「Flow/フロー」という語について

どうも、じんと申します。 Twitter→@jin00_Seiron

これはジャグリングのアドベントカレンダー企画2018の12月11日(火)の記事として書いています。企画者である後輩っぽい氏に感謝をここで述べておきます。やったもん勝ちで優勝です。

これから続く長い文章を、noteという媒体で発表することは、note利用者でない人のアクセスし辛さや、1ページのスクロールで表示される読みづらさ等の点から不本意だったのですが、動画等が貼り付けられてすぐに見られることや、僕の他のnoteで書いたことを参照して欲しいところが多々あるので、やはりnoteが妥当と思いました。前後文の参照などは頑張ってしてください。


「Flow/フロー」という語について

Flow(フロー)」という語がジャグリング界隈(主にポイスピナーを中心に)で使われており、僕も使っているが、僕の使う「Flow」という語の意味が不明確であり、また、彼らと僕の「Flow」という語が指すところのものがどうやら違うようです。
なので整理したい。
そのために、関連していると思われる様々な「Flow」定義を参照したい。


1.ルドルフ・フォン・ラバンの「Flow」

まず始めに紹介したいのが、ルドルフ・フォン・ラバン(Rudolf von Laban)という人の提示するFlow概念です。
ラバンは、彼の身体運動分析論(Laban Movement Analysis, 略称LMA)のeffort論において、ある運動がどのようなものであるかをみるための運動の要素として、空間Space、時間Time、重さ(エネルギー)Weight、とともに、動きの流れ「Flow」を挙げています。
  ※じん『ルーチン創作法概論』第二部第一章第四節参照
   また、詳しくはこちらも参照
「Flow」という要素は、bound(束縛された)とfree(自由な)の二つの極を持ちます。
Flow: bound(束縛された)←―――→free(自由な)
bound極に近いFlow要素を持つ身体動作は「ぎこちない」ものに見え、free極に近いFlow要素を持つ身体動作は「なめらかな、流麗な」ものに見えます。
例えば「歩く」という動きをするにも、歩きながら目を開けた状態から目を閉じてみると、歩く行為者を観察している他者は、行為者がどのタイミングで目を閉じたのかが、歩く動きのFlowの要素がfree→boundへ変化したことによって分かります。
また、歩く際に両腕を動かさないように身体の側面に固定して歩くと、歩く動きのFlowの要素が(両腕部分を除いても、例えば下半身のみの動きを見ても)違っていることが観察できます。他にも、平均台の上を歩く時とそうでない時、親しい間柄の人を隣に歩く時とそうでない間柄の人を隣に歩く時、など様々なFlowの要素が対照的な場面を考えることができます。

ラバンの言う「Flow」は、運動の質を見るために提示された、運動に内在する要素の一つです。
つまり、あらゆる身体運動に対してFlowを考えることは可能であり、任意の身体運動のFlowは必ずbound←―――→freeの極の中のどこかに位置します。(「Flowのない身体運動はない」と言える。)
それはまるで、南極←→北極を考えると、地球上のあらゆる場所がその中のどこかに位置し、緯度で表すことができるようなことに似ています。
そして、ラバンのFlow定義において、Flowについての価値判断はされていません。(Flowは良いものでも悪いものでもなく、また、良いFlowとはどのようなものかについても述べていない。)

ラバンのLMA、その中のFlow概念は有意味なものであり、身体運動に関するものであるゆえに、ジャグリングにおいてもラバンのFlow概念を用いる意義はあるでしょう。しかし、ジャグリングにおいてそのまま適用できるかというと、そこには問題があるように思います。
  ※『ルーチン創作法概論』 第二部第一章第五節参照
その問題は、単なる身体動作とジャグリングとの間の違い、つまり道具の存在に関連して生じています。道具の存在による制約が、どうしてもジャグリングに内在する(それこそが「ジャグリング」であるかもしれない)ため、ジャグリング運動についてラバンのFlowを考えるに、Flowの要素におけるbound極側に振れてしまう、bound極がスタート地点になってしまうのです。
それだけでなく、道具の存在による制約が「難しさ」として捉えられるとすると、ジャグリングが、(パフォーマンスであることを前提として、あるいはそうでなくとも)「"上手く"物を操ること」として定義されると、Flowの要素は、単に中立的な分析的要素ではいられなくなり、「Flowの要素がfree極に振れれば振れるほど”上手い”/"良い”」という評価軸となってしまいます。ここでは既にラバンの提示するFlow概念とは異なるものになっています。


2.「Flow Arts」の「Flow」

次に、ラバンから離れて、ジャグリングにもっと近づいてみたい。
「Flow Arts」という語があります。
上の二つのウェブサイト(flow arts instituteのサイトflowtoysのサイト)から定義らしきところを引用したい。

Flow Arts is a general term used to describe the intersection of a variety of movement-based disciplines including dance, juggling, fire-spinning, and object manipulation. The broad category Flow Arts includes a variety of pursuits that harmonize skill-based techniques with creative expression to achieve a state of present-moment awareness known as Flow.
  ※https://flowartsinstitute.com/about-us/what-is-flow-arts/より
The term "flow arts" encompasses the emerging movement-based artforms that integrate dance and creative exploration of movement with skill-based prop manipulation.  The Flow Arts draw from a multitude of ancient and modern movement disciplines from Maori poi spinning to modern firedancing, from martial arts and taichi to circus arts and hula hooping.

The Flow Arts
are at once a sport and a leisure activity, a hobby and an obsession - a new way to dance, explore and interact with the physical world, a movement meditation practice, a fun and creative outlet, and a serious technical pursuit of mastery.  For many of its practitioners, it is a way to achieve the mind-state known as “flow”, a state of optimal experience, also known as "the zone" or getting in a groove.
  ※https://flowtoys.com/flow-artsより

分かったような分からないような。

「Flow Arts」について考えるために、その前に、Flow Artsが達成目的とする「Flow」について考えたい。
『to achieve a state of present-moment awareness known as Flow.』『it is a way to achieve the mind-state known as “flow”, a state of optimal experience, also known as "the zone" or getting in a groove.』とあるように、
ここでの「Flow」とは、とある内的な心理状態を指しています。それはいわゆる"ゾーン"に入っている状態、"最適経験"、いろいろな言い回しで言われますが、これはミハイ・チクセントミハイという人の提示する「Flow」概念のことを言っています。
なので、先にそちらを参照しましょう。


3.ミハイ・チクセントミハイの「Flow」

心理学者であるミハイ・チクセントミハイ(Mihaly Csikszentmihalyi)は、個人が楽しさ/喜びを感じる「最適経験」というものを考えるにあたって、マズロー(Abraham Maslow)の自己実現や最高経験についての研究や、ラスキー(Marghanita Laski)の恍惚経験についての研究も踏まえつつ、「フロー」Flowという語で、最適経験下にある人が置かれている強い没入状態、そして強い没入状態にある人の感覚を表しました。
チクセントミハイは、フローとは『全人的に行為に没入している時に人が感じる包括的感覚』である、としています。
  ※チクセントミハイ『楽しみの社会学』p66
また、フロー状態とは、『一つの活動に深く没入しているので他の何ものも問題とならなくなる状態、その経験それ自体が非常に楽しいので、純粋にそれをするということのために多くの時間や労力を費やすような状態』であるとも述べています。
  ※『フロー体験 喜びの現象学』p5

チクセントミハイの「Flow」フローとは、内的な心理状態のことを指しています。
そのフロー状態に入るための外的な手続きについては、遊びPlayや創造Creativityを最もフロー状態になりやすい行為としています(例示として、テニス、ロッククライミング、チェス、作曲、ダンス、等を挙げています)。
が、しかし、その他にも、禅、ヨガ、瞑想、その他宗教的儀礼行為との関連性を挙げてこれらによってフロー状態になることが古くから認められているとしていますし、仕事や、読書、他者との会話といった行為によってもフロー状態になりうると述べているところから、外的な手続きの範囲には特に制限をかけてはいないと言えます。
したがって、あらゆる活動によりフロー状態になることがあると言えるように思われます。
とは言っても、チクセントミハイは、フロー状態になるための外的手続き(以下「フロー活動」とする)の特徴をいくつか挙げています。そこから、フロー状態に入るための外的な手続きにも一定の絞りがかけられていると考えられます。
以下で、チクセントミハイが挙げるいくつかの特徴を、僕が条件的な要素と結果的な要素に分けて整理して紹介します。

