難しいことを考えた
少し前のになりますが…
おだんごさんの記事について、あれこれ考えてしまいました。
何日か考えがぐるぐるして、出来上がるのが遅くなっちゃいました。
書くのが難しいなと思っていたのもあります。正直に書きたいんだけど、誰かにえっ!と思われることを書いてしまうかもしれないからです。だから、その辺を気を付けるつもりですが、もし、ご気分を害されることがあれば、もうしわけありません。そのときはスルーしていただけるとありがたいです。
とりあえず、考えたことを並べてみたいと思います。
記事について
底辺か…
批判殺到か…
おだんごさん、怒ってた。そりゃそうだよ!おとしよりの生活のお手伝いをする仕事がどれだけ社会で必要とされて、どれだけ多くのひとが助けられていることか。誰が考えても、わかること。
まず、おだんごさんには、こういうのはおだんごさんのような、誇りをもって仕事をする人が読むものではないと思うよ、といいたいです。まったくもってスルーすればいいと思っています。
こういう記事は、批判されやすいと思いますが、わたしもやっぱり見てしまいました。ちょっと見てみたいという気になってしまったから。結局、記事書いた人は読まれるために書いてるんだから、やっぱりそこは、事実として「読まれる記事」だったのかなと思います。
でも、読まれる記事ならなんでもいいのか、ということになると、それは決してそうではないですよね。そうすると、読んでしまってもその後なにかしら考えたり、議論したりする必要はあるのかな、と思いました。
だから、そういうきっかけになったという意味では、この記事も意味があったといえるかもです。
現実
ずっとモヤっと感がありました。
こういう記事を批判する気持ちだけではなかったからです。そうだろうな、と思う気持ちがあるからです。
わたしは、このなかでパートではあるけれど介護、飲食店スタッフ、コールセンターの仕事をしたことがあります。そのときにいろいろと思うことがあったからです。特に介護ではいろんなことを考えさせられました。
自分は利用者さんのことを思いつつやっているつもりではありましたが、当時、「下にみられてるな」と感じることが何度かありました。
どれだけ汚れてもいい服を着たわたしたちに対し、いい身なりをしたご家族が、申し訳程度に面会に来て、え?と思うような大きな態度でわたしたちに接していったこともありました。いい気持はしませんでした。
だから、そういうふうな考えを持つ人はいるのだと思います。もちろん、丁寧に感謝の意を伝えてくださる方もたくさんいらっしゃいました。でも、「下に見られた」ようなときの、そのときのインパクトが強く、記憶に残ってしまいがちです。
また、一緒に働く人のなかにも、自分の常識から驚くようなことをする人もいました。細かくは言いませんが。
しっかり言っておきたいのは、ほんとうに親切に利用者さんのことを思い、しっかりとまじめに働く方ももちろんたくさんいらっしゃいます。それは声を大にして言っておきたいのですが…
かつて働いた同じ職場の人で、あまりにこの人の仕事は問題だと思って、何人かで責任者のひとにその実情を伝え、「何が起こるかわからないからなんとかしてもらえないか」というようなことを伝えたことがありました。でも現実あまりに人手不足のため、結局その人は、わたしが知る限り、ずっといました。
それに、実際なにも起こっていなくて、ちょっと言い方が悪いとか、「なんかやらかしそう」というだけでは、責任者としても、辞めてもらうとかできないですよね。
もちろん、責任者の方もできることなら、「ちゃんと利用者さんのことを考えて、しっかりと常識的に仕事をしてくれる人」を求めているのだと思いますが、介護の現場はそういうことを言っていてはまわらない、厳しい状況でした。
人手がいりますので、「いままでどういう風に仕事をしてきたんだろう」と思うような人が、入社してはすぐに辞めていく、という繰り返し、という感じでした。
そういう現実を考えると、まあ、そういう記事もでるのかな、と妙に冷静に納得してしまうのです。
ただ、そういうひともいつもいつも、?となるような仕事の仕方をするわけではありません。とても優しいときもあったり、技術があったりすると「さすがだなぁー」と思うこともまた、多くありました。だから、やっぱり一概に「悪い」と決めつけるのも違うと思う。
飲食店にしても、「この現状、どっか労働関係の役所にひとこと言えば一発でアカンやろ」ということがよくありました。
それでも、みんな働いています。なぜなら、そんな会社でも、安くても給料はもらえるからです。慣れた仕事、慣れた職場ならそれがいちばんマシだと思うからだと思います。また一から就職活動して、それもとってもらえるところがあるかどうかもわからないし、今よりもっと大変な仕事になる可能性もあるし、というところで、動けないんだと思います。
自分のこどもには
そして、そういう現状を見ると、自分のこどもにはなるべくそういう場で働かなくてよいようになってもらいたい、とも思ってしまうのです。
だから、塾に行かせたりして「そこそこの」高校、「そこそこの」大学に行かせ「そこそこの」仕事についてほしいと思ってしまいます。わたしは高望みをしているつもりはありませんが、「そこそこの」とは、思います。
と思ってるということはやはりどこかで「自分の子供には、底辺にはいかないように」という意識が無意識にあるんではないか。無意識なのか、意識を持ってなのか…
だから、もし子どもが、こういうランキングに出てくる仕事をしたい言えば、立派だ!本当に応援する!!とは思いますが「大丈夫?厳しいよ?ほかも考えたら?」とまず言ってしまいそう。きちんと理由を説明できるならもちろん応援します。志をもって、それをしたいというならそれは本当に立派だと思うし、もちろん応援します。まあ、うちの子どもがそこまで志をもてる気はしないけど…
しかし、世の中にはいろんな人がいますから、世間的に立派な仕事、かっこいい仕事といわれることをしている人のなかでも、「人として底辺ちゃうんか」と思う言動をする人もいます。
そう考えると、結局は「どんな仕事をしているか」ではなく、「その人がどういう考えを持ってて、どういう仕事のしかたをするか」になるなと思いました。
底辺の意味
しかしここでふと思ったのは「底辺」って悪いことばではないんじゃないか、という気もしてきました。
よのなかの、大切で大変なことをすることで、大きな三角形を支えているから。これはおだんごさんへのコメントを読んでいて思ったことです。みなさん三角形の底辺がないとささえられない、といったことを書かれていて、ああ、ほんとにそうだと思いました。
しっかりした底辺がないと、世の中は成り立たないですね。そう考えると、「底辺」といわれても「ああ、そうだよ!わたしたちが社会を支えてるんだもの!」と思えます。
と思うけど、こういうのはある程度考えたうえででてくる考えのような気がします。この記事でいう「底辺」は、もっと浅い考え(給料が高い低い、ラクかしんどいか、イメージがいい悪いなど)で書かれていると思うので、やはりそういう考えはあるのかな、とか思ってしまう。
何を考えていいのかわからんくなってきました。
着地点
結局、わたしが「底辺の仕事」について思うことは、
「社会を支えるのが底辺だから、誇るべき仕事である」
「どんな仕事でも仕事のよしあしはそのひと自身の意識による」
「人がなんという仕事でも、自分が誇りをもってできるならそれがいちばんいい」
といった感じです。
おしまい。
こんなのでよかったかなぁ~
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