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「パレスティナ問題の起源」について学んできたことを書き綴る

おはようございます!
毎週日曜日更新、「総合的な探究の時間を創る」をご高覧いただきましてありがとうございます。とても励みになります

今回は、以下の理由で、連載「総合的な探究の時間を創る」は1回お休みさせてください
「総合的な探究の時間を創る(4)」「3.SDGs探究学習」は、12月9日に投稿させていただきます

ガザ情勢・パレスティナ問題が報道番組で毎日取り上げられ、教養人と評価されているコメンテーターの一部の方々が、「三千年前からの怨念の対立」「三千年も続く対立」「二千年来の問題」(宗教対立・民族対立)等々、史実に基づかないいい加減なコメントをしていることに、元 地歴公民科(社会科)教員として黙っていられません
ユダヤ人のディアスポラ(離散)の歴史、中世ヨーロッパで迫害・差別を受け、凄惨な「ホロコースト」「ポグロム」を経験してきた背景、これらの視点「ユダヤ人(ヘブライ人)の視点」に立てば「三千年、二千年来の問題」ですが、これを、今日の「パレスティナ問題」に関連させて論じていいものでしょうか
「パレスティナ問題の起源」について学んできたことを書き綴りたいと思います

「歴史学」は、太田 秀通 先生が『史学概論』(学生社・1965)で述べられているように、「人間の科学としての歴史学」であり、現在を生きている私たちは、「世界史」の「現在という一側面」に生きています
「歴史」を自分の生き方の問題として捉えること、「歴史」を「科学的」に捉えることは、「日本史」「世界史」を始め「歴史」を授業等で教えている私たちが依って立つことのはずです

「パレスティナ問題」を「民族対立」や「宗教対立」で捉えると、「ユダヤ人」と「ムスリム」の対立、「ユダヤ教」と「イスラーム」の対立と、誰にでも解りやすいのですが、そうすると、お互いの民族、宗教がなくならない限り対立・紛争はなくならない、ということになるかも知れません
「パレスティナ問題」を「科学的」に捉える、自然科学的に言えば、「定性的」な側面のみならず「定量的」な側面でも捉える、ことにより、「問題の本質」に迫り、「問題解決」の糸口についても科学的に議論できるはずです

 ※ 「イスラーム」には、仏教やキリスト教でいう「教」という意味・概念が含まれています。「イスラム教」という表記は「仏教」教、「キリスト教」教とするのと同じです。よって本稿では「イスラーム」と宗教名を表記します。同様に「イスラム教徒」という表記は正しくなく、「ムスリム」と表記します
また、アラビア語の母音には「a・i・u」の3つしかありません
「イスラーム」の「a」は長母音なので伸ばします
例えば、「コーラン」は「o」という長母音を発音していますので、アラビア語の発音としては正確ではありません。「Al Qur`an」を日本語の音に即すと「クルアーン」となります。「Al」は定冠詞で訳しません

私は授業でパレスティナ問題の起源を生徒たちに考えさせる際、イギリスのいわゆる「三枚舌外交」のみならず、「ポグロム」と「ドレフュス事件」を関連付けて必ず取り上げています
この理解がなければ、パレスティナ問題の起源の本質には迫れません

次は、私が作問・出題した ”2009年「地理B」定期考査” からの抜粋です

(問題文)(中略)この問題(パレスティナ問題)を考えるにあたり、1880年代にロシア・東ヨーロッパで起こった  a ユダヤ人大迫害  を考える。この時、圧倒的多数のユダヤ人は( う )に移民した。この事実より【 α 】がわかる。
(中略)ユダヤ人の移住は、どのような経緯ではじまったのだろうか。
1894年( え )で起こった( お )事件は、1791年ユダヤ人に初めてキリスト教徒と同等の市民権を賦与した( え )で起こった、ユダヤ人を無実の罪に陥れた事件としてユダヤ人に大きな衝撃を与えた。これを取材したヘルツルは、( か )を提唱するが、現実味がなく、ユダヤ人の中に大きな流れとしては拡がらなかった。
(中略)一方、第1次世界大戦が終了すると、ユダヤ人は( さ )により現実味を帯びてきた( か )を実現するために、今までのように迫害され逃れてきたのではなく、【 β 】パレスチナにやってきた。当然、( く )により独立国をつくろうとしている( い )人との衝突が生じた。これがパレスチナ問題の起源である。