〈フロー活動の特徴〉
 条件的なもの
1・能力を必要とする挑戦的活動 さらに、能力と挑戦のつり合い
2・限定された刺激領域への注意集中
3・明瞭で矛盾のないルールを持っている
4・行為に対する明瞭で明確なフィードバックがある
5・「自己目的的」である
 結果的なもの
・行為と意識の融合 自我意識の喪失
・状況や行為に対する支配感覚

フロー活動とは、上記1~5の条件を満たすような活動であると言えます。
テニスを例に具体的に考えてみましょう。

テニス。ラケットを用いてボールを相手のコートに入れる行為(身体的運動)。
この行為は、適切な能力skillを必要とする挑戦的活動です。テニスにおいては、基礎的な身体的能力(腕(ラケット)を振る、場所移動のために歩く/走る)以外にも、ラケットをボールに当てて自分の意図する所へ飛ばす能力が必要です。
また、行為者の現に有する能力skillと、挑戦(ここでは簡単に「難度」difficulty of taskとしたい)の度合いがつり合っていると、フロー状態となります。難度が低すぎると物足りない、退屈の状態になり、難度が高すぎると手に余る、不安の状態になります。
また、フロー状態になるためには、行為者がその行為に深く集中していることが重要となります。
そのためにも、明瞭なルール(目標設定)があることが必要です。テニスでは、「ボールを相手のコート内に打ち返す」というルールがあります。
ここで「ルール」と言っているのは、テニスというゲームのルールではなく、目標設定です。テニスラケットとボールを用いて、「より遠くにボールを飛ばす」というルール設定をするのであれば、それでも構いません。
行為中、ルールに照らしたフィードバックが返ってくることも重要です。例えば、打ち返したボールが相手のコートに入ったか否か(in or out)というのは明確なフィードバックです。より熟練した者は、打った瞬間の音や身体感覚でフィードバックを得ます。行為者はフィードバックにより先ほど行った運動が間違っていたかどうか知ることができ、調整しつつ行為を続けることができます。
そうしていくと、行為者は、自分がフロー状態にあることを感じることができます。そこでは、「テニスを行っている私」は意識されず、「私」は行為と一体となることで失われます(忘我状態、無我の境地)。
”いま”の時間感覚のみがあり、自分が状況を、行為を支配している感覚が得られます。このフロー状態の感覚こそ楽しい/喜ばしいものです。

  (※ 5・「自己目的的」であるという条件について説明を入れておきたい。「自己目的的」であることとは、それ自体の他に目的や報酬を必要としないことである。「遊び」は「自己目的的」な性質を持ち、また、何らかの金銭や名声を得ているプロのテニスプレイヤーであっても、フロー状態になりやすい者は、基本的にはテニスをする行為それ自体を求めるのが内的動機となっています。外部的報酬は、2・の行為への深い集中を妨げることがあり、そこにも関連しています。
この5・の条件は3・の条件と矛盾するように思われるかもしれませんが、そうではありません。ロッククライミングを例に挙げましょう。ロッククライミングにおいては、上へ登ること、山頂にたどり着くことが目標設定ですが、それは行為への集中力が向けられる対象を明確にしそれに専心するためのものです。目的はあくまで登ることそれ自体なのであり、山を征服することではありません。)

《ラバンの「Flow」定義との整理》
チクセントミハイの「Flow」定義では、”最適経験”における内的な心理状態のことを指しています。したがって、同一の行為形式において、Flowがある(行為者がフロー状態にある)場合も、Flowがない(フロー状態にない)場合もありえます。
また、「Flow」は”良い”ものであるという前提があります。ラバンの「Flow」定義と異なり価値判断が既になされています。


2.2.再び、「Flow Arts」の「Flow」

さて、「Flow Arts」へと話を戻しましょう。

「Flow Arts」の語の意味が、フロー状態(チクセントミハイの言う「Flow」)に入るための外的手続きとしての技術(arts)全般を指していると考えることは、妥当ではないでしょう。
なぜなら、チクセントミハイは、どのような活動によってもフロー状態は経験しうると述べているのだから、能力skillを必要とするあらゆる活動形式が「Flow Arts」になってしまいます。チクセントミハイが、構造的にフロー状態に入りやすいと言っている遊びPlayや創造的行為Creativityに限定しても、まだ広範に過ぎるようです。
それでは、「Flow Arts」をフロー状態(チクセントミハイの言う「Flow」)から切り離して考えることにしましょう。

「Flow Arts」定義に立ち戻って見てみましょう。
一つには、『movement-based disciplines (including dance, juggling,...)』『movement-based artforms』とあるように、身体運動的行為であるということ。
次に、『pursuits that harmonize skill-based techniques with creative expression』『(artforms) that integrate dance and creative exploration of movement with skill-based prop manipulation』
「技術と創造的表現を調和させる追求」「ダンス・動きの創造的探求とprop manipulation技術とを結びつけ/融和させるもの」。
雑に言うと、一方に(prop manipulationの)技術という要素、一方に(creativeな)身体運動・ダンスの要素があって、その二つが合わさったのが「Flow Arts」のようである。
  ※キーワード「movement-based、dance、creative、skill-based」

「ジャグリング」Jugglingと「Flow Arts」の関係について考えたい。
上記の「Flow Arts」定義によれば、あらゆるジャグリングが(ここでは「あらゆる道具によるジャグリングが」の意味)含まれるように思います。
しかし、語の使用状況をみるに、ジャグリング一般を指しているようには思えません。明らかに偏っている。

僕が”偏っている”と言っているのは、「Flow Arts」が指すものにmani-tech(マニテク)の偏りがあるということです。
  ※「mani-tech」マニテク概念の意味についてはこちらを参照

「mani-tech」という語を使わずに説明すると、二つの意味で偏っていると言え、一つには、”道具の”偏りがあると言えます。
「Flow Arts」が指す道具は主に、ポイ(フラッグ等も含む)、スタッフやバトン、フープ、クラブやスティック(棒状のものという点ではスタッフやバトンとも同類)、メテオ、フロウワンド(ダンシングケーン)、武幻(ブゲン)、等々。Flowtoysのサイトで取り扱っている道具類を見てもその偏りがわかります。
偏りのもう一つは、”操り方”の偏りです。
「Flow Arts」が指す操り方は主に、Spinning回す/スイングする。ほとんどがこれです。あるいは、コンタクト(道具を身体接触させたまま操る)の分野でのアイソレーション、ロール等々。さきほどクラブやスティックを道具として挙げましたが、クラブのトスや、スティックを叩くような操り方を指す場合はほとんどありません。
これはなぜなのか。

Flow Arts Instituteの「The History of the Term “Flow Arts”」という記事では、2005年にアメリカで「Flow Arts」という語が誕生してからポイスピナーのコミュニティで使われ出し、広まっていったという事情が書かれています。ジャグリングコミュニティーとポイコミュニティーとの違いや、距離感があることも偏りの背景にはあるでしょう。
こちらの記事(「Arguments Against the word “Flow Arts」)も参考になります。

「Flow Arts」という語についての歴史的・政治的背景について少し見てみましょう。
こちら(The Juugling Edgeのスレッド)で、Dawn Dreams(先ほど挙げた2記事の筆者)がしているコメントから以下引用。

Flow Arts, in some ways, is defined differently to escape the Rastelli Standard of Clubs (sticks), Rings (plates) and balls. It's "new juggling" or "object manipulation" (which is a synonym for juggling).

また、こちらの記事(これもDawn Dreamsが書いている)のFlowArtsの項からも引用。

Flow Arts
It refers specifically to circus disciplines such as poi spinning, hula hooping, staff, fans, and many other ground based prop related and movement arts. Many people will also use the term object manipulation or spinning interchangeably with Flow Arts. More specifically, Flow Arts defines itself distinctive from juggling, because of it’s post modern style.

