「自由研究とは「愉しい頭の使い方」を知る手段では」

私がどうも学校での勉強に真剣に取り組めなかったのは、

「勉強=頭を使うこと=面倒くさく我慢を要すること」

という刷り込みがあったからではないか。

世間一般では、「頭を使う=面倒くさいこと」という認識が強く、

それが勉強を苦行に仕立て上げているように思える。

確かに、組織で働く際には、面倒くさい頭の使い方をすることが多いかもしれないし、面倒くささに慣れることは、忍耐力を養うことにも繋がるかもしれず、社会適応する上で必要なことかもしれない。

しかし、趣味などの「自由研究」でも、自分なりの問題意識に向き合い探求していくという頭の使い方をしているし、外的な報酬がなにも得られなくても、自ら喜んでやっていることを考えると、

「頭を使う=面倒くさく我慢を要すること」とは必ずしもいえないだろう。

むしろ、そこには「自分が好きな頭の使い方」というものがあり、

内発的動機付けのキモとなるのではなかろうか。

そう考えれば、「頭を使う」ということにおいて着目すべきは、「面倒くささと愉しさの比率」ではないか。

そして、仕事に従事する際にも、「愉しさの比率が高い頭の使い方」を選んでいけばいいし、今まで面倒くさい使い方を愉しいに変換していくことも可能だと思う。

私は、自分との対話を通じて「自分の取り扱い説明書」を作っていくことが大事だと思っているが、その大きな理由として、自分が好きな頭の使い方や、それをしやすい状況をデザインしていくことにあるのだと思う。

そう考えると、誰しもやっている趣味などの「自由研究活動」に注目することは「愉しい頭の使い方」の比率を高めて、本業に活かすためのヒントになるかもしれない。

ところで、私は昔、プレゼンテーションを練習するサークルに参加していたが、そこでは、テーマは自由で各自15分ほどの持ち時間でプレゼンをする中で、出会いや化学反応が起こることを参加者達は愉しんでいた。

今では、そのサークルは活動していないが、

「自由研究報告会」というものを新たに起ち上げてみるのも面白いかもしれないと思っている。

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