2019/10/13 JJFゲストステージ感想

どうも、じんです。
先日、東京へ遠征にいきました。
2019/10/13(日)はJJFの二日目(台風のため実際は一日目になってしまったが)で、ゲストステージを見ることができたので、それについて書く。

概説

JJF2019のゲストはJonglissimo(ジョングリッシモ)で、
ペアのクラブパッシングの世界記録やIJAのことで彼らを知っている人もいるかもしれないが、今回のステージ「QBS」では
Manuel Mitasch、Christoph Mitasch、(Mitasch兄弟)
Dominik Harant、Daniel Ledel、(cf. Daniel&Dominik2012IJA
のパッシングうまうまの四人に、
フープのInga Schäfer、ディアボロ(とピアノ)のEdwin Guggenbichler、
で六人、以上が演者で、
+スタッフを入れてチーム自体は計10人っぽい。※
https://www.qbs-show.com/en/#artists

※初演のチーム構成は10人とあるが、裏方は一人+JJF実行委員会のスタッフ数名で今回のチームだったようだ。

QBS(キューブス)

元々は2014年に初演された作品で、今回と全く同じではない(だろう)が、映像や写真でどのような感じかがつかめると思う。

JJFのHPでの紹介コメントは、以下の通り。

Jonglissimoは、ジャグリングが魅力的なビジュアルアート形式となるという確信のもとオーストリアで結成されたチームです。ジャグリング、演劇、そしてテクノロジーの組み合わせによって、世界トップレベルの芸術性を生み出します。

フライヤー文章は以下の通り。

今回のステージで披露する演目‘QBS’は、マルチメディアアートとジャグリングの組み合わせによって作られています。このステージショーは、魅力的な技術革新と素晴らしいジャグリングの技術が出会うことで可能となりました。
舞台となるのは味気のない繰り返される日々のさびれた工場。観客は遊び心のあるカラフルな世界(a playful and colourful world)の旅へ出ます。自由自在なプロジェクションマッピングの視覚効果(Visual effects on a flexible projection surface)とトップレベルのジャグリングの融合によって、夢のような世界が作り出されます。シンプルな動きによって生み出される、美しいパターンや光の軌跡。そこに、ライブミュージックやユーモアが合わさってできた本公演’QBS’をどうぞお楽しみください。

僕が見た席はT列の9番と若干後ろ目だったが、個人的には映画は後方で見るのが好きなので良し。
19:00-開演、上演時間は75分くらいだったか?


端的な感想

簡単に言うと、面白かった。総合的な評価〇です。後で詳述するが、端的に書くと、

良かった点
・Flowじゃーん。 Flow(画+リズム)+色
・テクノロジーで延長線(拡張補助線)を引くのが上手いですね。
・視ること  鏡、光、写像、次元

いまいちな点
・構成
音楽
全体構成 それぞれのシーンのつなぎ、全体の筋

という感じでした。
以下、それぞれ詳しく述べる。


Flowじゃーん。

『ジャグリングが魅力的なビジュアルアート形式となる』
『シンプルな動きによって生み出される、美しいパターンや光の軌跡。』

ジャグリングにおける道具が画を作り、それが時間軸で変化することでリズムが生まれ、軌跡となり、そして僕が「Flow」と呼ぶ、「画」とリズムからなるジャグリングの形式となる。
Jonglissimoがやっている「Light painting」は、まさに視覚芸術としてのFlowをやっている。運動に伴って作られては消えるはずの画とリズムが残る。しかしそれはさらなる運動で塗り重ねられ、絶えず画は変化する。
光る道具の光の色は変化させることができるようなので、色の変化の要素がFlowにさらに加わっていると言える。

「目にうつくしいものは”よい”」というのは一つの本質だ。

軌道が残るだけでなく、それを横に流していくことで、クラブジャグリングのサイトスワップがラダーノーテーションとして可視化されるところとか、当たり前ながらも「お、いいね」ってなった。


Flowをやっているジャグラーは実際多いと思うけど、「やるぜ、バチバチに視覚でやるぜ」って宣言している人は少ないんじゃないかと思う。


テクノロジーで延長線(拡張補助線)を引くのが上手いですね。

光らせて軌道をリアルタイムで軌跡として残すのもそうだが、よくわからん技術が使われている。テクノロジー万歳。
具体的に何が使われていてどうすごいのかは不明だが、重要なのは、「テクノロジーがその作品で何をするのに役立っているんですか」ということだ。
新しいtechができると「すごいでしょ」って見せたくなる気持ちは分かるが、「それで?」と言われてしまってはいけない。デジタル・コンピュータ・なんだかすごい・テクノロジーは、(mani-techと同様に、あるいは異なって、)新しさの価値とは別の、新しい技術の”作用の価値”を求められる。

