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30年前のウクライナ訪問・思い出・経験・印象12 クリミア半島5 ヤルタと宮殿3つ

この日は、スダクを離れてヤルタに行く予定。
今回はヤルタでの2日分の行程を記した。


    (前回の手記の中で、前日の事を書いたが、
    もう1か所訪れていた場所があった。
    記憶から完全に抜け落ちていた事が、
    引き出しの奥から発掘された手帳の
    メモ書きに記されていた。

    前回書いた2つの出来事の間の”午前中に、
    近くの山アルチャクАлчакや海岸を2時間歩き、
    (ここは完全に忘れ、思い出せない。)
    ちょっと海にも入り、宿に戻って
   ミコラとボルシチを作って昼食に食べたようだ。
  
    その後に2つ目の遠足Новый Светへ行き
    宿到着は9時、とそう書いてあった。
    断片的な記憶との食い違いの原因が分かった。
    当日は、前回の計算より5㎞程は多く歩いただろう。)
  

スダクを発つ

スダクのトーニャおばさんの民宿で2回目の朝、早起きした。

みんなの広場を見るとミコラは既に起きて、前日に日よけ屋根に干していた巻き貝か、中まで乾いたかを台に乗って確認していた。それから中の匂いをかいで「う、臭~っ!」と声を上げていた。それを見ていた人達が大笑いしていた。

自分は出発の支度をし、皆に別れを告げ、和やかな雰囲気のこの民宿を離れた。(前日夜遅くに民宿に戻り、朝も早かった為、子供達にバイバイできなかったのが残念。)

ミコラとの次のシンフェローポリでの約束も再確認した。
6時半のバス。ミコラはバス停まで送ってくれた。
(手帳のメモで、送ってくれた事を思い出した)

スダクからヤルタ

クリミアの観光地図
クリミアの交通地図(年は不明)

スダクのバス駅からヤルタのバス駅まで。112 km、車で約2時間半。
30年前に乗ったはずの直通バスはないらしい。(夏季のみかも)

今現在は、公共交通機関ではスダクからシンフェローポリまでバス行き、乗り換えて三角の2辺のようにヤルタに行かなくてはならない。

スダクからヤルタは 112 ㎞ 離れている。
https://yandex.com/maps/-/CDahNS8i

今、地図を見るとでも良かったのに、あの時は頭の中でバス一択だった。
船は時間が掛かるから?だったからか。今と比べたら雲泥の差にしろ、値段も関係あっただろう。(予定より長期になり旅費がかさんだ他、モスクワまでの切符代がいくらになるかわからないので。)


ヤルタ到着後

ヤルタのバス駅に到着し、街の中心へ向かう。
最初にすること:宿泊場所を決め、写真用のフィルムを買う。

” 宿泊案内 ” が中心地でもなかなか見つからず、人に聞きまり、
バス駅近くへ戻って探し、やっとキオスク的なオフィスで紹介してもらった。「1泊、安い所」をリクエストし、プライベートルームを教えられ、急いでそこへ向かう。

フィルム買いで失敗

道すがら、あちこちにあるキオスクで売っているフィルムを物色し、24枚撮りを購入。ものすごい値段10ドル以上。(標準のASA100なのに)
(当時のレートで1000円以上)
*(当時のフィルム代:日本では36枚撮り1本250円位の最安を買っていた)

フィルムは何種類かあったが、一番安いのを選んだ。
が、「何とかフィルム」と形容詞が付いていて、ちょっと引っかかったが、とりあえず2本購入した。中身も見た感じはいつものと同じようなので大丈夫だと疑わなかった。

直ぐカメラにセット。
なんか異音がする!と思ったが、急ぐので放置。時間内に宿に到着しなければならなかった。


*実はフィルムはスライドの撮影用の物だった事と、セットする時にピッタリ溝にはまっていなかった事で空回りし、数か所で撮った24枚の写真が全部ダメになってしまった。良い場所を選んで、良い構図を選んで撮ったり、他人に何度もシャッターを押してもらったりしたのに、全ての写真を失った。それに気づいたのがその翌日で、絶望感でしばらく凹んだ。

こんなフィルム(ネットから)



フィルムの事は考える余裕なく、指定された時間内に到着するべく、紹介された家へ急ぐ。

プライベートルームで差別?