(設問)(1)( あ )~( せ )に、適語を入れよ。(2点×14)
(2)下線部aについて、これを何と呼ぶか。(2点)
(3)【 α 】に文脈が通るよう適する文章を記せ。「わかる」ことは2点!! (4点)
(6)【 β 】に文脈が通るよう適する文章を記せ。(2点)


1881年からの ロシア・東ヨーロッパにおけるユダヤ人の大迫害「ポグロム」では、迫害された 圧倒的多数のユダヤ人 はアメリカ合衆国へ移民(約200万人)し、その他の一部のユダヤ人はパレスティナへ移民しました
パレスティナに長年の間居住していたパレスチナ人は、迫害されて逃れて来たユダヤ人を温かく迎え入れた記録もあるそうです
パレスティナには、20世紀半ばまで、ムスリム・ユダヤ教徒・キリスト教徒が長年にわたり共存していていました
少なくとも、宗教が異なるから、民族が異なるからという理由で、パレスチナ人とユダヤ人の間に憎しみあって殺し合うようなことはなく、今日の「パレスティナ問題」は生起していなかった、と考えられるのではないでしょうか
また、圧倒的多数のユダヤ人がパレスティナではなくアメリカ合衆国に逃れたことにより当時、多数のユダヤ人は、パレスティナにユダヤ人の国をつくることを現実的な問題としては考えていなかったのではないでしょうか

「三千年前からの怨念の対立」「三千年も続く対立」で想起されるのは、ユダヤ人(ヘブライ人)が、「旧約聖書」で唯一神ヤハウェから「約束」された地「パレスティナ」に、ペリシテ人(パレスティナはペリシテ人の地より由来)、カナーン人を従え、BC1000年頃ブライ王国を建国、ダヴィデ王・ソロモン王の全盛期を経て、BC900年頃 北部 イスラエル王国 南部 ユダ王国 に分裂、BC722年 アッシリアによりイスラエル王国滅亡、BC586年 新バビロニアによりユダ王国滅亡(バビロン捕囚)の歴史、ディアスポラ(離散)を強いられたユダヤ人(ヘブライ人)の歴史に関連付けているのでしょうが、今日の「パレスティナ問題」の直接の起源ではありません

「二千年来の問題」で想起されるのは、アケメネス朝ペルシアによりバビロン捕囚から解放されたユダヤ人がBC37年ヘロデ王がローマ元老院によりユダヤ王に任命されたのち、63年に属州、70年「マサダの悲劇」、135年ローマ皇帝ハドリアヌス帝により最後の反乱が鎮圧され決定的なディアスポラを強いられた歴史に関連付けているのでしょうが、こちらも、今日の「パレスティナ問題」の直接の起源ではありません

遅くとも「ポグロム」が生起した1880年代までは、今日の「パレスティナ問題」は生起していなかったとみるのが、「パレスティナ問題」を「科学的」に捉えることになるのではないでしょうか

が、現実の問題として今日の「パレスティナ問題」は生起しています

ここで、「イギリスの三枚舌外交」に飛ぶのではなく、1894年革命後のフランスで生起した「ドレフュス事件」が大きな考えるヒントになります

フランス軍参謀本部唯一のユダヤ人 ドレフュス大尉が、ドイツのスパイと嫌疑され、エミール=ゾラたちの支援もありましたが、終身刑を言い渡され、名誉を剥奪されて島流しにされてしまいます。政府は真犯人が明らかになったにもかかわらず起訴せず、ドレフュス大尉は恩赦という不可思議な理由で釈放されました
この事件は、ユダヤ人に大きな衝撃を与えます
1791年ユダヤ人に初めてフランス人(キリスト教徒)と同等の市民権を付与した国=フランス。そのフランスによりドレフュス大尉は嵌められてしまったのです