デジタル・コンピュータ・なんだかすごい・テクノロジーは最近流行っているようで、「プロジェクションマッピング」って語も正しいのかよく分からぬまま僕も使うが、映すよ、とか光るよ、とかは今では多々あって、(【参照】)
Nightlight」とかは正直「はいはい」って感じで見ていた。上手いから良かったけど。音楽のせいかも(後述)。
あと、序盤の「仕事」「工場」「可用性」「創造力」とかの文字を映し出すやつに至っては(僕がその技法を嫌っているので)「そんなくそダサなことしなくても」と思った。
女性が映像に溶ける(変身?)シーンとかは普通に良かった。

【参照】
enra
(望月ゆうさく氏が所属していた、現在は野中葵氏が所属しているっぽい)

ELEVENPLAY
(MIKIKO氏(Perfume関連でも知られる演出振付家)の主宰するダンスカンパニー)

他にも


(「マルチメディアアート」って語はよくわからないので嫌い。)

とにかく、「ジャグリングが、デジタル・コンピュータ・なんだかすごい・テクノロジーと組み合わさって何の作用が生じるから良いの?」ということが問題とされるわけだが、その答えとしては、「デジタル・コンピュータ・なんだかすごい・テクノロジーで延長線(拡張補助線)を引いている」と答えることができる。

0:49-の1クラブでは、一つの道具の軌跡を万華鏡のようにすることで、

フープでは、道具の軌道を反転させた四分割画面にすることで、

テクノロジーが延長線を引くことでジャグリングを拡張していると言える。
言い換えれば、ジャグリングという図形にテクノロジーが補助線を入れることで、拡張したまた別の図形=全体の視覚効果(前述のFlowによる視覚的「美」)が見えてくる。

0:59-のデカボールに認識を与えて図形化するところなどは、まさにテクノロジーが、ジャグリングから拡張した(しかしまた異なる)画をみせている部分だ。その全体の画が”うつくしい”かどうかは今はおいておこう。

ここで重要なのは、拡張した図形の基礎をなすのはジャグリングであるということ(翻って、テクノロジーはあくまで補助線でしかないということ)である。
デジタル・コンピュータ・なんだかすごい・テクノロジーはなんだかすごいので、それ自体でなんだかすごい視覚効果は生み出せるはずである。しかし、そこにあえてジャグリングという(三次元的・身体的・「パフォーマンス」的な)ものを入れていることは重要な点である。
つまり、彼らは”単に”良い視覚効果をやりたい訳ではない、または、ジャグリングを入れることで特有の良い視覚効果になると思っている、のだろう。


「視ること」

ここが最も僕が書きたいことで、本作品の根幹として最も良かったと僕が感じたところだった。

『ビジュアルアート』をやっている彼らとしては、「みること/Seeing」について考えないわけにはいかない。(ビジュアルアートをやっている彼らの作品を解釈する際には、彼らが「視ること」をどう考えているのかを鑑賞者である僕としては考える。)
とすると、僕は、鏡、光、写像、次元といったところに着目する。

女がリングを持ち、男とのあいだにリングの面をおく。そのリングを境界に/対称にして、女の動きとまったく同時に、同じように男が動く(男の動きとまったく同時に、同じように女が動く)。
リングが「鏡」であると、鑑賞者は認識する。女と男は、いつの間にか立ち位置が入れ替わっている。

その導入からリングは男の手にわたり、リングジャグリングへ。

0:56-の、男によるリングジャグリングのシーン、
「鏡」から意味の流れを引っ張って、反転させたリアルタイムの映像と並べているかと思いきや、両者に違いが現れ、男は映像の中の自分と対決することになる。

次元

映像の中のリングジャグリングをする男を、観客は多視点から見ることができる。(こういうのも3D映像って言うのだろうか?)観客の身体は椅子に座っていながら、映像に対して三次元的視覚を得ることになる。
対して、演者の生の身体。観客は一方向からしか見ることはできない(例えばこちらを向く演者の背中を観客は見ることはない)が、生の身体と、その運動の魅力は何だろう。

最後のオチとして、映像の「画面」から出てくるタイツの人間。裏側をばらすユーモアでありながら、構成の上でも重要な配置。(後述)