旧市街地にある帝政時代からありそうな古風なマンションの一室のドアをノックする。
髪をきつく纏めていて「チェブラーシカ」に出てくるシャパクリャクに似た初老の小母さんがドアを開ける。

こちらから拝借
https://renote.net/articles/16830

「こんにちは。宿泊案内所から紹介されて来ました」と言うと、一瞬間を置き、「あら、あなたなの?」と目を丸くして聞かれる。が、入れてくれた。

リビングのベランダ部分を部屋にしたようなスペースの部分貸し。家具も古風で重厚(宮殿のロココ風?)な雰囲気の落ち着いた色合いで、長年住んでいるらしく、家具と物があふれていた。
小母さんの1人住まいで、リビングとは別に自室はある。

取り敢えずリビングに通されたので、荷物を置いていると、誰かに電話をかけ始めた。
「なぜ、あんな子が来るの?今度から普通の子をよこしてよ!」と怒っている。まさかの違う人種嫌い?か。
それにしても、本人がいる前で…。かなり失礼だと思った。
まあ、こんな (貴重な!) 経験は後にも先にもこの一回きりだ。

受話器を置いたのが見えたので「私戻りましょうか?」と聞いたが、
「まあいいわ。」と言うので、気にしないことにした。

その電話の後、キエフからの2人連れの女の子も来た。
2泊の予定との事。
ベッドは2つしかなく、自分は出ていくべきか聞いたが、
彼女たちは「今日は私達一緒のベッドで大丈夫」と言った。
  (彼女達のお陰で何故かちょっと安心。)


  *チェブラーシカ って?

ジブリ美術館ライブラリーhttps://www.ghibli-museum.jp/cheb/intro/のページで紹介されている ↓

↑ は全4話のうちの1話



ヤルタの情報

・歴史 (抜粋)
12世紀 ビザンティン帝国の港と漁業の町。
14世紀にヤルタはジェノヴァの商人の居住地。
1475年にクリミア半島はオスマン帝国に征服され、オスマン帝国の半独立的な属国であるクリミア・ハン国の領域に組み込まれた。しかしヤルタを含む南岸部はケフェ(Eyalet)としてオスマン帝国の直轄領とされた。
1783年、ヤルタは他のクリミア半島地方とともにロシア帝国に併合され、露土戦争の引き金となった。クリミア半島の併合に先立つ1778年、クリミアのギリシャ人たちはマリウポリに移動した。

    (ポリが語尾に付く町は南ウクライナに多いが、
       ギリシャ語の都市・町の意味)

     (ウクライナ南部出身のロシア人女性の
       若い頃の写真を見たことがあるが、
      ギリシャ系の顔立ちが混ざっていた。)

19世紀、ロシアの貴族や上流階級の人々のための高級リゾート地
20世紀の間、ヤルタはソビエト連邦随一のリゾート地
1991年8月19日ソ連8月クーデターゴルバチョフ書記長が別荘に軟禁
                 ( これ ↑ 覚えている)

・経済
1991年のソビエト連邦崩壊以降、ヤルタは経済的に苦しんだ。
ヤルタはその後のロシアの景気回復とともに復興をはじめ、経済状況は好転し、旅行者がヤルタに戻ってくるようになった、

・人口構成
ウクライナの2001年1月1日の国勢調査によると、
ヤルタの人口は80500人であった。(都市部)
民族別では、ロシア人が68.3%、ウクライナ人が25.7%、ベラルーシ人が2.1%、ユダヤ人が0.8%、クリミア・タタール人が0.1%など。



