見出し画像

悲劇の所在

(注:この投稿は、劇団STRAYDOG主催「幸せになるために」の感想の覚書です。ネタバレを含みます。)

のんべんくらりとしているうちに下北沢の公演分のチケットを逃し、辛うじて入手できた大阪公演のチケットを握りしめて夜行バスに飛び乗り、8月13日土曜の昼の部の公演を観劇してきた。年に多くても5回ほどしか演劇を見ない者としては、演劇をどう体験しどう評べきかについて毎度のことながら懊悩するのだが、この舞台は僕を一層深い沈潜に誘うものだった。備忘録なので粗削りな表現のままであることをご容赦願う。また、人の名前を全く覚えられないので、人名が書かれておらず分かりにくい文章になっていることも予めご了承いただきたい。

あらすじ

この公演は日航機墜落事故を基にしたフィクションである。開幕直後、日航機123号便も担当した元整備士の男が、家族とともに映画スタジオに足を踏み入れる。その場所はかつて彼が働いていた航空機の整備場を改築したものだったが、そこで彼らは白い衣装を着た女性、鳥居みゆきに出会う。お互い、家族全員で日本航空から委託された「映画」に出演する予定になっており、そこに集まったのだった。「映画」は、事故の記憶を風化させないことを目的に日航が出資して作られるもので、事故関係者が一堂に会して撮影される。先の整備士の家族のほか、町工場を経営する家族、三人娘を持つ家族、坂本九ならぬ中本九の家族、そして映画監督と鳥居みゆきの家族、救助に当たった自衛隊員ものちに登場する。コミカルな会話のやり取りのなか、映画の撮影に当たる映画監督は、ミュージカル調の演出を行いたいと、事故を歌やダンスで表現したり、クリントイーストウッドの「ハドソン川の奇跡」と同じ演出を行うが、出演者から演出や、事故の原因について疑義が提示されたこともあって撮り直しとなり、徐々に日航機墜落事故に迫真していく…。

というものなのだが、ひねりがある。日航機墜落の事故原因の真相が、自衛隊が誤射したオレンジ色に塗装された無人標的機の衝突であるという話(!)が出てくるあたりで、映画の出演者たちの一部が「実際に飛行機に乗っていた人々」であることが明かされる。整備士が映画スタジオで霊が出ると述べるシーンがあるが、そう発言した整備士本人も、事故の原因を押し付けられて自死をした故人なのであった。アナクロニスティックな会話の食い違いや、物語の序盤から坂本九ならぬ中本九が「世界的な有名人」として「映画」に出演したり、鳥居みゆきの口から「糸瓜の柔らかい蕾は、固いままでした」と、息子の成長が止まっていることを暗示するような表現も述べられたりと、随所に示唆があるので、特に驚くことでもはないのだが、視聴者は登場人物の誰が犠牲となるのか確実には分からないまま、違和感と不安を感じながら、相変わらずコミカルな展開が続く中盤までを見守ることになる。
物語が決定的に転換するのは、飛行機に一人で搭乗しようとする息子の手を、鳥居が引いて連れ戻そうとするシーンである。再会した自分の息子を再び死地に送ることを拒む鳥居みゆきに、夫である監督は「お前が始めたことだ」と言い伏せる。どうやら彼女が「関係者」を集め、夫がそれを「映画」にしているようだ。この場面以降、一転してシリアスな展開に変わり、事故の報道や自衛隊員の活動、悲しむ遺族の様子が怒涛のように語られる。最終盤ではフライトレコーダーの記録に沿って「映画」が撮られて完成する。そして事故を風化させず、原因を究明し悲劇を再び繰り返さないことの重要性を訴えてハイ・ファイ・セットの「幸せになるために」が歌われて物語が終幕となる。

