほぼ15分後Iwan Hasanが現われた。想像していたのとは大分印象が違う。 DiscusのCDの写真では非常に繊細そうな感じがするが、実際はかなり大柄。分厚い眼鏡の奥にはある種独特の耀きをもつ眼がひかる。
尻:「初めましてIwan。会えて嬉しいよ。DiscusのCD、日本の友人達、特にこの手の音楽には耳の肥えた人達に聴かせたんだけれど、すごく好評だったよ。」
IH:「本当かい?」
尻:「本当だよ。プログレ・ファンの集まりが有って、そこで紹介したんだよ。この会を主催している人は ”美狂乱”の元メンバーなんだけれど、”凄く洗練されてて良い”、って言ってたよ。」
IH&AJ:「おー、美狂乱ね」
AJ:「日本のグループというと、前から知っていたのは"Novella"、"新月"、山本恭二・・・ぐらいかな、この前、Rockindから更に色々教えてもらったけどね。」
RD:「アウターリミッツとかね(笑)。」
IH:「日本だったら、俺はIl Berlioneのファンだよ。」
AJ:「そうそう、Iwan、日本だと普通のレコード屋でもプログレってちゃんと置いてあるんだってよ!」
IH:「普通の?へえー・・・」
AJ:「韓国もそうらしい。こことは大違いだよ。」
IH:「そういえば、尻はDISCUSのCD、何処で手に入れたの?」
尻:「Mats Art & Music。・・・君の店。」
IH:「そりゃ、ありがとう!w」
AJ:「で、今日この後Discusの練習があるんだ。よかったら見に行くかい?」
RD&尻:「いいの?」
IH:「全然問題ないよ。」
AJ:「丁度新曲も出来たところだしね。彼ら、10月にはアメリカで開催されるプログレフェスティバル(PROGDAY2000)に出る事になってるんだ。で、リハーサルを重ねているわけ。」
IH:「でもスポンサーがまだ決ってなくてね。アメリカまでは辿りつけるけれど、そのあとの移動手段をどうするか、頭が痛いところだよ。」
AJ:「そんなんで、ツアーに出た後の彼らは逞しくなってるってわけ。器材を自分で運ばなきゃならないからね(笑)。ここではRockミュージシャンはホントに儲からないってわけ。」


 1-3.ロックミュージシャンの懐事情

RD:「でもBoomerang(メタル系)なんかは随分売れてるよね」
AJ:「確かに。逆にSLANK*みたいなカリスマバンドは黙ってても売れる。”Slanker”なんて言葉があるように、宗教みたいなもんだよ。DEWA19なんていったら、もうそれどころじゃないよね。でもそうした例は極限られているよ。大概のロック・ミュージシャンはそんなわけで別に職をもっているんだ。Discusのメンバーだってそう。ここにいるイワンだって店を持ってるし、アント(Anto Praboe=サックス&フルート・プレイヤー)は先生だし、キキ(Kiki Caloh=ベーシスト)は*銀行員だし。今度のアメリカ・ツアーだって、皆休暇をとって行くんだよ。」

*注▶Slank:90年代特に人気のあった社会派ロックバンド。
*注▶実際にはドラマーのHayunajiが銀行員。


IH:「日本ではどうなんだい? ロックミュージシャンは食っていけるのかい?」
RD:「同じだよ。一部の売れている人を除けば、全然金にならない。特にプログレ系はだめ。」
IH:「ベルリオーネなんかはどう?・・・プログレ系で商売になっている人っているの?」
尻:「うーん、誰だろう、難波博之くらいかな・・・」
RD:「ふむ、彼は純粋なプログレ・ミュージシャンとは言えないんじゃあ・・」
AJ:「Mellowレコーズがもうちょっと、売りこみをやってくれれば違うんだろうけれど。Mellowはそう言った面では消極的だよ。」
尻:「(Discusを)日本のレーベルから出したら少しは違うんじゃないかな。あのクオリティーだったら結構行けると思うけれど。」
RD:「うん、いいね。確かに売れると思うよ。」
尻:「キングかワールド・ディスク辺りから出せないかな・・・。でもどうやったらいいのかな。」
IH:「日本で出せたらいいね。実はセカンドアルバムのレーベル、まだ決めてないんだよ。」
RD:「セカンドは何時頃出来あがる予定なの?」
IH:「まあ、来年だね。1曲は出来てるけれど、後はアメリカ・ツアーから帰ってきてから作り始めるよ。」
AJ:「俺自身もMAKARA時代はなかなか金にならなくてね。別に仕事しながらバンドやってたんだよ。」
RD:「MAKARAといえば"KLa Project"*のAdi Adrianが参加してたよね?」
AJ:「Adiはオレの弟だよ。兄弟でやってたんだ。」
RD:「えー!!!!、弟なの!?」
AJ:「兄弟はいっぱいいるんでね(笑)。で、一度雑誌に載ったことがあって、写真もあったんだけど、それを偶然勤め先の秘書が見てて、俺の顔と見比べて目を白黒させてたよ(笑)。会社の連中にはバンドの事なんて全然いってなかったからね。」