「Flow Arts」という語が生まれた当時2005、主にポイスピナー達は「その当時のジャグリング」・ジャグラーが行っている行為と、ポイスピナー達が行っている行為が”違っている”ということを分かりやすく表すために新しく語を作ったようである。
「その当時のジャグリング」について、『the Rastelli Standard of Clubs (sticks), Rings (plates) and balls』とあるが、Rastelliとは、エンリコ・ラステッリ(Enrico Rastelli)のことであろう。
 ※Enrico Rastelli 1896-1931 イタリアのジャグラー。Wiki参照

エンリコ・ラステッリ(Enrico Rastelli)(※Wikiから一部要約)
当時のジャグリングはthe gentleman styleで、日常品(帽子、杖、)を用いてジャグリングをするパフォーマンスが多かった。それに対してRastelliは、投げて取るのにより適した形の道具、つまりクラブ(sticks)・リング(plates)・ボールの三種類の道具を用いてジャグリングをすることで、よりジャグリング技術の高度なパフォーマンスを可能にした。
そのクラブ・リング・ボールの三種類はその後多くのmodern jugglersが用いることとなった。

さて、歴史的にthe gentleman styleのジャグリングの次に出てきた、クラブ・リング・ボールの三種類を用いたジャグリング(『the Rastelli Standard』)をここでは「モダンジャグリング」modern jugglingと呼ぶことにしましょう。
実際に「ジャグリング」という語がその三種の道具のトスジャグリングのみを指して使われる時代はあったようです。そこにおいて、ポイスピナー達が自身の行っている行為を「ジャグリング」と呼ぶことは難しかったし、明らかに両者は”違っていた”。
2005年にアメリカで「Flow Arts」という語を作ったとき、「Flow Arts」が指すものは『"new juggling"』であり『post modern style』であったのでしょう。

それとほぼ同時期、イギリスのロンドンでは「manipulation」という語が採用されました。2006年にはThe Ministry of Manipulationが作られました。
The Ministry of Manipulationのサイトから「manipulation」定義を引用したい。

Object Manipulation is doing things with stuff. It’s about movement, about making objects dance and dancing with objects. It is a blend of juggling, dance, mime & illusion.

2006年イギリスにおける「Object Manipulation」の語の定義においても、「Flow Arts」の定義と同じく、それが道具と一緒になにかする運動的行為であること、「道具を踊らせる/道具と踊る」行為であり、ジャグリングやダンス等の要素のブレンドであるとしています。
道具についてや操り方についてはこの時点では制限をかけておらず、ジャグリング一般について当てはまるように思えます。(danceの要素が強調されていることには注意したい。)
しかし続く文で、

Juggling has a emphasis on throwing and catching, objects flying through the air. Manipulation generally has more emphasis on rolling, holding and movement. Most manipulators are also jugglers, they are usually more interested in the creative, playful and dancing side of juggling, than the sport or numbers side of juggling.

All kinds of Manipulation are highly skilled sports/dances/games including: Ball Contact, Hoop Manipulation, Contact Staff, Club Manipulation, Multiball Contact, Body Rolling, Hula Hoop, Juggling, Poi swinging, Magic Manipulation, Contact juggling, Isolations, Illusions, Rhythmic Gymnastics, Chinlone and Hacky Sack.

ここでは、二つのことが述べられていますが、つまりは「Manipulation」の語の意味に制限をかけ、ジャグリング一般よりも絞ろうとしています。あるいは一定の文脈をこの語にのせようとしています。
ここで述べられている内の一つ目のことは、「Juggling」という語は、道具が手を離れ空中に投げられる「トス」throwing and catchingという操り方に重きを置いているが、それに対して「Manipulation」の語はrolling, holding and movementに重きを置いている、ということです。ここで、”操り方”の制限をかけています。
用いる道具についての制限は明らかにはされていませんが、もしも”道具”の制限がされているとすれば、僕の言葉で言えば、「mani-tech」マニテクにおいて制限をかけていると言えます。
二つ目に述べられていることは、ほとんどのmanipulatorsはたいていジャグリングの「創造的で、遊び心のある、ダンスの側面」『the creative, playful and dancing side』により関心を持っているということです。ジャグリングのスポーツ的な、ナンバーズの側面が対置されています。
ここで述べられている二つのことから「Manipulation」が差別化を図ろうとしている対象は、スポーツ的な、ナンバーズの「トス」ジャグリングであり、これはRastelliの流れを汲む「モダンジャグリング」modern jugglingに重なります。

すると、2005,2006あたりの時点では、アメリカの「Flow Arts」もイギリスの「Manipulation」も、「モダンジャグリング」modern juggling以外のジャグリングの在り方を示したものであるということができます。
とりあえずここでは「ポストモダンジャグリング」post modern jugglingと呼ぶことにしますが、このような「モダンジャグリング」を脱しジャグリングの領域を拡げていくような流れが、現代まで続いています。

現在は2018年が終わろうとしているんですが、「ジャグリング」という語が以前のように三種の道具によるトスジャグリングのみを指していると考える人はもはやいないでしょう。
ポストモダンジャグリングを経たことで、「ジャグリング」の語が指すものはとても広い意味での道具を用いた運動的行為になったと思われます。

それでは、現代において、つまり「Flow Arts」や「Manipulation」という語が指す対象が「Juggling」という語が意味するものに内包されるようになったとき、「Flow Arts」は『"new juggling"』ではもはやないのですが、「Flow Arts」と「Juggling/ジャグリング」との関係は、どうなったのでしょうか。


2.3.現代の、「Flow Arts」の「Flow」

上の動画(2016/3/7公開)では、Drexによる「Flow Arts」定義が確認できます。文面でみたい人はこちら。(語句が動画と一部異なっている場合があります)

The Flow Arts are a family of movement arts centered around moving with one or more inanimate props, sometimes called "tools", in an aesthetically pleasing way.
These can include, but are not limited to: poi, staves, hula hoops, juggling clubs, rope darts, and many more.

まず注意して見たい部分が、poi, staves, hula hoops, juggling clubs, rope darts,といった道具を例示していますが、それにとどまらないと述べています。すると、あらゆる道具を用いたジャグリングが、moving with one or more "tools"に当たるため、「Flow Arts」は「(広義の)ジャグリング」と同じ意味になってしまわないか、という問題が再び生じてきます。

Drexは動画においてチクセントミハイの「Flow」にも言及し、『why refer to prop spinning as “Flow Arts” when really, all arts incorporate flow to a certain degree?』と問いを立てています。
この問いは、
①どのような活動によってもフロー状態になりうるので、能力skillを必要とするあらゆる活動形式が「Flow Arts」になってしまわないか、なのにprop spinningのみを意味しているのはなぜか、
②「Flow Arts」を『moving with "tools" in an aesthetically pleasing way』と定義したとしても、操り方の限定はされないはずなのに、回す/スイングするprop spinningという操り方に限定されるのはなぜか、
ということを問題としています。
Drexはこれに対して『My own answer to this question is that unlike other art forms, the Flow Arts make flow itself the goal, rather than a tool for accomplishing a goal.』と述べていますが、はっきり言って答えになっていません。

「「Flow Arts」は flowそれ自体を目標にする」『the Flow Arts make flow itself the goal』
ここで言っているflowというのが、チクセントミハイのフロー状態のことを指すと考えましょう。すると、フロー状態になることを目標としてなされる行為であれば、あらゆる行為が「Flow Arts」になるはずです。したがってprop spinningに限定する意味はなく、やはり論理が破綻しています。
また、prop spinningであってもフロー状態になることを行為者が目標としないのであれば「Flow Arts」でないことになります。同一の行為形式であってもそれぞれの行為者によって目標設定は異なるのだから、ある行為形式が「Flow Arts」であるか/ないかを区別することはできないことになってしまいます。「Flow Arts」でないprop spinningの存在を是としてしまっていいのでしょうか?
「Flow Arts」とは、行為形式を意味するのではなく、行為者の精神的「主義」を表す語なのでしょうか?

僕は、ここで「Flow Arts」の「Flow」が行為者の精神的「主義」を表していると考えることはしません。
やはり、チクセントミハイのフロー状態の概念から切り離して考えるしかありません。
それでは、”現代の”「Flow Arts」の「FLow」がチクセントミハイの「Flow」とは異なる何がしかを意味しているのだとすれば、またDrexがここで言っているflowというのがチクセントミハイのフロー状態のことを指していないのであれば、何を指しているのでしょう?