賛辞

素晴らしい歌、ダンス、熱のこもった演技を見せてくれたすべての演者に感銘を受けた。このことは強調してもし足りない。そのうえで、感じたことを述べたい。

歴史的事実

上演から37年と1日前、乗客乗員520名の命を奪った単独航空機事故として史上最悪の事故が起こった。事故調査委員会によれば、事故の原因は圧力隔壁の修理ミス。圧力隔壁が壊れて、流れ込んだ機内の空気の圧力が堰を切るように垂直尾翼から噴出してこれを破壊、油圧システムの管が通る垂直尾翼を失ったことで飛行機の他の部分についても油圧による制御が不能になり墜落したというもの。
だが、これについては陰謀説もある。フライトレコーダーにあったクルーの不明瞭な発言は「オレンジエア」とも聞き取れる(事故調では「オールエンジン」、その他「ボディギア」の説もある)もので、自衛隊のオレンジ色の無人標的機、あるいはそれを狙う小型ミサイルが日航機に衝突し、いち早く現場に到着した自衛隊は証拠隠滅を行ったというもの。この舞台は、基本的にこの陰謀説に依拠した物語として語られている。(なお、陰謀論派の主張には、先に到着した自衛隊が生存者を火炎放射器で焼き尽くしたとするものもあるが、流石にこの作品ではそこまでは踏み込んでいなかった。)

演劇の現実性

僕の考えでは、事実factはそれ自体では美ではない。現実性realityが真実truthに共鳴を起こす様が美なのである。完全に虚構の世界の虚構の人物を描く作品であっても、傑作は、鋭い心理観察とナレーションによって、人間や社会の根源的な真実truthが共鳴するものだ。詩人キーツの有名なフレーズ、“Beauty is truth, truth beauty”という言葉の意味も、僕はそのように理解し同意する。
だが演劇において、このrealityの実現は容易ではない。劇はその機能的な特性においてrealityから離れた装置である。舞台の上には別の何かに見立てた小道具しかないため、ナラティブやジェスチャーに大きく依存する。そのうえで、日常では小声で話すような、あるいは独白しないような言葉を大声で、細かな顔の表情の動きを大仰な身振りで表さなければならない。つまり、芝居においては、基本的に人間による”劇”的あるいは“劇的”な表現、すなわち芝居がかった表現しかできないのだ。
芝居がかった表現によって、如何にしてrealityを提示するかは、舞台関係者の腕の見せどころだ。脚本や演出の段階では、人の感情のプロセスを丁寧に描いて追えるようにしたり、インパクトのある言葉を使用するなどの技法を凝らし、役者は情感のこもった言葉や身振りをして強い刺激効果を目指すかもしれない。その結果、伝えるべき思念や感情が伝わることで、 劇的表現のなかにもrealityを感じさせてtruthの共鳴をもたらすことができるのだ。ただし、努力を要するのは、実は演者だけではない。観客もまた、現実感の感受性を演劇のレベルに落とし込むコントロールを行うことによって、鑑賞体験を成立させる必要があるのだ。子供ならいざ知らず、現実世界の複雑さを否応なく体験し、悩み考えている大人にとっては、ややもすると単純化されがちなキャラクターの芝居がかった芝居に、realityを感じることは難しい。豊かな鑑賞体験を得るためには、現実感の感受性を下げたうえで、これまでの知識や体験を総動員して、時には主題やメタファーやオマージュなどを探りながら、多角的に演劇を楽しむ必要がある。

事実を基にしたフィクションの現実性

事実を基ににしたフィクションの文芸作品においても、虚構と全く同様に、realityを経由してtruthの共鳴に至ることで美が完遂される。そして、素朴に考えれば、事実をもとにしたフィクションは、factもrealityも虚構作品よりも強固であるため、美の実現は容易であるように思われる。
だが、そうではない。この形式の作品制作においては、factに依拠しつつも、それを取捨選択し、時には換骨奪胎して物語にとって都合よく改変することで、エンターテイメントとして成立させている。事実が改変され、実際の体験者でない人が「体験」を語り、最終的に観客にカタルシスをもたらすように設計された物語は、端的に言えば粉飾である。その欺瞞を意に介さないような度量を、意識的にせよ無意識的にせよ、観客はまず持っていなければならない。
次に、改変されたファクトに基づいて、人間の反応にrealityを感じるのも難しい。一つ一つの行動が史実と異なっていないか、不自然でないかと、神経質な目を向けてしまうからだ。
また、仮に観客が結果的にtruthに触れて感動したとしても、それは歴史的事実の存在を前提とした感動なのか、あるいは閉じた物語世界への感動なのか、区別が困難である場合も多いだろ。感動が、史実であると思い込んでいたこと
それが史実として存在していたという驚きや喜びによって生じていたなら、歴史的事実と異なることを知ったら感動が台無しundermineされるだろう。