*注▶KLa Project:90年代前半に「Yogyakarta」の大ヒットを飛ばしたポップス・ユニット。


AJ:「・・・1980年代はプログレと言えば、ホント、Makaraだけだったんだよ。」
RD:「70年代にはいろいろあったよねえ。GodBlessとか・・・」
AJ:「うん、GODBLESSというのは、プログレってことだけじゃなくて、色んな意味で、インドネシア最初の本格的ロックバンドだったんだよ。勿論その前にも"ロック・バンド"はあったけれど、欧米のグループのコピーバンドでしかなかった。最初の"ロック・バンド"といえば勿論1960年代前半に現れた"Koes Bersaudara"を忘れる事は出来ないよ。ロックが禁じられていた当時は投獄もされたし、ある意味パイオニアではあるんだけれども所詮はビートルズのコピーバンドだからね。で、1970年代に入って現われたのがAhmad Albar率いるGodblessだった。最初はオランダ人2人がいたから純粋なインドネシアのバンドとは言えなかったけれど、そのオランダ人のワーク・パーミットが切れて帰国した後、インドネシア人のミュージシャンが入って純粋なインドネシアのグループとなった。それで例のアルバム”Huma di Atas Bukit”が出来たってワケ。」


尻:「GODBLESSについては、よく"インドネシアのジェネシス"*みたいな言われ方するんだけれども、"Huma di Atas Bukit"なんかはクリムゾンの"宮殿"みたいだよね?」
AJ:「へへへ、そうだね、まあ欧米のグループのいい所をちょっとづつ盗んだ*ってかんじかな。

*注▶後にキーボードのYockie Suryoprayogoは「パクリまくりで恥ずかしい」と言った旨の発言をしている

で、時を同じくして、海外から帰ってきたGuruh SoekarnoputraやEros Djarotらが"Gipsy Band"を結成してこれが後の"Guruh Gipsy"になるんだ。尻はGuruh Gipsyは聴いたことあるのかい?」
尻:「Rockindさんから聴かせてもらったよ。あれは凄かった。」
AJ:「で、他にもBarongs BandやAbbhama、Harry Roesli、Giant Stepなんかが出ては来たんだけれど、結局大きな成功は得られなかった。この当時のメンツで未だにトップで頑張っているのはChrisyeぐらいかな。」
RD:「Giant Stepの連中はどうなっちゃったの?」
AJ:「皆実業家になったよ。で80年代に入るとミュージシャンは、みなジャズ・フュージョンに走ってしまった。Makaraも結局ジャカルタでは成功しなかったしね。」

尻:「最近はどう?DEWA19の*新作なんか、かなりプログレ色があると思うし、Andyがあんな番組やってるってことは、盛りあがってるんじゃない?」

▶DEWAの最大のヒットアルバムBintang Limaのリリース。


AJ:「アンダーグラウンドではそれなりに盛りあがってるのは事実だよ。大半はドリームシアタータイプで随分良いバンドもいる。でも結局売れないから表に上がってこないんだよ。」
RD:「そういう意味でもDISCUSには是非成功して欲しいよね。"プログレ"の認知度をあげる為にも。」

・・・世知辛いですね。

尻:「そうだよね。ところでIWAN、昔からプログレが好きだったの?」
IH:「最初に聴いたプログレっていうと従兄弟の家にあったEL&Pの"Ladys&Gentlemen"なんだけれど、特にプログレって意識して聴いてたわけじゃないんだ。子供向けの歌と区別しないで聴いてたんだ。で中学、高校と進むうちに色々聴くようになった。まあ、兎に角音楽が好きで、挙句の果てにはわざわざアメリカまで勉強しに行ったと言うわけ。因みに妹も音楽が好きで今は*ハープ奏者になっているよ。」

*注▶Maya Hasanのこと。

尻:「アメリカ留学時代はどんな事勉強したの?」
IH:「いろいろやったよ。基礎理論やチェロ、現代音楽もやった。」
尻:「DISCUSの結成はアメリカから帰ってきてから?」
IH:「そうだよ。確か95年ごろかな?・・・で今に至るってな具合。」
AJ:「プログレ系のミュージシャンはほんと大変だよ。ジャカルタではライブも出来やしないんだから。Discusもそんな事情で、アメリカに発つ前にファンを集めてスタジオで公開練習をやることになってるんだ。」
RD:「なんとかしたいね。この状況。・・・さて食事も済んだし、そろそろ行きますか?」
AJ&IH:「OK。」
RD:「ところでこれから練習する場所って何処なの?」
AJ:「この近くだよ。取り敢えずオレの車について来て。」