Drexの「Flow Arts」定義で注意して見たい部分がもう一つあります。
『The Flow Arts are a family of movement arts centered around moving with one or more inanimate props, sometimes called "tools", in an aesthetically pleasing way.』
”in an aesthetically pleasing way” これは何を意味しているのでしょう。
aesthetically pleasingというのが、チクセントミハイのフロー状態にあるという意味でなく「感覚的に良い」あるいは「美的観点からみて良い」という意味であるとしたら。
そしてそれが『the Flow Arts make flow itself the goal』、「Flow Arts」はflowを目指すというジャグリングの「主義」を指している(行為者の精神的「主義」を指すのでなく)、ということにかかってくるとしたら。

現代の「Flow Arts」の「Flow」とは、ジャグリングの「主義」となりうる、ジャグリングの行為(運動)が有している「感覚的な良さ」あるいは「美的観点からみた良さ」を指しているのではないか?
(※ジャグリングの行為者が有している精神的主義ではない)

仮説1
Drexがここで言っているflowとは、「(ラバンの「Flow」概念でいうところの)動きのFlow要素がFree極に近い」ということを言っているのでしょうか?
1.ルドルフ・フォン・ラバンの「Flow」でみたように、ある動きのFlow要素がFree極に近ければ近いほど、動きとしてはなめらかで、流麗で、美しく見えます。
また、ジャグリングにおける失敗・綻びは「ぎこちない」ものとして見られ、そのような動きのFlow要素はBound極側に近いとされます。失敗として最も代表的なものはドロップ(道具を意図せず落とすこと)ですが、ポイを始めとする道具のコンタクト(道具を身体接触させる)的操り方をするジャグリングにおいては、ドロップしなくても、道具の流れが滞る/意図せず止まるといったことも失敗・綻びとされます。コンタクト的操り方をするジャグリングでは、「ドロップ」や「ミス」といったジャグリングの失敗概念が観念しづらい、またはトスジャグリングにおけるそれらの概念と異なる定義を持ちます。そこにおいては、単に「ドロップしない」ということ以上のことが求められているのです。
prop spinningにおいて、ラバンの言う動きのFlow要素をaestheticalな観点から観るときに”pleasing”とされるのはFree極に近いものでしょう。
(※この時点で、prop spinningにおいて、道具と身体が連続的に/継続的に「なめらかに」動き続けているべきだという価値観に立っている、Flow要素の軸を価値軸として見ていることに注意したい。このprop spinning特有の価値観は、「成功/失敗」概念が観念しづらいということとも関連している。)

ただ、ここで気持ち悪く思うのは、「(ラバンの「Flow」概念でいうところの)動きのFlow要素がFree極に近い」ということを同じflowという語で表すのはあまりに言語的に拙いということです。
とりあえず、一旦、仮説1に従って、”現代の”「Flow Arts」のflowの意味を、「(ラバンの「Flow」概念でいうところの)動きのFlow要素がFree極に近い」とおきたいと思います。ただし、言語的な気持ち悪さがあるため、字面上、”現代の”「Flow Arts」のflowとは、「動きのなめらかさ、流麗さ」smoothness of movement / grace of movementとしたいです。これは字面上の変更で、「(ラバンの「Flow」概念でいうところの)動きのFlow要素がFree極に近い」ということと同じ意味を指しています。

《整理》
”現代の”「Flow Arts」の「Flow」とは
ジャグリングの行為(運動)が有している「感覚的な良さ」あるいは「美的観点からみた良さ」aesthetically pleasing
 ↑ つまりどういうことを指して言ってるの?
仮説1
「動きのなめらかさ、流麗さ」smoothness/grace of movement
 (=(ラバンの「Flow」概念でいうところの)動きのFlow要素がFree極に近い)

この仮説1の定義での「Flow」を考える際に、ジャグリングの多様な「mani-tech」マニテク(多様な道具、多様な操り方)に対応できるかを考えなければいけません。
具体的な問題意識としては、
☆ prop spinnning以外のジャグリングであっても、例えばトスジャグリングなどの”操り方”においてや、シガーボックス・ディアボロ・スティック等の”道具”を用いるジャグリングであっても「動きのなめらかな、流麗な」ものがあるのではないか、ということが挙げられます。


4.poi spinningと、トスジャグリングの”違い”

2005年当時にポイスピナー達が感じた自分たちのジャグリングと「モダンジャグリング」との”違い”は、現代において、(特にpoi spinningの)「動きのなめらかさ、流麗さ」という意味でのFlowをトスジャグリングその他ジャグリング一般に敷延するに当たって注意しなければならないことを考えるに有用でしょうから、その”違い”について考えてみたいと思います。

「ポストモダンジャグリンング」と「モダンジャグリング」という対照で考えてみましょう。
モダンジャグリングでは、操り方に関しては「トス」が主流でした。その根底にあるのは、ジャグリングが技術を中核とするものとして見られるようになり、より高度な技術を求める考え方でした。ただ、より高度なジャグリング技術を求めることというのは、「トス」という操り方においては、より多くの数を、より高く、より大きくジャグリングするという方向になりました。これはモダンジャグリングは道具の多様性が無かったこととも関連します。より投げやすく取りやすくという方向性からは、それに適した"合理的な”形状の道具に収束します。ボール、クラブ、リングです。

ポストモダンジャグリングは、一つには、「mani-tech」マニテク(道具と操り方)という視点でモダンジャグリングと区別できます。
  (※「mani-tech」概念を僕が使うのは、単に道具の違いでは「ボール‐トス」ジャグリングと「ボール-コンタクト(ロール他)」ジャグリングの区別や、「poi-トス」ジャグリングと「poi-spinning」ジャグリングの区別をすることはできず、また単に操り方の違いでは「ボール‐トス」ジャグリングと「poi-トス」ジャグリングを区別できないからです。)
「ボール-トス」ジャグリングは典型的なモダンジャグリングであり、「poi-spinning」ジャグリングは典型的な(2000sの)Flow Artsです。

ポストモダンジャグリングがモダンジャグリングと区別されるもう一つの視点は、モダンジャグリングが高度な技術の追求を目指した(それはより数多く、高く、大きく、速く、というような"合理的な"尺度のあるスポーツジャグリングの方向性だったのですが)のに対して、ポストモダンジャグリングは当初の「Flow Arts」定義にあるcreative,danceの語からも分かるように、また異なった地点を目指していたという、ジャグリング価値観による違いの視点です。
ナンバーズのトスジャグリングにおいては、行為者が”棒立ち”になり、「ダンス性」(とは何か不明だが)が失われていることをポイスピナー達の側は指摘してきたのです。
この二つ目のジャグリング価値観の違いの視点と一つ目の「mani-tech」の違いの視点は、歴史的には関連していましたが、理論的には関係がありません。つまり、おなじ「ボール-トス」というmani-techのジャグリングであっても、高度な技術を追求する価値観(分かりやすくナンバーズ)とcreative,dancingを目指す価値観に分かれることがあります。

現代の「ジャグリング」定義においては、モダンジャグリングとポストモダンジャグリングで対照する意義はなくなり、
①mani-techの違い
②価値観の違い
(ここでの価値観とは、行為者の内心や精神的なものでなく、ジャグリングに顕れることを前提としている、ジャグリングのいわゆる「スタイル」の違いというべきか)
の二つの要素に分解して対照させるべきでしょう。

さて、この①②の違いがあることを確認したところで、前述したように、「動きのなめらかさ、流麗さ」という定義での「Flow」を考える際に、ジャグリングの多様な「mani-tech」マニテク(多様な道具、多様な操り方)に対応できるかを考えなければいけませんが、
 prop spinnning以外のジャグリングであっても、例えば「トス」ジャグリングなどの”操り方”においてや、シガーボックス・ディアボロ・スティック等の”道具”を用いるジャグリングであっても「動きのなめらかな、流麗な」ものがあるのではないか、
という問題意識と格闘するために、いくつかの動画(ジャグラー)を挙げてみたいと思います。

一つ目の動画はChris Kellyのポイを用いたジャグリング動画です。(2016年)

Chris Kellyのポイの動画では、1~5つのポイを使ったジャグリングを見ることができます。スイングだけではなく、ポイを投げる(手から離す)動きが普通に取り入れられていて、トスを織り交ぜた3ポイや4ポイのpatternが見られ、動画の最後には5ポイのトスジャグリングが見られます。

ここでまず考えたいのは①のmani-techの違いです。
それはもっと言うと、「poi-spinning」ジャグリング(※spinningって言うと皿回しやシガースピニングと混同されそうなので、「ポイ-スイング」ジャグリングと表す)から「ポイ-トス」ジャグリングにmani-techが変わったときに、「動きのなめらかさ」というのをどのように観念し、観察することができるのか、についての違いです。
「ポイ-スイング」においては、道具と腕(身体)は一体となっており、また、主に円運動をすることから、一体として道具と腕の動きがなめらかに円運動をしているか、を見ることができます。腕の動きや道具の動きに”引っかかり”や”ぎこちなさ”がないか、また、道具の描く軌道が正しく円軌道(その他規則的なパターン模様)か、”歪さ”はないか、という道具の軌道からも「動きのなめらかさ」をみることができます。
一方で、「ポイ-トス」においては、道具と腕(身体)は分離することがあり、腕が円運動をしているかを見たり、道具の軌道が正しく円軌道その他パターン模様になっているかを見たりすることで「動きのなめらかさ」を見ることができない場合があります。
「ポイ-トス」において(またはトスジャグリング一般において)、「動きがなめらか」であるとはどういうことなのでしょう?

