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「もっと」

ちょっとだけ気持ちの整理。


オリンピックの開会式が行われてから、2日目の朝。

開催をしたいと思っていた人たちからすると、
まずは”無事に”開催された。

そして、開催をすべきではないと思っていた人たちからすると、
開催”されてしまった”。

じゃあ僕は?という話をすると、
こういう状況下で一番よくない考えだと自分でも思うのだけど、
僕自身はオリンピック開催については賛成でも反対でもなかった。


正確に言うと、
開催されることによって得られるメリット・デメリット、
開催されないことによって得られるメリット・デメリット、
どっちがいいのか答えを考えることができないまま、
開催という日を迎えてしまった。



開会式が行われた一昨日、
競技の多くがテレビで放送されていた昨日、
僕もテレビをつけて開会式を見ていたし(途中に寝た)
好きな競技はテレビ越しに見ていた。


Twitterを開きながら見ていたのだけど、
良い評価もあれば悪い評価もあったり、
楽しんでいる人もいればそうではない人もいたり
色んな人が様々な感情を持ちながら今このオリンピックが開催されている
日本という国に生きているように感じる。



(前置きが長くなってしまいましたが)
そんな2日目の朝を迎えている今、
一つ自分の中に出ている感情が「もっと」という点だ。

そして、ここで感じた「もっと」はものすごい高いハードルなんかではなくて、
たぶん「ちょっと」の努力や考え方次第でどうにでも変えることができた点だったのではないかと思う。


だからこそ、「もっと」やれたじゃん。
っていう気持ちが生まれたような気がする。


「もっと」できたはずだと思うし
「もっと」人の気持ちを考えられたはずだと思うし
「もっと」何かできたはずだし
「もっと」ちゃんと考えられたはずだし、


どう頑張っても比べようのないことだけど
これらに対して、
怒っているし、悲しいし、悔しいし、寂しいし、情けないし、
そんな気持ちだ。


当たり前という言葉を他人に向けることは好きではないのだけど
国や世界の一大イベントであることもそうだし、
世界や国や個人がものすごく苦しい状況下の中でもやろうとしたのに
そんな当たり前のこともやっていない・考えていなかったのか、
というのがここに込めた「もっと」だ。


「もっと」と抱いた感情が期待感や希望ではなく、
正反対の失望に近いものになってしまっているのではないかというのが、
たぶん今の僕のモヤモヤなのではないかと思う。


このモヤモヤは、オリンピックが終われば解消されるものではないし、
時が経てば忘れるものでもない。
むしろ、解消してはいけないし、時間とともに忘れてもいけない。

だからこそ、とりあえずこれからも考えなければいけないと思う。


前にちょっとTwitterでもバズっていた、
未来ー過去×他者ー自分の四象限ででいう
変えられるところは「未来×自分」という点で考えると

既に開催”されてしまった”オリンピック、
”もっと”やれたでしょ、って感じているオリンピック、
という最も変えられない位置にある「過去×他者」を
どう「未来×自分」に落とすことができるかは
これからも日本で生きる人間として考えなければいけないとは思う。


今現時点で起こってしまったことを美化するつもりは一ミリもないけれど、
それらをすべてゴミにする気も一ミリもない。


ただ、「もっと」と抱く感情が
これから先の希望や期待感であってほしいと思う。

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