歴史的な出来事で有名 ↓ 

観光地 ↓

昔、行かれた方(http://www.asahi-net.or.jp/~ri8a-iskw/index.htm#CHAP6)の旅行記より、ヤルタ付近の名所紹介を拝借 ↓ 写真あり


ヤルタと近郊を歩く

(カメラのフィルムの件で、この素晴らしい町の写真も残っていない。)


訪問希望先は3つ

訪問希望先1,海岸通り(「小犬を連れた奥さん」の映画より)と周辺

https://yandex.com/maps/-/CDeN4Q13
海岸通り набережная имени В.И. Ленина (赤い線で示す)



訪問希望先2,リヴァヂヤ宮殿(近代史のヤルタ会談で有名)


訪問希望先3,つばめの巣(岬の崖の有名な小宮殿)


大きい地図で訪問希望先3か所の位置関係
  赤の示すところが ” ヤルタ市街の海岸通り "
  その南の真ん中辺にリヴァヂヤ宮殿 (オレンジ色の丸)
  もっと南の岬の先に ” つばめの巣 ”  (青い丸)

https://yandex.com/maps/-/CDeNa45r


小犬を連れた奥さん(チェーホフ)

ヤルタは、チェーホフの「小犬を連れた奥さん」の舞台で有名だ。


古い映画のなかで、女性が海岸通りを小犬とゆっくり散歩するシーンがあり、その場所を訪ねてみたかった。

下の動画は映画の一部。2分半、YouTubeより。
動画を再生すると初めの場面に小犬を連れた奥さん。
場所は海岸通りであり、自分が最初に目指したのはここ。

青空文庫(ウェブ図書館) で無料で読める ↓

         (チェーホフは真面目過ぎないし読みやすいと思う)

朗読「犬を連れた奥さん」    (他の用事中も朗読を聞ける!)


映画全編 ロシア語のみ、1時間24分、白黒を彩色した カラー版 ↓
サムネイル ↓ の2人の表情が素晴らしい。


中年の悲恋物語・・・  
2人だけの世界を見れば感傷的で感動的だが、
こういう不倫の話では、普通
いつも裏切られる側がいつも蚊帳の外である。
苦しみ悩むのは、相手方(配偶者)も同じだと思う。
愛があろうとなかろうと。
そのせいでこの類の話を純粋に楽しめない。


レーニン像のある広場~海岸通り

海岸通りへ行く時、自分はここから出発した。
レーニン像のある広場が丸く、印象に残った。

https://yandex.com/maps/-/CDe0YOJ9
Yandex地図の空撮360度ビュー

丸い広場の真ん中で海に向かうレーニン像の裏手、後方から歩いてきて海が目に入った時、やっとあこがれのヤルタに来たのか…、と思った。

https://yandex.com/maps/-/CDe0YOJ9
上と同じ空撮360度ビュー
上の写真から手に視線をずらしたところ


https://yandex.com/maps/-/CDecjT08



”つばめの巣”宮殿

つばめの巣Ласточкино гнездо (英語:Swallow's Nest)は,ヤルタの街の中心から10kmほど南の郊外にある。岬の崖の上にある小さい宮殿。


手帳のメモより:
この日は、
「2時頃、広場から海岸通りを散歩し、
4時の船で ” つばめの巣 ” へ行き
6時半に戻る」とあったので
ヤルタの港から往復の小ツアーかも。

ここでも、当時の手帳のメモに書かれた、
船の記憶が抜け落ちている。
時間短縮の為、桟橋で思い立って乗ったのだと思う。

Wiki

地図

美しい写真集 ↓


室内は見る所が少ないのでショートで ↓


自分が行った時は、室内は公開されていず、窓から覗くと空っぽの埃だらけの部屋の片隅に、板やらの材料が積まれていた。観光地なのに…、と可笑しくてじっくり見ていた。

崖からせり出したバルコニーをぐるっと一周して景色を眺めた。

雰囲気は動画で ↓


夜、海面に映るヤルタの街の光

20世紀の前半の大地震で半壊していたらしい。


ここは絶景だけれど、見所は意外と少ない(コンパクト)ので
時間に余裕もあり、周囲を軽く散策でき、写真も撮った。
美しい城を背景に、何箇所かでシャッターを押してもらった。
(フィルム空回りでもちろん全部失敗)