トスジャグリングにおいては、身体と道具が分離してしまうことから、身体と道具とそれぞれについての「動きのなめらかさ」を見ることにしましょう。それはポイスイングにおいては一体のものでしたが、身体部分では腕の円運動に”引っかかり””ぎこちなさ”がないこと、道具部分では道具の描く軌道が規則的パターン模様と比較して精密、”歪さ”がないことというように分けて考えることもできます。
トスジャグリングにおいて、道具部分で「動きのなめらかさ」を考えると、道具の軌道というのがポイスイングと同じくこちらも考えられます。3カスケードなら3カスケードの、5カスケードなら5カスケードの、あるいは任意のサイトスワップパターンの”正しい”軌道というのが道具の軌道のパターン模様として想定できると思うのですが、その軌道と比べて"歪さ"がないか、という視点から考えることができます。
しかし、道具の軌道が”正しい”ままジャグリングが継続されることを「なめらか」であるとしてしまうと、典型的なモダンジャグリングにもその「なめらかさ」を見ることができます。
例えばこの動画は、Jason Garfieldの2004年のWJFの動画です。スポーツジャグリングの大会であるWJFは、2000年代の「Flow Arts」から最も対極に置かれるべきものであると思いますが、この動画では5ボールによるトスジャグリングにおいて、いかに「なめらかに」5ボールのジャグリングが行われ、次々と技がくり出されるかを見ることができます。また、この動画でも5ボールのミルズメスや5クラブのバッククロス等の技においていかに道具の軌道が「なめらかである」かを見ることができます。
これらの道具の「動きがなめらかな」典型的なモダンジャグリングに対しては、身体における「動きのなめらかさ」の無いことが指摘できるかもしれません。
しかし、トスジャグリングにおいて身体部分の「動きのなめらかさ」を考えることは、簡単ではありません。ドロップによる「失敗」(それはトスジャグリングにおいては一般に「中断」、つまり動きの流れが途切れることを意味します)がなければ、身体の動きの”引っかかり”や”ぎこちなさ”というのは非常に見えにくく、小さな部分でしか判断することができません。例えば大きくボールの位置がブレ、したがって腕が前後にブレたり、立ち位置がブレてしまうことは「なめらかでない」として指摘できても、「(体軸が)動かず立っていること」自体は、動きがなめらかであるともないとも言えません。
そのことは、道具の軌道と違って、身体の”正しい”軌道・動きというのがない、またはジャグリング界隈ではあまり議論されてこなかった、ということに原因を求められます。身体の”正解”がないため、それに比べてどうだ、と言うことができないのです。

このように、①のmani-techの違いにかかわらず、仮説1の「動きのなめらかさ」定義を考えようとすると、mani-techの違いによりどのように「動きのなめらかさ」を見るのか(ラバンの「Flow」要素がFreeであるということをどのように見るのか)、という問題が出てきます。
また、典型的なモダンジャグリングがFlowに当てはまってしまう(Flowのあるジャグリングにあたる)がそれで良いのか?という疑問も出てきます。(※それで良いとしてしまっても理論的には問題はないが、実際の語の使用状況からは依然として離れている)


次に②の価値観の違いについても考えてみましょう。Chris Kellyのポイの動画では、(トスに限らず)ポイのナンバーズが見られ、それは明らかに高度なジャグリング技術の追求です。
もっとも、だからといって、すなわち「動きのなめらかな、流麗な」ジャグリングでないということにはなりません。ナンバーズが高度なジャグリング技術を必要とするということ、高度な技術の追求を志向することは、「動きのなめらかな、流麗な」ジャグリングをすることを排斥しませんし、
creative,danceといった要素を重要視したジャグリングをすることを排斥しません。
ナンバーズにおいては、より多くの数でのジャグリングを志向する者はcreative,danceといった要素を重要視したジャグリングを志向しない”ことが多い”/”傾向にある”というだけです。また、ナンバーズの難度のためにdanceの要素がおろそかになる、両者を両立させるには非常に高度で幅広い能力が必要とされるため”現実的に”難しいというだけです。
ナンバーズではない1つ、2つのポイでのスイングやロールといったmani-techの分野でも、高度なジャグリング技術の追求はできるのであり、そもそも「動きのなめらかな、流麗な」ジャグリングをすることを志向すること自体が、結果として高度なジャグリング技術の追求になっていることもありえます。
ここから分かることは、ナンバーズ志向(ここでは単に「数が多い」ことを指す)、高度なジャグリング技術の志向、creative,danceといった要素を重要視したジャグリングの志向、いずれの価値観を志向しているのかという②の価値観の違いは、「動きのなめらかな、流麗な」ジャグリングかどうかには(論理的な)関係がないということです。

次に、また別の動画を紹介したい。


二つ目の動画は、Cyrille Humenのボールを用いたジャグリング動画「WHITE NOTE」です。(2018/4/26公開)

Cyrille Humenにおいては、1ボールのコンタクトの動画や、ポイの動画(「Melting Poi」)(「Manipoi」)も参照すると、mani-techに関わらず、一貫した彼のスタイルが分かるかもしれません。

動画「WHITE NOTE」では、主に3ボールのトスジャグリングが見られます。
この動画では、Cyrilleがポイスイングをやってきた上でボールのトスジャグリングをするという点で、mani-techにかかわらずCyrilleの価値観によるジャグリングが見れる興味深さがあります。
特に1:22-の部分、ポイのスイング(3ビート)を思わせる腕の動きが次第に速くなっていく、throwing and catchingのテンポが速くなっていくと同時に、ボールの高さが低くなっていく、ミルズメスの曲線の軌道の「なめらかさ」、。
「ボール-トス」のmani-techのジャグリングにおいても、「動きのなめらかさ、流麗さ」が観念でき、それは「失敗により中断しない」なんてこと以上の確かな質感としてあるのだ、ということを感じてくれると嬉しいです。

しかし、さらにこの動画で興味深く見るべき(聴くべき)点としては、タイトルの「WHITE "NOTE"」の通り、そして動画の始め30秒近くがジャグリングの技でなく音に関する演出であることからも分かる通り、「音」です。
音、音が構成するリズム、ここではそれは「投げて取ること」throwing and catchingによる音であるから、「投げて取ること」が構成するリズムであるとも言えます、つまりは、ジャグリングのリズムなのです。

ここから話は大きく展開します。

ジャグリングのリズム、(「トス」というmani-techにおいては「投げて取ること」が構成するリズム)の「なめらかさ」というものを考えましょう。
リズムが「なめらか」ってどういうことなのでしょう?
サイトスワップの理論においてリズム(時間)と軌道が強く関連性を持つように、一定のリズムは一定の軌道を意味し、つまりジャグリングにより構成されるリズムが一定で続くことはジャグリングの軌道が一定のまま続くことを意味します。
ここで僕が言いたいのは、道具の軌道における「なめらかさ」(”正しい”軌道でジャグリングが続くこと)を測るための指標としてジャグリングのリズムが有用であるということではありません。むしろ逆で、道具の軌道が”正しい”軌道のままジャグリングが続くことは、ジャグリングのリズムが一定のまま(途切れずに)続いている、ということの付随的な結果として生じただけではないのか、ということです。
ただ、リズムが「なめらか」であるとは、単に、「途切れずに一定で続いている」continuousということなのでしょうか?
それはジャグリングの「失敗」による中断がないこととは違うのでしょうか。

「ポイ-スイング」においては、トスジャグリングにおいてと同等かそれ以上にリズムが重要視されています。それはスイングにおいては基本的には「止まる」ということが無い(出来ない※)ので、基底状態の周期を「拍」beatとして、その拍に合わせて、その拍を基準として様々なジャグリングの技をすることが内的な「ルール」/制約となっています。
  (※止まる、手を止めることはリズムを狂わせ、軌道をぶれさせることになるから、良しとされない)
ポイという道具が「スイング」という操り方と強く結びつきすぎているので、ポイという道具でのジャグリングの「ルール」として、「拍」(基底状態の周期)に合わせて、いかにそこからリズム的にブレないように様々な技をするか、という「ルール」が存在していると思います。そして、それは軌道のブレのなさを付随的結果として生じさせるため、「動きのなめらかさ」として「拍にずれないように技をすること」が捉えられているのではないでしょうか。


