「諦めるべきもの」と「諦めるべきでないもの」を判別する

ある人が、

「「諦める」とは、自然の摂理に適ったことに対して行うことが大事だし、そうやって諦めていくことで、本来諦めるべきでないことに本来行える努力や工夫が行えるようになる。」

と言っていたが、最近このことに納得している。

例えば、生き物は必ず死を迎えるが、これは自然の摂理に適ったことなので、不老不死は諦めるべきことであろう。

程度の差こそあれ、加齢による身体的現象は自然の摂理であり、

例えば50を迎える人間が、10代の見た目を取り戻そうともがくのは摂理に反するので、諦めるべきことであり、

そんなことよりも、骨董品と同じく経年による味わいを如何に出していくかについて諦めない方がいいと思う。

美醜や魅力というのは、実は相対的なものだと最近よく思う。

あるデザインについて、以前は魅力を感じなかったのが、長じるにつれて強い魅力を感じるようになることはしばしば体験することである。

昔は、鋭角的でパワフルなデザインだけを格好いいと思い、それ以外のものには魅力を感じなかったが、そこには「味わい深さ」という魅力の要素を理解する感性が無かったからだと思う。

ある人が、「成長するとは、それまでにない感性や価値観を理解していくことである」と言っていたが、これには納得させられる。

だとすると、若年的特徴と老年的特徴のどちらがより魅力的であるかなんてことは、誰にも断言できないし、その人が「成長」さえしていれば、それまで劣化だと捉えていた老年的特徴も「味わい」として捉え、魅力として自ら演出することも可能だろう。

そう考えると、自然の摂理を理解し、それを踏まえて「諦めるべきもの」と「諦めるべきでないもの」を判別することが、人生のベースとして大事なのではないかと思えてくる。

ところで、冒頭に出てきた「ある人」は、

「諦めるとは、明らかにすることでもある」とも言っていた。

つまり、自分が為すべきでない事を明らかにすることで、自分が為すべき事が明らかになっていくらしい。

毎朝、鏡を見るたびに、自分の頭頂部が薄くなっていることに少なからずショックを感じていたが、

これは自然の摂理として諦めるべきこととして捉えれば、そこに悲観するエネルギーを、自分の味わいに転換する意識に配分したり、高齢でも髪の毛が豊かな人がいるという事実から育毛の摂理を学んで実践するということもできることに気付いた。

こう書くと、少し往生際の悪さも含んでいるように見えるが、まだ毛根が残っている内に、嘆くことをやめて打てる手を打っておけばいい諦め方ができるのではという期待もある。

というわけで、どなたかいい育毛の知恵があれば教えて頂きたい(笑)

こんな感じで、諦めと往生際の悪さの間でその見極めを行っていきたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?