戦国河内切支丹

 河内平野は大和川の氾濫でできた土地である。
 佐保川、曽我川、葛城川、高田川、竜田川、富雄川などの、大和盆地を流れる川はひとつになって大和川となり、生駒の山麓から河内地方に流れ出している。現在の大和川はそのまま西に横切って大阪湾に注ぎ込むが、これは江戸時代中期に行われた付け替え工事によるもので、それ以前は北に方向を向け、網の目のように支流に分かれながら、寝屋川や淀川に合流していた。
 高低差の少ない土地柄のため流れは緩やかで、支流の多くは天井川となり、大雨が降れば氾濫を繰り返した。運ばれる肥沃な土砂が周囲に堆積されていき、やがて豊かな平野が形成された。こうして、河内は畿内でも指折りの豊穣の地となった。

 近世の始め頃までは、支流の吉田川が寝屋川に合流する地点に、深野池(ふこのいけ)という大きな湖があった。元禄の頃、貝原益軒が記している。
 ――池の広さ南北二里、東西一里、所によりて東西半里許有。湖に似たり。其中に島有。三ケと云村有。故にこの池を三ケのおき共云。三ケの島に漁家七、八十あり。田畠も有。此島南北廿町、東西五、六町有と云(『南游紀行』)。
 今日想像できる人は少ないだろうが、現在のJR学研都市線の鴻池新田から住道(すみのどう)、野崎、四条畷に及ぶ一帯が広大な湖だったのだ。

 この地はまた戦国時代の一時期、わが国の政治の中心であり切支丹信仰の聖地であった。そのことを知る人もまた少ないだろう。
 室町末期の永禄三年、五畿内と阿波・讃岐・淡路を領有し、足利将軍家や管領家を凌ぐ権力者になった三好長慶(ながよし)は、深野池を西に見下ろす飯盛山に本拠を移し、天下に号令した。
 飯盛山はその麓を東高野街道と清滝街道が交わる陸の要衝であり、深野池もまた、京・堺・大和、そして、三好氏の経済基盤であった阿波を水路でつなぐ舟運の要衝であった。

 この地に、耶蘇教の修道士ロレンソ了斎もまた着目した。肥前国平戸に生まれ、フランシスコ・ザビエルに教化されて修道士となったというこの盲目の琵琶法師の業績は、渡来したカトリック宣教師により記録され欧州にまで伝えられている(フロイス『日本史』)。
 三好長慶の庇護を求めて飯盛山にやってきたロレンソは、この地の地勢的特長をたちまち見抜いた。人の往来が盛んな水陸要衝の地は、信徒を広げる格好の条件でもある。目的は異なるものの、ロレンソの洞察力は三好長慶に匹敵するものだったといえるだろう。
 長慶配下の家臣が次々に入信した。周辺には飯盛山城の出城が多数あり、その城主たちが改宗すると領民がついてきた。こうして、多くの切支丹がこの地に生まれた。
 深野池の領主三箇(さんが)伯耆守頼照はとりわけ熱心な切支丹信者となった。居城のある三ケの島の一画に耶蘇教の教会を建てると、たちまち三千名の領民が入信したという。
 ロレンソによって種をまかれた河内の切支丹は、やがて三箇切支丹と呼ばれるようになった。三箇の名もまた、フロイスによって欧州にまで知れわたることになる。

 だが、そんな時代は長くはなかった。永禄七年、三好長慶が死ぬと一族と側近の間で内紛が勃発し、三好政権はもろくも崩壊してしまう。やがて織田信長が上洛し、河内は一向一揆や本願寺をも巻き込んで麻のごとく乱れていくのである。
 この動乱に三箇切支丹も無縁ではなかった。時代の波に翻弄され、巻き込まれていくうちに、三箇切支丹もまた歴史から姿を消してしまうのである。
 現在ではこの地に切支丹が栄えていたことを示す遺構は何ひとつ残っていない。河内に切支丹がいたことさえ知らない人が大半だろう。
 満々と水をたたえていた深野池も、江戸時代中期の大和川付け替え工事によって川の流れが変わると、干上がってしまった。
 今、三箇城があったといわれる場所(大東市三箇・菅原神社)に立っても、ただ民家の立ち並ぶ変哲もない住宅地の中に、わずかに「三箇」や「深野」の地名が残るのみである。

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