この「ジャグリングが構成するリズム(音)」に注目するという考えは、今までの仮説に修正を要求することになります。
これまで、”現代の”「Flow Arts」の「Flow」とは
ジャグリングの行為(運動)が有している「感覚的な良さ」あるいは「美的観点からみた良さ」aesthetically pleasing
を意味するのだと考えてきました。
そして、それがつまりどういうことを指して言ってるのか、という問題には、仮説1を立て、
「動きのなめらかさ、流麗さ」smoothness/grace of movement
 (=(ラバンの「Flow」概念でいうところの)動きのFlow要素がFree極に近い
のことを指しているのだと考えてきました。
そしてその具体的分析には、道具・身体の軌道といった視覚的要素を見てきました。
しかし、「moving ”in an aesthetically pleasing way”」の内容をジャグリングにおいて具体的に考えていくとき、特に「ジャグリングが構成するリズム」を考えるに際してラバンの「Flow」概念をそのまま用いることは、問題を生じさせます。
ラバンの「Flow」要素は、動きの4要素(Time,Space,Weight,Flow)の内の一つであり、他の3要素を考慮に含めていませんが、「ジャグリングが構成するリズム」を考える際には、どうしても時間Timeやその他の要素が関連してくる、それらを考えざるを得ないのです。

「ジャグリングが構成するリズム」を考えるに、それを聴覚的な要素であるとして、もう一つ、参照したい別の「Flow」があります。それは、ラップにおける「Flow」です。ラップにおける「Flow」を参照することで、ジャグリングにおける「Flow」に応用できるかを考えましょう。
そして仮説1の修正、あるいは仮説2を立てることを目論みます。


5.ラップにおける「Flow」

ラップという音楽形式、手法についての説明は飛ばしますが、上記に例を挙げておきます(サンプルとしては偏っている)。雑に説明すると、ラップとは、韻を踏みつつ何か喋る/歌うというものです。(「韻」についての説明も省く)
ラップにおいて、「ライム」と「フロー」という語がその要素として使われることがあります。「ライム」は韻rhyme、韻を踏むことrhymingを意味します。これはラップにおける最も重要な特徴です。
対して、「フロー」flowですが、この語の意味するものが定まらない、人によって様々であり、詳述するとさらに長くなるので、ラップの「Flow」分析は後回しにして、ちょっと違ったアプローチから始めたい。

ラップの要素を、「書き」と「話し」に分解してみよう。
  (※「エクリチュール」と「パロール」の語を使うことも検討したが、デリダを読んでいないのでやめる)
「書き」、書かれたもの、歌詞lyricとは、「何を言っているか」ということをそこに含みます。
「何を言っているか」というのは二つのことを表しています。
一つには、書かれたものの”意味内容”です。書かれた語の解釈であり、これは実際にラップを聴く際には、音よりも時間的に後に来ます。
もう一つには、書かれたものの”音そのもの”です。ここに韻、つまり「ライム」が含まれます。

具体的に下のツイートで見てみましょう。「書き」(lyric)があります。

この「書き」lyricは何を言っているか、ということを考えるとき、「意味内容」と「音そのもの」の二つのことを表していると言えます。
まず、「意味内容」については、(その統一的な解釈はさておき)読めばわかると思います。「いつの間にか(クリスマス)イブが間近(に迫っていて)…」という”意味”です。”意味するところのもの”です。
次に、「音そのもの」については、
Itsunomanika / ibu mo madjika / biru no machi / hashiru no wa iya / itsumo haita / bīru no ajiwai / adamutoivu no machigai (/は改行)
という読みの”音”を、この「書き」lyricは表していると言えます。
 (※Google翻訳さんで日本語を発音してもらうのを聞くとより分かりやすい)
そしてその「音そのもの」には、韻が含まれています。「いうおあいあ(i-u-o-a-i-a)」の6文字で踏んでいます。
Itsunomanika / ibu mo madjika / biru no machi / hashiru no wa iya / itsumo haita / bīru no ajiwai / adamutoivu no machigai (/は改行)

ここでの韻というのは、押韻構成rhyme schemesをも含み、押韻構成とは、3つの要素から成ります。(※こちらのサイト参照)
押韻構成rhyme schemes
 ・韻の語  『what rhyme words will you use』どの言葉で踏むか(どの単語を用いるか、どの音で踏むか(aで踏むかuで踏むか))
 ・韻の数  『how many of them will you have』いくつ踏むか(何文字で踏むか、それを何単語踏むか)
 ・韻の配置  『where will you put them』どこで踏むか

これら「意味内容」と「音そのもの」は、「書き」lyricが何を言っているか、ということの内容です。

ラップのもうひとつの方の要素である、「話し」、話されるもの、について考えましょう。この「話し」がFlowと関連します。
同じ「書き」lyricであっても、話す(ラップする)人が違えば、または話す機会が違えば、「話し方」というのは、異なることがあります。
ここで言っている「話し方」というものの内容が問題なのですが、先ほどの「書き」lyricを一度声に出して読んでみて欲しいと思います。

「何を言っているか」が同じであっても(つまり「書き」が同じでも)、「どのように言うか」を様々に変化づけることができると思います。いくつか違ったように声に出してみてください。
「話し方」、「どのように言うか」ということの内容としては、幅広いものがここに含まれます。具体的には、抑揚、音調、強勢、音長、リズムなど。
分かりやすく分析的に言うと、
「声の大きさ」volume、「声の高さ」pitch,tone(ラップにおいてメロディはないと考える立場からは、音楽の五線譜に明記されるような音程をここでは考えない)
「速さ」speed、「間・区切り」pause(どこで息を吸うか)、「リズム」※rhythm,cadence?
「声色」tone,timbre(感情に伴って様々に)、「声質」(掠れて/しゃがれている)、
といったものが「話し」の要素です。

この「話し」deliveryの要素を、ラップにおける「Flow」であると考える立場があります。

ここで重要なのは、ここでの「Flow」は単なる「"聞き取りやすい"発音ぶり・発声ぶり」enunciationに留まらないということです。
この立場からは、つまったり、とちる、噛むことなく、滑舌よく”なめらかに”、聴きやすくラップすれば、すなわち「Flow」の良いラップだとは考えません。
なめらかで聞き取りやすいラップであっても、声量や高低に強弱がなく、リズムも一定であったら、それはつまらない「Flow」のラップであると考えられます。
  (※単に滑舌が・発音が良いだけではダメですが、ラップにおいてビート(ラップの裏で重なって流れる音楽)の拍にズレずに、スムーズに音にノっている(ラップのテンポを失わず音楽のテンポからズレていない)ことを『「Flow」がある』と考える立場をとる人もいます。しかし、現在ではラップの多様化、技巧化が進んでおり、単に音楽の拍に対してラップのテンポが取れてスムーズにラップしているだけでは、良いラップとは捉えられず、古い考え方の立場であると僕は思います。また、そのような考え方も、「話し」の要素に照らしてどのような「Flow」が良い「Flow」なのか、という問題の中で取り入れて考えることができます。)

「話し」deliveryの要素を、ラップにおける「Flow」であると考える立場とは異なるものとして、ラップの「Flow」とは何かということへのもう一つの立場は、「話し」の要素だけでなく、「韻」も「Flow」の要素として含めて考える立場です。(※Wiki参照)(※確認したい文献として、Edwards,Paul;Kool G Rap『How to Rap』2009

先ほど、「話し」の要素として、ラップの「リズム」※rhythmを挙げました。しかし、「韻」によってもラップのリズムは構成され、韻が変化すればリズムも変化するはずです。
先ほどの「書き」について振り返ってみましょう。「書き」の内容は「意味内容」と「音そのもの」に分けられ、「音そのもの」のうちに、韻rhyme、押韻構成rhyme schemesが含まれると説明しました。
これらが「書かれたもの」であることは間違いないのですが、韻はリズムを生み出してしまう(韻はリズムを構成する)ために、「話し」の要素であるはずのラップのリズムが”書かれて”いると考えることができます。
別の言い方をすれば、「何を言うか」ということは「どのように言うか」ということを一定程度決めることとなる、と言えます。

 (「書き」に「話し」要素であるリズムが書かれてしまっている、というのは、改行、スペースによるという指摘も可能です。)

韻はリズムを構成する、というのは、再度Google翻訳さんで日本語を発音してもらうのを聞くと分かると思うのですが、先程の「書き」では6文字で踏み続けることで、その反復がリズムになって聞こえます(その分最終行が少しズレる)。

