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一神教の難しさ

いつも不思議に思うことがある。何故、モスリムはスンニ派とシーア派があんなに対立してしまうんだろう?

スンニ派にしてみれば、自分のような仏教徒(とも言えないが、出入国書類には他に書きようがないのでBuddhistと書く)なんかより、同じアラーの神様を信じるシーア派の方が余程近しい筈だと思うのだが。。。

実は、彼らの反目は単なる近親憎悪的なものでは無く、根源がモスリムの教義にあるのではないかと考えている。

モスリムの思想は、世界のすべての事物や事象をハラール(善)とハラーム(悪)に厳密に分ける2分論の立場に立つ。そして、ハラールかハラームかを決定するのは固より人間などではなく、アラーの神そのものなのである。そしてその神のお言葉を伝えるのが、予言者モハメッドへの神の啓示が綴られたクルアーン(コーラン)なのだが、問題はモハメッドさんはもうご存命ではないから、もしクルアーンの内容に疑問が生じた場合に、誰かに判断を仰がなければならない。それを、厳密なイスラム法学者の解釈に委ねるスンニと、モハメッドの子孫による、ある程度柔軟な解釈を許容するシーアで対立してしまうことになるわけだ。

我々異教徒にしてみれば、大体一緒なんだから細かいところはいいじゃんなんて思ってしまうが、モスリムにとってはそんないい加減は絶対に許せないことである。というのは、世の中には善か悪かしか無い訳だから、悪を善だというものは神を冒涜しているのだ。むしろ異教徒よりもたちが悪いのである。

これは仏教の思想とは180度違う。仏教においては、絶対の善も絶対の悪も存在しない。自分の存在自体が既に相対化されているわけだから、絶対に正しいものなど存在するわけが無いのだ。お釈迦様は45年あまりも布教活動をされたわけだが、あらゆる機会にあらゆる場所で、さまざまな相手に対して、相手に理解できる言葉で相手に理解できる難度の教えを解いてこられた。つまり対機説法だ。

戒律についても、世俗を捨て、厳しい戒律を守ることが要請される僧侶と、最低限の戒律をまもるべき在家信者は区別されている。さらにさまざまな理由で、正しい行いをできなかったものでも、ただひたすらに阿弥陀様にすがれば救われるとさえ解く。つまり、死ぬまで改心しなかったものより、死ぬ前に一回だけ改心したものの方がマシやんという事なのだろう。まことに相対的である。その伝でいくと、無宗教などと罰当たりな事を言う現代日本人よりも、お他所の神様を深く信心しているモスリムの方が、お浄土に近いのではないか?とも言える。




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