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本田宗一郎の「人間休業宣言」とは何だったのか。

世界のHONDAの創業者
本田宗一郎。

終戦直後の1945年9月。
彼は、

「人間休業宣言」をし、
約1年間休業をした。


「仕事はしない、1年間、遊んで暮らすから、食べさせて」

と妻のさちに言った。38歳子持ちの身であった。

ホンダの前身となる「本田技術研究所」という名で
個人事業を始めるたのは
それから1年後の1946年の9月のことであった。

東海精機の株をトヨタ側に売却してから、
約1年のブランクがその「人間休業宣言」の期間である。

ちなみに、東海精機の株を売った金だが、
宗一郎は「これは大切なお金だから、つかっちゃいかん」と
全く手を付けなかったと言われている。

この間、
本当にヒモのような生活をしていたそうだ。

ドラム缶で医療用アルコールを買い込み、
自家用の合成酒を作って友人と飲み、
昼は尺八のけいこや将棋に励んだそうだ。

酒もちゃんと飲んでいたのだ。

そして、本当に何もしていなかったそうだ。

元々働き者の宗一郎。
高等小学科校を出て以来、
働きづめだった。
けれども、
この期間、彼は本当に働かなかったが、
働かない代わりにこれからの生き方を真剣に考えていたのだ。

1945年8月 終戦。

戦後、価値観が
180度真逆に変わった。

このことに宗一郎は、
違和感を抱いていた。

ついこの間まで
「天皇陛下、万歳」と何も疑わずに繰り返していたのに、
今や「ギブ ミー ア チョコレート」なのだ。
このような世間に、
宗一郎はついていくことができなかったのだ。

働きたくなくなったわけでも、
昼間から酒を飲みたかったわけでもない。

世間の急激な変化に何も考えずに
身を任せることができなかったのだ。

だから、
この1年間で、
これからどう生きようかを真剣に考えたのだ。

そして、
ある日友人宅で
陸軍が使っていた発電用の小さなエンジンを見て、
自転車に付けて補助動力にすることを思い付き、
通称「バタバタ」が生まれ、
ホンダの前身となる「本田技術研究所」が生まれた。

戦後で世の中は交通機関が破壊されており、
バタバタは、爆発的に売れることとなった。
1年間 どう生きるかをを考えたことは、
無駄にはならなかったのだ。

トヨタに東海精機を売り渡して得た金は45万円。
これを元手に次になんの仕事をしようかと考えたが、
なかなか見当がつかない。
こんな混乱の時にガタガタしてもしかたがない、
1年間ようすを見ようと尺八などを吹いて遊び暮らしていた。

本人も当時の様子を
このように述懐している。

本田宗一郎の
これからどう生きるかを考えた
「人間休業宣言」とという話でした。

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