「書き」を少し変えました(一行削り、終わり二行変更)。※Google翻訳発音
「意味内容」も少し変わり、「音そのもの」も変わったと思いますが、特に注意したいのが、押韻構成の変化による韻律(※)、リズムの変化です。
 Itsunomanika / ibu mo madjika / biru no machi / hashiru no wa iya /Asahi to bīru no ajiwai / Adamu to īvu no majiwari (/は改行)
「いうおあいあ(i-u-o-a-i-a)」の6文字で4回踏んだあと、「あさひとびーる の あじわい」「あだむとい(ー)ぶ の まじわり」の二行で先ほどと違った踏み方で押韻構成を変えています。すると、リズムも変化しています。(7・5文字で割ると良いか?)
  (※「韻律」に関して 韻文詩における韻律と言語学における韻律の指す意味が異なることも、ラップの「Flow」の意味の混乱、対立に関連しているのかもしれない)

韻がリズムを生み出してしまうゆえに、ラップにおいて韻が重要であると考え、ラップに韻を多く入れれば入れるほど、ラップの「話し」要素であるリズムは韻律により決まる部分が多くなり、「話し」のリズムをどうするかを考えるときには韻をも考える必要が出てきます。

ところで、ラップが韻文詩と異なるのは、それが”書かれるもの”という文章の形式ではなく、”話されるもの”という「音楽の形式をとっている」ということです。ラップを書き表すことはできないのであり、”書かれたもの”はラップの歌詞lyricではあってもラップではない。韻だけではなく、よりラップの音楽性(”話されるもの”としての性質)に注目した概念がラップの「Flow」であると考えられます。

また、ラップにおける「Flow」をジャグリングに応用して考える前に、押韻rhymingというのは”難しい”(ある種の技術/能力skillが必要)という点を押さえておく。


2.4.現代の、「Flow Arts」の「Flow」仮説1修正 にかえて
6.☆ジャグリングにおける「Flow」定義の試み(じん定義)

さて、ようやく、ここまで戻ってきました。
ラップにおける「Flow」を、ジャグリングにおける「Flow」概念を考えるのに応用します。
ラップについて考える際、「書き」と「話し」に分けたので、ジャグリングを考えるにあたっても、「書き」と「話し」に分けてみましょう。ジャグリングをラップとして、あるいはもっと広く、「”語り”」としてみてみましょう。

ジャグリングは身体的運動という行為形式ですが、”書かれる”ことが考えられます(※ジャグリングの記譜の可能性)。
ジャグラーは古くから「技」trick/patternに多大な関心を寄せてきたため、ジャグリングを表す言葉といえば、まず「技」の名前でしょう。例えば、サイトスワップによる数字配列はトスジャグリングにおいては欠かせませんし、その他のジャグリングの「技名」は「名付け」られて言語化され、書くことが可能になりました。
また、適切なジャグリングとしての「語」はなくとも、身体の部位の単語や、一般的な動作の単語を用いて、文章化するということも考えられます。
もちろん、そのようにして”書かれた”ものは、歌詞lyricがラップでないのと同様に(それ以上に)、ジャグリングではないと言えるでしょう。

「書き」、書かれたもの、とは、「何を言っているか」ということをそこに含みます。
「何を言っているか」というのは二つのことを表しています。
一つには、書かれたものの”意味内容”です。書かれた語の解釈であり、これは実際にジャグリング(運動)を見る際には、運動よりも時間的に後に来ます。
もう一つには、書かれたものの”運動そのもの”です。

ジャグリングにおいては、これら二つが指しているものが分からないという疑問があるかもしれない。まず、書かれたものの”意味内容”とは?
ジャグリング運動の意味解釈ということなら、ジャグリングの「運動文脈(ジャグリング文脈)」と「物語文脈(意味・表象文脈)」の話につながるのかもしれない。(これとかここの一部で述べているように)あるジャグリングが、解釈によって何らかの意味を持つということは考えうる。
  (※もっとも、ジャグリングを解釈することなんでできない、ジャグリングは純粋に(物理的な意味で)”運動”なのであり、意味なんてない、と考える立場もある。)
しかし、ここでは、”書かれたものが”「何を言っているか」を考えており、”そのジャグリングが”「何を言っているか」を考えているのではない。
つまり、書かれている語が何を表しているか、ということであり、ある「技」に「技名」を名付けるのと逆向きに、ある「技名」の語がどのような「技」を意味しているのか、ということを考えている。
例えば、「5ボールカスケード」という語が”意味”するものは何だ? サイトスワップの「5」という語が”意味”するものとの違いは?
そのように考えると、下の”運動そのもの”と差異がなくなるか?
  (※要追記)

次に、書かれたものの”運動そのもの”とは?
これは、「何のジャグリングをしているか」ということであり、ここに「技」trick/patternが含まれると考える。
ラップにおける韻になぞらえれば、ここでの「技」というのは、「技構成」trick/pattern schemesをも含み、技構成とは、・技の語・技の数・技の配置の3つの要素から成ります。
「技構成」trick/pattern schemes
 ・技の語  『what tricks/patterns will you use』
 ・技の数  『how many of them will you have』
 ・技の配置  『where will you put them』

これら「意味内容」と「運動そのもの」は、ジャグリングの「書き」が何を言っているか、ということの内容です。

次に、もうひとつの方の要素である、「話し」、話されたもの、について考えましょう。この「話し」がFlowと関連します。
同じ「技」であっても、行う人が違えば、または行う機会が違えば、「”話し方”」=「どのように技を行うか」というのは、異なります。
ここで言っている「”話し方”」というものの内容が問題なのですが、具体的にラップの場合になぞらえてみましょう。
繰り返しですが、ラップにおいては、同じlyricであっても、
「声の大きさ」volume、「声の高さ」pitch,tone(ラップにおいてメロディはないと考える立場からは、音楽の五線譜に明記されるような音程をここでは考えない)
「速さ」speed、「間・区切り」pause(どこで息を吸うか)、「リズム」※rhythm,cadence?
「声色」tone,timbre(感情に伴って様々に)、「声質」(掠れて/しゃがれている)、
といった「話し」の要素が異なりうる、これらを変えることが考えられます。

ジャグリングにおいても、同じ「技」であっても、
「技の大きさ」、「技の高さ」level,height、
「速さ」speed、「間・区切り」pause、「リズム」※rhythm
「質」(感情に伴って様々に)、
といった要素が、「技」をどのように行うか、という要素であるようになぞらえて考えることができます。
が、これらの要素は、まさに、一番最初に1.ルドルフ・フォン・ラバンの「Flow」でみたところのラバンの身体運動分析論(略称LMA)のEffort論における運動の各要素、空間Space、時間Time、重さ(エネルギー)Weight、流れFlowに当てはまるのではないか?!

  ※Effort(動きの質)の要素
空間Space 大きさ、高さ、方向、形、軌道、場所移動、
時間Time 速く/ゆっくり、瞬間的/継続的、
重さWeight(エネルギー) 重く・力強く/軽く・力弱く
流れFlow  bound(束縛された)←―――→free(自由な)

この「話し」deliveryの要素を、ジャグリングにおける「Flow」であると考える立場がまず一つあります。ある「技」を「”どのように”行うか」という要素が、ジャグリングの「Flow」であるとするものです。

ここで重要なのは、ここでの「Flow」は仮説1とは異なるということです。
この立場からは、仮説1のような、つまり”なめらかに”(ラバンの「Flow」概念でいうところの)動きのFlow要素がFree極に近い)ジャグリングをすれば、すなわち「Flow」の良いラップだとは考えません。
「動きのなめらかな」ジャグリングであっても、その他の要素が一定であったら、それはつまらない「Flow」のジャグリングであると考えられます。

また、ジャグリングにおいてビート(ジャグリングの裏で重なって流れる音楽)の拍にズレずにジャグリングして、あるいは、ポイなどの道具でのジャグリングの「ルール」として「拍」(基底状態の周期)に合わせて、いかにそこからリズム的にブレないように様々な技をするか、という「ルール」が存在している場合に、その拍にズレずにジャグリングをして、
スムーズに音にノっている(ジャグリングのテンポを失わず拍からズレていない)ことをすなわち『「Flow」がある』と考えることも、妥当ではないと考えます。
さらに、「ジャグリングが構成するリズム」”だけ”に着目して、それを「Flow」の定義と考えることもしません。
これらの考え方は全て、ジャグリングの「”話し”」の要素に照らしてどのような「Flow」が良い「Flow」なのか、という問題の中で包括的に考えることができるからです。