この事件を取材したジャーナリストのヘルツル(ユダヤ系オーストリア人)は、ユダヤ人が差別・迫害を受けない場所を旧約聖書に求めました。唯一神ヤハウェがユダヤ人のために「約束」した場所「パレスティナ」。そこに拡がるシオンの丘。その地こそがユダヤ人が繫栄する唯一の地であると、ユダヤ人の国をパレスティナに建国しょうとする運動「シオニズム」を提唱したのです
「シオニズム」は、一部のユダヤ人のなかに拡がり、実際、パレスティナに入植したユダヤ人とパレスチナ人の紛争が表面化しますが、「ユダヤ人の国をパレスティナに建国」できる正当性・根拠に欠け、大きな運動にはなり得ませんでした

その根拠を与えたのがイギリスの三枚舌外交です
イギリスは第一次世界大戦と戦後の国益を図るため
① 1915年「フサイン=マクマホン協定」
② 1916年「サイクス・ピコ協定」
③ 1917年「バルフォア宣言」
を結びます

第一次大戦後のアラブ世界は、「フサイン=マクマホン協定」により、アラブ人の国を建国する動きが起こります
① フサイン(ハーシム家第37代当主・1908年オスマン・トルコによりマッカのアミールに) 1916年 ヒジャーズ王国独立宣言。1924年 カリフ宣言するも同年、1902年 アブドゥルアズィーズ・イブン・サウードにより成立したサウード朝により滅ぼされる(1932年 サウディアラビアに改称)
② ファイサル・イブン・フサイン(フサインの三男・「アラブの反乱」指揮)のアラブ軍、1918年 ダマスカス入城。1920年 ファイサルを国王に、シリア王国の樹立を宣言

しかし、大戦後、イギリスが実行したのは「サイクス・ピコ協定」
① 1920年4月 サン・レモ会議
ファイサルのシリア王国の独立非承認。シリア・レバノン はフランス委任統治領に、パレスティナ・イラク・ヨルダン はイギリス委任統治領に
② フランス軍、ファイサルのシリア王国を滅ぼす。ファイサル追放
③ⅰ)イギリス - 1921年、ファイサルを委任統治領下のイラク国王に
イラク王国ー1932年独立も、1958年のクーデターで孫のファイサル2世暗殺
ⅱ)1921年、アブドゥッラー・イブン・フサイン(フサインの二男)をイギリス委任統治領下のトランス・ヨルダン首長に。1946年独立。アブドゥッラは国王に就任。1949年、ヨルダン・ハーシム王国に改称。ハーシム家唯一の王国
 ※「 Hashemite Kingdom of Jordan 」を私が教員をしていた頃は「ヨルダン・ハシミテ王国」と表記されていました。30年ほど前の教員時代に、地理教科書大手出版社に「Hashemite」を「ハシミテ」と発音するのはおかしい、と何度も改善するように担当者を通じて編集部に言いました。「ハーシム」がなぜ「ハシミテ」になるのか、との問いに「外務省ホームページの『国・地域』には『ヨルダン・ハシミテ王国』と表記されているから変更はかなわない」との回答でした。その後、外務省の表記も「ヨルダン・ハシェミット王国」(これでも、「Hashemite」をカタカナ読みにしているだけで失礼極まりない)、現在は「ヨルダン」と表記されています

ここからが、今日の「パレスティナ問題」の起源です

第一次世界大戦後、「バルフォア宣言」によるユダヤ人のパレスティナ入植は、19世紀末「ポグロム」では迫害されてやって来てパレスチナ人に保護されたユダヤ人とは異なり、「ユダヤ人国家」をつくるため(シオニズム)パレスティナにやって来たユダヤ人です
世界の大国イギリスがロスチャイルド家を通じてシオニスト連盟と交わした「ユダヤ人の国をパレスティナに建国」できる正当性・根拠となり得るものでした(ユダヤ人にとって)

