フィクションは現実を超える力になり得るか

【毎週火曜更新・時間堂、年商1億プロジェクト28】時間堂プロデューサー大森晴香です、ごきげんよう。制作のノウハウとか実験について書こうと思っていたのだけど、ちょっとお休みします。今日は、「演劇という虚構の世界には、現実で起きるさまざまな事象を乗り越えるパワーがあるのかどうか」をどうしても考えたい。

昨日、仲良くしているご近所さんに急な不幸がありました。身近なひとを亡くす、という言葉にならない体験をしたときに、演劇にできることはあるのでしょうか。熊本と大分を中心に未だ続く地震でも、昨日まであった当たり前の生活が突然分断される現実があって、そんなときに演劇はなんらかのちからを持っているのでしょうか。

真面目に誠実に生きていても、幸せになれるとは限らない。
突然、前触れなく、人生は急転する。

こんなとき、私は22年前の夏を思い出す。ある日突然、父が亡くなった。当たり前にいた家族が急に死んでしまった驚愕の現実。

それ以上に衝撃的だったのは、父が死んでも世界は変わらず動いていて、私はふつうにごはんを食べて学校に行って寝て起きてしゃべって遊んで、生きていたこと。たくさん泣いたけれどやがて泣き止んで、今では父と過ごした時間よりも遥かに長く生きている。ふだんはほとんど父のことなど思い出さずに過ごしていて、年に一二度だけ「あのとき私が○○していたら、父は助かったかもしれない」という無意味な自己嫌悪をぶりかえす。

ひとはいつか必ず死んでしまうもので、死別生別関わらず必ず別れがくる。
それでも生きている者は、明日も生きていくのだ。うまく言えないけれど。

笑って泣いて元気になるとか、現実を忘れて異世界に没入するとか、客体化して観ることで気持ちを整理するとか、そういう意味で演劇にはちからがあるんじゃないかと、そういう話を書こうと思って書きはじめたのだけど、どれもしっくりこない。そういうひともいるかもしれない。そうじゃないひともいるかもしれない。『ロミオ中止』で黒澤世莉が書いた台詞がぐるぐると頭を回っている。

もしかしたら。

傷ついている当事者や、現実に押し潰されそうな本人には、演劇はおろか他人ができることなどないのかもしれない、と思う。

でも。もしかしたら。

もし、中学生だった私が、現実は想像を軽々と凌駕することを知っていたら。ひとはときとして、自分のちからだけではどうにもできない事実にぶつかることがあると知っていたら。

知っていたところで悲しいことは悲しいし、苦しいことは苦しい。何度経験したところで、誰かが亡くなるというニュースに慣れることなんてないだろう。だとしても、もう少し、現実と戦うのではなくて受け入れることがしやすくなったかもしれないな、という気が、うっすらするのだ。

ちょうど今、時間堂で取り組んでいる『ゾーヤ・ペーリツのアパート』の世界もまた、ままならない人生が描かれているから、こういうことに敏感になっているのかもしれない。フィクションなのに生々しく感じるのは、フィクションなんだからどうとでもできてしまうはずの物語がどうにもなっていないからかもしれない。ハッピーエンドも勧善懲悪も、フィクションだったら成立できるのに。

余談だけど、私は自己満足な自作自演を観ると血の気が引く。作者の好きな展開とか好きな結末とか好きなセリフをちりばめてつくられたものには興ざめしてしまうのだ。現実と違いすぎて、現実のエネルギーに対してあまりにちっぽけに感じてしまって、現実に太刀打ちできないフィクションには興味が持てないのだ。

善良に生きているひとが報われるとか、正直者が救われるとか、そんなの嘘っぱちだと私は知ってしまった。体験的に。でも、できれば、いきなり父が死んじゃうことでは知りたくなかったし、身内を亡くせばわかるなんて、ほかのひとに決して勧められる方法ではない。

つらつら書いて見えてきた結論としては、「フィクションは現実を超えることはない」けれど「現実を疑似体験するためのフィクション」というものがあるということ。それと、「現実は良くも悪くも人間の思うに任せない」ものであり、それを描いているフィクションを、私は信じている、ということ。フィクションを信じるってなんだか語義矛盾みたいだけど、信じられるものだから、私は影響されるんだと思う。

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来週には『ゾーヤ・ペーリツのアパート』のチラシも出来上がって、プロデューサーらしく製作的な話を書ける精神状態に復帰していたいと思います。おやすみなさい。

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