主題とそのアプローチに関する感想

以上の立場から、僕はこの作品に釈然としない印象を持っている。事実を解明して惨劇を再び繰り返さないために事故のことを考えようと呼びかけるこの舞台のメッセージが、歴史にも物語にも向き合えない袋小路に向かわせていると感じた。
例えば、整備不良との責めを受けて自死に至った整備士やその家族の気持ちは、陰謀論を事実として認定すれば深く共感することができる。僕も、事故調査委員会の発表については、急減圧があったとされているのに操縦士が酸素マスクをつけていないのは何故か、隔壁の事故だけ尾翼が吹き飛ぶのかなど、いくつかの未解決な謎が残っているとは感じる。だからといって、陰謀説に便乗するのは早計だろう。信じるか信じないかはあなた次第、という無責任な立場を取るにしても、表現者として誠実であろうとするならば、「事故の記憶を引き継ぐべき」というメッセージの文脈で開陳することは憚られるべきではないだろうか。
僕としては、ただでさえ、現実感の感受性レベルを演劇に合わせて調整しているのに、事故のfactの部分においても調整を要した。視点やフォーカスの転移に忙殺されていたため、無闇矢鱈に叫びのように繰り出される悲惨な状況や思いの数々も、どこか冷めた目で見てしまった。劇中に「映画とか舞台ってなんのためにあるんだろうな」という台詞がある。それに対して、「映画や舞台は私たちの知らないところに連れてってくれる。素敵な人にも出会わせてくれる。」というものだった。この回答自体は妥当なものだと思う。だが、事実を基にしたフィクションにおいて、「知らないところ」とはどういうところなのか、素敵な人とはどういう人なのか。知らないところが虚構の世界だとすれば、空の悲劇を生まないように、というメッセージもどこか空々しい。「真実が明らかにならなければ心から悲しむこともできないのです」という台詞もあるが、そうだとすると演劇のキャラクターや観客の抱く悲しみはどこからやってくるのか。この作品の難点というよりも、事実を基にしたフィクションの鑑賞方法が分からず悩ましかった。

演出に関する感想

前半部分の笑いが、芸人に持ち芸をさせるメタ的演出を含んだり、個人的にあまり好きではない美醜や性的なことを扱うネタを多く含んでいることで、個人的には楽しめなった。前半がコミカルで後半がシリアス、という演劇にありがちなパターンは、シリアスな後半部の描きかたが重要だといままで思っていたのだが、実はコミカルな前半部を飲み込めていないとシリアスにも乗れないのだと実感させられた。後半のシリアスも、演者の爆発的な勢いでこちらの感情がねじ伏せられたが、台詞自体はクリシェで、知性や独自性は感じられなかった。一方、舞台を機内に見立てた演出は、観客が乗員のように感じられるとても緊迫感のある良いものだった。だが、これはフライトレコーダーや飛行機の航路について事前に知っている私のような者にとっては、現実の会話とどうしても比べてしまうし、現実そのもののもつ潤沢なrealityに敵うはずもない。
また、細かい好みの言えば、日航機墜落は坂本九の死亡とはできるだけ切り離して描くべきだと思う。520人もの人々の人生そのものが根こそぎ奪われる悲劇を、彼の歌の軽薄な人生観で表すことはできない。(当然、坂本九が悪いのではない。誰の歌であっても、想定していない大規模な人的被害と結びつけられれば、それに比して軽薄とならざるを得ない。)

おわりに

批判的な感想になってしまったが、文字の多くを割いた通り、根本的なわだかまりは、作品そのものではなく事実を基にしたフィクションというジャンルに起因するものである。また、この演目が日航機墜落事故について再度考察をする機会を与えてくれたのは紛れもない事実であり、その意味でメッセージは確実に受け止めている。この作品を上演することの社会的な意義は高く、演者の傾けた労力の大きさに敬服し称賛しきれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?