ここに、イギリスにより正当性・根拠を与えられたと信じ、自分たちの国を建国しようとするパレスチナ人とユダヤ人は本格的な衝突を繰り返します
これが今日の「パレスティナ問題」の起源といえるものではないでしょうか

ヒトラー政権の、凄惨な「ホロコースト」の犠牲となり、1933年から39年にかけて20万人のドイツ系ユダヤ人がパレスティナに命からがら逃げのびてきました

「フサイン=マクマホン協定」を反故にしたイギリスにパレスチナ人・アラブ人からの信頼は最早ありません

増加するユダヤ人とパレスチナ人の衝突は1936年の「大反乱」に発展し、100人を超えるユダヤ人が殺害されました
1937年イギリスは「ピール報告書」で、ユダヤ人の入植の進んだ地域をユダヤ人の土地として分割する案(パレスティナ全土の20%)を提案します
ユダヤ人からは歓迎されましたが、パレスチナ人は猛反対です

他方、ユダヤ人が増え続け紛争が激化する状況を見て、イギリスは、植民地インドへの通路となるアラブ世界に配慮し、1939年ユダヤ人の移住者を制限する政策に方向転換しました
「バルフォア宣言」を反故にするイギリスに、ユダヤ人からの信頼もなくなります

1947年 イギリスは、 パレスティナの管理・制御が不能となり、委任統治を放棄。国連に委ねます

今日の「パレスティナ問題の起源」についてはご覧のとおりです
それをさらに混乱・複雑化した要因を最後にみていきます

1947年11月29日 国連総会「パレスティナ分割決議案」可決、1948年5月イスラエル建国、建国の翌日に勃発した第一次中東戦争の流れです

「パレスティナ分割決議案」では、パレスティナを、アラブ地区・ユダヤ地区・国際管理地区に分割。しかし、ユダヤ人(当時 人口の31%・所有地6%)は 「決議案」では56%の領土が割る当てられています
例えば、ネゲブ地域(紅海への出入り口・この地域に住むユダヤ人人口はわずか1%)、灌漑可能地の83%がユダヤ人の領土に編入されました

パレスチナ人の声を代表する者のいない場で、多数決で決定をくだされたことも問題ですが、ユダヤ人のロビー活動、国務省の考えに相反するトールマン アメリカ合衆国大統領の思惑も相俟って
国連総会での採決が72時間2回にわたって延期され、分割案は過半数の33票で可決され、反対は 13票、棄権は10票でした
11月25日のアドホック委員会で棄権・欠席した17カ国のうち、9カ国
(アルゼンチン、中華民国、コロンビア、エルサルバトル、エチオピア、ホンジュラス、メキシコ、イギリス、ユーゴスラビア)はその態度を変えなかったものの、棄権していた国のうち7カ国(ベルギー、フランス、ハイティ、リベリア、ルクセンブルク、オランダ、ニュージーランド)は、分割案賛成へと意見を変えました。フィリピンを含めた8カ国の賛成は、分割案可決に必要な票数確保にとって重要な意味を持ったのです

さらに、第一次中東戦争のイスラエル勝利の結果、パレスティナ人口の70%にあたる、70~90万人のパレスチナ人が難民となり、エジプトはガザ地区、ヨルダンはヨルダン川西岸地区を占領・併合し、分割案のパレスチナ人領土は、イスラエル・エジプト・ヨルダンに三分割されたのです

「パレスティナ問題の起源」を、ここまで書き綴りましたが、ひょっとして浅学の浅はかな理解かも知れません
先行知見(例えば、「パレスチナ分割決議案〈再考〉-60周年を機に」等々)に学び、今日的課題を視座に議論が深まり、自分の問題として捉えていくことが肝要だと考えます

「歴史」を自分の生き方の問題として捉えること、「歴史」を「科学的」に捉えること、研ぎ澄まされた感性で、学究の途を極めていければと思います

来週、12月9日は「総合的な探究の時間を創る(4)」「3.SDGs探究学習」を投稿させていただきます

どうぞよろしくお願いいたします

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