2.DISCUS の練習見学

「取り敢えずついて来て」とのAndyの言葉に黙ってついて行くRockind氏と私。確かにこの辺りには練習スタジオはある筈だが・・・。
住宅街の奥にどんどん入って行き、そこでAndyの車は停車した。

AJ:「さあついたよ」
Andyは一軒の民家に我々を案内する。相当デカいその「民家」は「スタジオ」ではなく、Iwan Hasanの自宅だった。Andyに招かれて通された部屋はスタジオ風に改造されており、既にベーシストKIKIを除く全員が集まっていた。Andyが我々二人を「Discusのファンだよ」とメンバーに紹介してくれる。メンバー一人一人と握手を交わした後、Andy、Rockind、私の3人は隣のモニター室に移動した。

AJ:「ここで彼等は週1回集まって練習してるんだよ。9時から12時まで3時間。今はツアー前だから最低週2回かな。夜遅くまでやるもんだから翌日の仕事は眠くて大変みたいだよ。」
まあ、練習が終わって家に帰れば1時か2時といった感じだろう。日本人からすればそんなに「夜おそい」と言う感じはしないが、インドネシアの朝は早い。
ヴォーカリストのNonnieが「キキはどこ行っちゃたのよー?」と言っているのが聞こえる。残業なのだろうか。取り敢えずベースなしで練習は始められた。IWANが我々に向かってウインクをする。「まあ聞いてちょうだいよ」と言わんばかりだ。

始まった曲はメタル・クリムゾンを思わせるミドルテンポのヘヴィなリフの連続。1stには納められていなかった曲だ。メタル・リフから唐突にジャズ・ロックに移行した後、ブレーク、例のガムラン風キーボードが入り独特の雰囲気になってゆく。床に置かれたゴングを乱打するキーボードのFadhil Indra。彼は他にも民族楽器を操る。本当に器用だ。考えてみれば彼らの編成はドラム、ベース、ギター、といった基本楽器のほかに2人のキーボード、ヴァイオリン、サックス(+管楽器全般)、女性ヴォーカル、とプログレッシヴ・ロック・バンドとしては理想的な編成である。
すかさずAndyが解説を入れる。
AJ:「これがさっき言ってた新曲だよ。組曲形式で約20分ある。よりメタル風味を増した事でロック・ファンにも受け入れ易いし、エスニック・テイストはインドネシア人にも極自然に受け入れられる、というわけ」
RD:「他には新しい曲はないの?」
AJ:「わはは、こういう複雑な曲はそんなにすぐにはできないよ。」
ブレークの後、曲はますますエスニックな様相を顕にし、やがてケチャ風のコーラス。ドラマーの鋭い掛け声と共に曲は再びヘヴィーなリフの連続へ。
ベースを欠いているのと、取り敢えず曲の全体構造の確認のためか、ド迫力の演奏とはいかないが、なかなか聴き応えがある。アンサンブルを固め、フルパワーで演奏すればDeus Ex Macchinaにも匹敵するかもしれない。(この曲は”Anne”と言うタイトルでTot Lichtに収録)。

丁度1曲目が終わったころ、Kikiがひいひい言いながらやってきた。かなり疲れている様子。Kikiが"Stingray5"を取り出すと今度は1stの曲、「Fantasia Gemelantronique」だ。冒頭の「Lamentation」のパートは除かれているが、こちらも知っている曲なのでつい乗ってしまう。Kikiはやはり疲れているのか器用に指は動くものの眉をしかめながらの演奏である。

練習はまだまだ続くが、残念ながらこちらも明日の仕事を控えた身、「Fantasia・・」が終わった所で失礼することにした。Iwanを始め、メンバー全員に礼を言い、Rockindさんと私はAndyに見送られIwanの家を後にした。

***

とまあ、この元原稿を書いた時点では、まさか彼らのCDリリースを手伝うことになろうとは思いもよらず、1ファンとして、「ラッキーな経験ができた!」ほくほくしていただけでした。

その後Discusはアメリカに渡り、無事PROGDAY2000への出演を果たし、Knitting Factoryでもライヴを行いました。おおむね好評だったそのツアーについては当時の音楽誌「NEWS MUSIK」にレポートが掲載されています。
余力があったら訳出したいと思いますので気長にお待ちを。恐らくWEB上に記録は無いと思うので・・・。面白いかどうかもわからないけどw。

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(つづく)

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