船でヤルタの街へ戻り、海岸通りから宿へ帰った。


宿へ帰り、ハガキを書く

宿のオーナーのお婆さんはあからさまに外国人の自分に冷淡だった。

が、夜寝る前に、
途中で買ったヤルタの写真入り葉書を書くため
テーブルの端を借してと言った時、少し表情が緩んだ。
両親に書くと話すと、優しい眼差しになった。

今のようにインターネットなどないし、心配する親とは電話か手紙以外にコンタクトを取る手段がなかったが、電話は高いので、ほとんどの町から絵葉書を送り、元気だよアピールしていた。


   (後にもう1度、こんな経験があった。
   ロシアの飛び地カリーニングラードの宿で、
   停電で全館が真っ暗だった時、
   受付部屋だけランプが点いていたので
   受付の窓の前で、「ここでちょっと
   ハガキを書かせてください」と言うと、
   冷たい受付のおばさんが、急に優しい
   表情になってランプを近くに寄せてくれた。)

 キーワードは「手紙」だ。
  ロシアのおばさんは手紙に弱い!
  という事が分かった! (当時)



ヤルタの2日目、2つの宮殿へ

メモ書きより

「朝7時に起こされ、(予期せずオーナーのお婆さんから)お茶とパンをごちそうになった。(と書いてあった)

バス駅の荷物預かり所で30~40分待たされ、
間引き運転で40~50分待たされ、
トロトロとバスは1時間くらいかけアルプカ へ昼前に着く。
人が多く並び過ぎているのを見て、中に入るのをあきらめる。
正面を散歩して(庭)、バス停で1時間半待つ(間引き2本)」

(間引き運転しています、という注意書きはなく、待っている人が他にもいた)

アルプカ宮殿

距離17㎞ちょっと。所要時間は 車だと約30分、
車からバスのアイコンに変えると、今でも1時間ほど掛かる。

https://yandex.com/maps/-/CDeoY64w


アルプカ Алупка Alupkaには有名な宮殿があり、
行ってみたかったけど遠くてあきらめた、と思っていた。
  が、あきらめてなかったらしい…


有名な宮殿のある町
ヴォロンツェフ宮殿、別名アルプカ宮殿

google地図 ↓

Wiki ↓

↑ (正面入り口付近以外が)ケンブリッジ大学風な雰囲気だと思ったら、建築家がイギリス人とのこと。

アルプカ宮殿に訪れた方の写真多めの旅行記 ↓

宮殿のパノラマ

https://yandex.com/maps/-/CDeoYNmu
360度ビュー
写真手前は坂を下ると海
https://putidorogi-nn.ru/evropa/612-vorontsovskij-dvorets

後の山アイ・ペトリも有名
Ай-Петри 、 Ai-Petri (Ay Petri)

https://crimeabest.com/voroncovskij-dvorec/

アイ・ペトリ山の上空360度ビュー ↓

https://yandex.com/maps/-/CDeoyHn2

アイ・ペトリ山は標高1200m越え ↓

https://www.openstreetmap.org/#map=14/44.4332/34.0549


アルプカ宮殿にいつか行きたいと思っていたら、
実は訪れていた。
30年で全部忘れるなら行かなくてもよかったのか??
ただ、今後2度と来れないと知っていたから
行くことを選択したのは理解できる。
また、記録を見て少しでも思い出せたなら  
やはり記録は残すべき。 