Light painting」しかり、「Night light」しかり、道具が光ることを多用する向きがあるが、「光」は視ることには欠かせないものだ。


1:09-の3クラブジャグリングに懐中電灯かなにかで光を当てるシーン、
多方向からの光によって、ジャグリングする影が複数、後方に写し出される。
光によって写し出される影を見る。光源は移動し、影はその位置と大きさを変える。
一人と3つのクラブが、三人と9つのクラブに見えてくる、が、”本物”は一人と3つだ。ここでもリングジャグリングのシーンと同じく、本物と写像。living things と image。「生きられる形」と「作られる形」(cf.)。

写像、次元

生の身体の運動と映像/生の身体の運動と影、というのは、三次元とその写像である二次元、と言っていいだろう。
それに対して、テクノロジーで延長線を、のところで紹介したシーンで行っていることは、目に見えている生の身体の運動よりも多くの情報を映像は提示している、つまり「目に見えているものが全てではないこと」を示している。”現実に”見ているものが”本物”だ、という感覚を覆そうとしている。
ここでは、[生の身体の運動]と[映像/影]という三次元と二次元ではなく、[生の身体の運動+テクノロジーによるイメージ]と単なる[生の身体の運動]が四次元と三次元とも言うべく状態になって提示されている。
「四次元」というのも不適切な語だろうが、とにかく、写真や絵画(picture)は現実に視ているものの写像である、というような考え方をテクノロジーによって更新し、イメージ;imageの力というものを復権する、もっと強いものとして打ち出す考え方を作品によって表している。


構成

と、褒めるべき点を色々挙げながらも、いまいちだと思うところもある。それは「構成」だ。
「構成」という語をいい加減に更新したいが、一つには音楽、もう一つには全体構成(それぞれのシーンのつなぎ、全体の筋)だ。
音楽については、
・ピアノの生演奏の部分と、音源(テクノ?HIPHOP?イケてる感じの音楽)の部分との差が上手く受け取れなかったこと
・ピアノ演奏の映像とディアボロのジャグリングのシーン、ジャグリングのミスのせいもあったかもしれないが、あきらかにジャグリングと音とが調和していなかった。そもそもディアボロのジャグリングの質感とピアノの音の質感の合わせって超難しいよ。

全体構成については、
・シーンのつなぎがフワッとした箇所があった。フープのシーンからディアボロのシーンへの入りとか。
といっても、良い箇所もあった。
前述のリングジャグリングの映像「画面」から出てきたタイツマンは「次元の超越者」(二次元から三次元へと出てきた者)として存在し、舞台を降りて観客席の方へやってきて、第四の壁をも物ともしない「外部者」としても機能して、そのまま(物語の筋の)外部装置であるはずのピアノの演奏者を連れてきてピアノの前に座らせてしまう。これができるのは彼だけだったろう。フィクション(物語)と現実世界との次元の超越者。
非常に良いシーンのつなぎだと思った。
・全体の(物語の)筋として、「夢」という構造の利用は、凡そよくある筋で「うーん、」とも思ったが、夢を”見ること”、イメージimage、というつながりがあるのでダメとも言えない。
ただ個人的には、『ジャグリング、演劇、そしてテクノロジーの組み合わせによって、世界トップレベルの芸術性を生み出します。』とあった「演劇」の語について敏感になっていて、この筋で「演劇」の組み合わせとか言っちゃうのもどうか、と思うわけです。

あと、「構成」の中でも、プロジェクションを使うから必ず必要となるスクリーンを、舞台造形物である白いキューブで構成するというのはとても良いアイデアと感じた。キューブも、積み上げられたり移動したりと舞台造形が全体の形を変えたり、キューブの上に乗ってジャグリングするシーンもあって、単なる処理として用いられているのではなかったことも良かった。

と、いう感じで、ぬ?と思う所もありながらも、とても満足して帰ってきたJJFゲストステージとなりました。JJF本体には参加してないんですが、ちゃんと外からゲストを呼ぶことにもJJFの意味があるよな、と感じられました。

来年、福井でみられるゲストステージの希望アンケートもしているみたいなので、どうぞ。



宣伝。
私の所属する『ピンクの猫』は、ジャグリングについての言葉や概念をやっていくことで、以上に書いたような豊かな鑑賞を、世界の見方をもう一つ得ることを可能にすることを目論んでいる団体です。宜しくお願いします。


20191111追記

せっかくなので、僕が見た範囲のもので感想ツイートをまとめておく。


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