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イノベーションを生み出す場とは

知的生産性が上がるオフィスとは何かについて考えている。より広義にはオフィスを場と言い換える。

そのためにはまず知的生産性とは何かを定義する必要性がある。

生産性はシンプルにインプットとアウトプットの比とし、インプットを時間とお金(時間も金額換算できるが)とする。

ここまではいいとして、問題はアウトプットである。ここでいうアウトプットとは、付加価値である。付加価値といっても広いので、画期的・独創的かつそれが社会の役に立つようなビジネスや商品・サービスのアイデアが生まれることとする。それを目標関数としても、その画期性、独創性をどう評価するかが本質的課題である。

つまり、ここでいうアウトプットとは、イノベーションの核となるアイデアとする。それも従来の(限界に達している)やり方をくつがえす、破壊的なイノベーションとする。

イノベーションとは単なる要素技術、まして科学的な発見ではなく(それはブレイクスルーと呼んでも良いが)、誰をターゲットにどういうソリューションをどうデリバーして収益を上げるかの事業モデルを組み立てられて初めてイノベーションとなり得る。

マーケティングの世界でいういわゆる「キャズム(chasm)」を超えられないものはイノベーションとは言わない(ことにする。自論である)。イノベーションの核となるアイデアと、顧客に訴求する価値をデリバーできる事業モデルと、事業モデルを推進するリソースが伴って初めて実現するものである。

基本的なフレームワークをこう設定することして、そのようなイノベーションを設計する上で場がどうあるべきかを考えてみたい。

日本では、野中郁次郎先生の有名なナレッジマネジメントが人口に膾炙してから、知的生産性を上げるオフィスというものが研究され、様々な形態、或いは概念が提示され実験されている。

しかし未だ結論は出ていない。

否、結論は無いというのが結論であろう。

画期的かつ独創性が高くかつイノベーションを引き起こすアイデア💡は、そもそも「オフィス」では出ないからだ。オフィスとは従来から作業場であって、アイデアを出す十分条件ではない。

発想する場はむしろ予期できない。小説家しかり作曲家しかり。ビジネスでもそうだ。ゴロゴロ寝ている時、トイレや風呂、散歩中や旅行先かもしれない。

最近ではトラベリングワークなどという概念も出てきているが、では旅行すればアイデア出るかといえばそうではない。

その確率は上がるかもしれないが因果関係ではない。

ではそもそも「生産性が上がるオフィス」とは自家撞着なのだろうか。

オフィスの再定義をすれば自家撞着ではなくなる。発想法を含めワークスタイルとセットで考えればよい。

どう再定義するか。コトを起点にするのである。従来のハコ(建築物)やモノ(家具や備品)ではない。

ちなみに私は建築専攻なのでハコモノ起点の考えには慣れ親しんでいる。

一方で経営コンサルタントとしてはハコモノは手段にしか過ぎず、あくまでもビジネス起点で考えている。

オフィスというより、この先はワークプレイスと表現すべきであろう。ワークプレイス=働く場である。

よくワークライフバランスというが、これはワーク(働くこと)とライフ(生活)を対峙させる考え方である。しかし、働き方が、時間と場所を含め多様化する、しかもそれが職種ではなく一個人の中でも多様化することによって、より柔軟に時間を有効活用できるようになる、これが昨今の働き方改革である。

いつでもどこでも働けるからこれまで以上に労働時間が長くなるということではもちろんなく、逆にいつでもどこでも自分の時間を持てるということでもある。管理する立場からしても、時間や場所の拘束ではない管理の仕方を求められるということだ。そして、それは単にテクノロジーの活用でできるようになるというのではなく、組織のあり方や方針、個人のマインドセットも併せて変えなければ実現しない。

先日、たまたま米国人と日本企業の時間の使い方について議論する機会があった。大企業はとかく会議が多い。会議には3つの目的がある。情報共有、アイデア出し(ブレストなど)、意思決定である。情報共有の会議は会議のための会議、主催者のための会議であって、単にメールで済むことばかりである。

一方で、アイデア出しや意思決定という付加価値創出の会議は少ないかあっても形骸化しているかファシリテーションができず機能していない。結果としてほとんどの会議は無駄な時間になっている。

重要な意思決定や斬新なアイデアは会議以外の場で行なわれており、単なる承認かせいぜいチームビルディング(消極的な意味)の時間になっているに過ぎない。にもかかわらず会議の時間は長い。15分で済むものに1時間、2時間かけている。しかも膨大な(読まれない)資料の作成に膨大な工数が割かれている。

そもそもやるべきはこの膨大な非付加価値業務の見直しにある。働き方改革の大前提はまずここにあるのだ。現状やっていることを見直しもせず、テレワークだの何だのと号令をかけても意味は無い。

少し話がそれてしまったが、イノベーションを生み出す「場」ということ自体が無理があるということだ(そういうタイトルにしておいてなんだが、世間で言われていることに対する問題提起なのでご容赦いただきたい)。促進要因にはなり得る。

 前述のように、ぱっとアイデアがひらめく瞬間と場とは直接関係がない。ただし、クリエイティブなセッション、すなわちチームとしてディスカッションし知的な刺激を与えあいながら弁証法的に正反合が行なわれるような、或いはひとつのアイデアから連想ゲームのように次々とアイデアが生まれ、皆が別々の帽子を被って(six thinking hats)アイデアを磨いていくようなことを可能とする場の条件というものはあろう。

ただしそれはハコモノというハードだけの問題ではなく、時間帯であったり、雰囲気であったり、そもそもどういうメンバを揃えるか、といった要因の方が寄与は大きい(自分自身の経験や実務での経験に照らして)。

そう。まずはメンバを決める。そしてメンバがどういうセッションを行なうか合意し、いつどんなところでセッションを行ないたいかアイデアを出し合うところから始まる。エネルギーレベルの高いタイミングで、エネルギーレベルを高く維持できるようなそんな5次元の「場」。

自分はクラシック音楽を自ら演奏もするが、それはあたかも、一流の演奏家達による息の合ったアンサンブル(例えば弦楽四重奏)、ジャズのセッションに似たものかもしれない。時間芸術的な。そこに「再現性」は無い。

「ギグエコノミー」という言葉が昨年あたり良く言われたが、経済がそういうものになるというのも面白い発想かもしれない。従来の産業の考え方のアンチテーゼとして。

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