バス移動 アルプカ宮殿 → リヴァヂヤ宮殿

距離は17.5㎞
車で30分前後、バスだと1時間超え
宮殿の建物~宮殿の敷地経由~バス停までも、かなりの距離を歩く。

https://maps.app.goo.gl/qfqTkRmhfGerABYz6
https://yandex.com/maps/-/CDePETN1
(リンク先右下の写真は車でそこまでの動画)


リヴァヂヤ宮殿

Ливадийский дворец Livadia Palace
現在の白亜のリヴァディア宮殿が建造されたのは1911年、ニコライ2世統治の時代だった。建造は1910年4月23日から1911年9月14日にかけて。
造りはイタリアルネサンス様式
竣工から6年後、1917年3月ロシア革命が勃発し、1920年代はじめまでにクリミアも赤軍の手に落ちた。

リヴァディア宮殿では1945年2月4日から11日にかけて、アメリカイギリスソビエト連邦の3国首脳会談、いわゆるヤルタ会談が開かれた。本会議、秘密会議などのほか、アメリカ使節団の宿舎としても利用された。

リヴァディア宮殿は博物館として一般公開されている。館内にはヤルタ会談に関する展示のほか、建築設計図、かつてのニコライ2世愛用の品々などが展示されている。


↑ Yandex地図で沢山の写真が見れる。


リヴァヂヤ宮殿での思い出

メモ書きより
「Ливадийский дворецへ行き、中を見る。(入場料)1000と写真500クーポン」

この日(時間)は観光客が少なかった。
宮殿内を見学中、監視員のおばちゃんが自分の後をくっついて回っていた。

フィルムが空回りしているのに相変わらず気づかないままのカメラで、写真を撮りまくっていた。

途中で「シャッター押してもらえますか?」と言うと、それから言葉が通じると分かったからか、色々話しかけてきた。
もちろん「どこから来たの?」から始まったので、「日本から。今モスクワでロシア語を勉強していて…」と答える。「あら遠くから…」と感動してくれる。

そのうち、彼女は周りをきょろきょろ確認し、誰もいない所を見計らって、立ち入り禁止の紐を一つ外し、中に入って椅子に座れという。

「どこ?」「どこでもいいから、早く!」とシャッターを押してくれた。

その内の1つが、この場所だったかな…。↓

https://yandex.com/maps/-/CDePYV6r


数枚撮ったところで、24枚を超えているのに気づき慌てた。
「これはおかしい!!」

取り敢えず、訳が分からないままフィルム交換した。
来たところを写真を撮るために戻る事は考えず、歩き回って既にスタミナ切れの為、戻る元気もなかった。

教科書に載っているヤルタ会談の有名な丸いテーブルはこれだったか ↓

スライド用フィルムの為、色味が暗い
1枚だけ成功した、立ち入り禁止の椅子に掛けた写真
おばちゃん有難う!


ウクライナの民族楽器

監視員のおばちゃんにお礼とさようならを言い、庭も散歩してから、敷地を出るとウクライナの民族楽器の音楽家が何か奏でていた。少し話して写真を撮らせてもらった。

日本でも有名なバンドゥーラ奏者 ↓ ジブリ映画からの歌

ヤルタを離れる

ヤルタの海岸通りと、郊外の”つばめの巣”宮殿、アルプカ宮殿、リヴァヂヤ宮殿の3か所を駆け足で回った。ヤルタでの予定はここまで。

夕方近かったがヤルタを離れることに決めた。
初めての町に夜の到着は不安だが、大きな町は宿泊料が高く、ヤルタで宿泊所を探すのも苦労したので。


次の予定地

次の目的地はバフチサライ

リヴァヂヤ宮殿から、公共交通での行程を探す。
直通はなく、不便な道のり。
次の経路で行くことになった。

リヴァヂヤ宮殿 → ヤルタ 経由 → シンフェロポリ 経由 → バフチサライ 

 

そして、ロシア風でもギリシャ風でもない、
ちょっと異世界感のあるこの町については次回に。





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