4.の最後のあたりで、Cyrille Humenの動画から「ジャグリングが構成するリズム(音)」に着目したのは、
それまで、”現代の”「Flow Arts」の「Flow」とは
ジャグリングの行為(運動)が有している「感覚的な良さ」あるいは「美的観点からみた良さ」aesthetically pleasing
を意味するのだと考えていたところ、
それがつまりどういうことを指して言ってるのか、ということについては、身体の・道具の軌道という視覚的要素や仮説1の考え方だけでなく、他にもmoving ”in an aesthetically pleasing way”なものが有りうるのではないか、と考えたからであり、その一つとして聴覚的要素である「ジャグリングが構成するリズム(音)」に着目したいという理由からでした。
しかし、この「”話し”」deliveryの要素を、ジャグリングにおける「Flow」であると考える立場からは、視覚的要素(軌道の、ラバンの「Flow」要素の「なめらかさ」)からも、聴覚的要素(「ジャグリングが構成するリズム(音)」の「なめらかさ」)からも、複数の要素から総合的、かつ包括的にジャグリングの「Flow」を考えることができるため、こちらの定義の方がより相応しいと考えられます。

もっとも、”現代の”「Flow Arts」の「Flow」の
ジャグリングの行為(運動)が有している「感覚的な良さ」あるいは「美的観点からみた良さ」aesthetically pleasing
という意味で、仮説を立て直すとすれば、
仮説2
ジャグリングの「”話し”」deliveryの要素の、「感覚的な良さ」あるいは「美的観点からみた良さ」aesthetically pleasing
と立てられます。
  (※ここでの(じん定義の)ジャグリングにおける「Flow」は、ジャグリングの「”話し”」deliveryの要素であり、それは中立的分析要素である。「Flow」自体は良いも悪いもなく、「Flow」の要素に良いもの/悪いもの(良い「Flow」/悪い「Flow」)があると言える。
それに対し現代の「Flow Arts」の「Flow」仮説2によれば、または「Flow Arts」は、「Flow」は目標とすべき良きものであるという前提に立っており、「Flowがある」ジャグリングは良いジャグリングであるが、良いジャグリングではない場合そこに「Flow」というものは存在していないと考えられる。 ※この点8.で後述)

ラップにおける「Flow」に二つの立場があったように、ジャグリングの「Flow」においても、もう一つの立場を考えられます。
「”話し”」deliveryの要素を、ジャグリングにおける「Flow」であると考える立場とは異なるものとして、「”話し”」の要素だけでなく、「技」trick/patternも「Flow」の要素として含めて考える立場です。

先ほどのジャグリングの「書き」について振り返ってみましょう。「書き」の内容は「意味内容」と「運動そのもの」に分けられ、「運動そのもの」のうちに、技trick/pattern、技構成trick/pattern schemesが含まれるとしました。
「技」はリズムを生み出してしまう(ジャグリングの「技」はリズムを構成する)ために、「”話し”」の要素であるはずのジャグリングのリズムが”書かれて”いると考えることができます。
「どのように話すか」を考え、様々な「”話し方”」を模索する中で、思い通りのリズムを作り出すためには、「技」に関しても干渉しなければならないのです。

ここで、『「技」を”どのように”行うか』というジャグリングの「話し」の要素だけでなく、「技」そのものさえも「Flow」定義に含まれるとすると、「Flow」が指し示すものがあまりに広範囲になってしまうのではないか、という問題が生じます。それこそ「Flow」は「ジャグリング」と同義になってしまうのではないか、という懸念です。

この懸念に対して答えるために、ラップの「Flow」をもう一度思い出してみたいと思います。韻をラップの「Flow」に含める立場は、「Flow」概念を「ラップ」と同義には考えていないはずです。「Flow」概念によって、「ラップ」の何を特に表そうとしているのでしょうか。
一つには、ラップから「意味内容」を切り離す、ということが挙げられます。ラップの意味内容(何を言っているか)なんてどうでもいいから、「Flow」(どのように言うか)をみよう、ということです。
二つには、韻を「Flow」に含めるのは、韻がリズムを生み出してしまうがゆえに、その点において含まれるのであり、韻のリズム、音楽性(”話されるもの”としての性質)以外の韻の性質・要素は、含まれないと考えられます。
意味内容も実は韻の音楽性以外の要素なのですが、ここでは特に、ラップの中核的な要素は韻であると考えられていた押韻中心主義であった時代に、押韻だけではなく「Flow」も(音楽性も)ラップの中核的な要素であると主張したという点を指摘したいです。
以上の二つのことを踏まえると、韻を「Flow」に含める立場からも「Flow」はラップと同義には見られていません。(※韻を「Flow」に含めるというより、「韻律」を「Flow」に含めるという方が適切だが、韻と「韻律」が切り離すことが不可能であり、また「韻律」という語の意味が定まらないこともあり、このままの整理で行く)
さらに、ここでの「Flow」は、何がラップの中核的要素なのか、というラップにおける一つの「主義」、価値観を表そうとしていると受け取ることも出来ます。

以上のことから、ジャグリングの「Flow」に立ち戻って考えると、「技」をジャグリングの「Flow」に含める立場からも、
一つには、ジャグリングの意味内容(何を言っているか)なんてどうでもいいから、「Flow」(どのように言うか)をみよう、ということが言えるし、
二つには、ジャグリングの「技」を「Flow」に含めるのは、「技」がリズムを生み出してしまうがゆえに、その点において含まれるのであり、それ以外の性質・要素は含まれないと言えます。

整理
☆ジャグリングにおける「Flow」定義の試み
ラップにおける「Flow」になぞらえて、
・”何を”ではなく”どのように”を中核とする「”話し”」deliveryの要素のみを「Flow」の要素と考える
「”話し”」deliveryの要素だけでなく「技」(技構成)も「Flow」の要素と考える
の二つの立場


この二つの立場があることを確認しましたが、ここから、この二つの立場の違いが解体されつつある、ということを述べたいです。
それは「シークエンス」概念の登場による「技」概念の解体を原因としています。
「シークエンス」という概念を考えるにあたって、下の動画の冒頭部分を参照したいです。Jay GilliganのTED Talksの動画『The evolution of juggling』です。

Jay Gilliganは冒頭の三分間ほど、ジャグリングの「アメリカンスタイル」と「ヨーロピアンスタイル」について話しています。(実際にジャグリングもしています)
「アメリカンスタイル」は「技」trick/patternを中核としていることがわかるでしょうか。「based upon skill」「looping repeating patterns」「the rhythm is the same」と述べています。
対して「ヨーロピアンスタイル」については、「there's a lot of starts and stops」(ここでのstarts and stopsはアメリカンスタイルのスタートとエンド/フィニッシュと異なる) 「the patterns don't repeat」と述べています。「ヨーロピアンスタイル」は、ジャグリングをリズムに分解したものであると言えます。「ヨーロピアンスタイル」においては、「技」というものを観念しづらいのです。あるいは、そこでは「技」概念をそもそも観念しようとしていません。
ここで言われている「ヨーロピアンスタイル」が、2006年~の「Object Manipulation」の興りの流れを指しているかは不明ですが、「アメリカンスタイル」が「技」をジャグリングの中核的要素と考え、「ヨーロピアンスタイル」が「Flow」に近いものをジャグリングの中核的要素と考えていると解することができます。

「ヨーロピアンスタイル」が広まるにつれ、ジャグリングを「技」よりもより広い枠組みで捉える考え方、あるいは、「技」のskill以外の点でジャグリングを捉える考え方が広まっていったと思われます。
「シークエンス」概念が歴史的にいつどこで生まれたのかは不明ですが、この考え方において、「技」よりもより広い枠組みとして「シークエンス」は考え出されたのではないか、と僕は思います。

「シークエンス」という枠組みでジャグリングを捉え、「技」というものを観念しづらい場合、あるいは「技」概念をそもそも観念しない場合には、「技」をジャグリングの「Flow」を構成する要素に含めるかどうかという二つの立場の違いは、意味をなさなくなってしまいます。

「シークエンス」概念がせっかく出てきたので、「シークエンス」と「Flow」との関係についても考えてみましょう。


7.「sequence/シークエンス」と「Flow」

上のBurning Dan(※2007年頃~「Flow Arts」という語が広まるのに大きく貢献したFlow Artist・ファイヤーポイスピナー)のtumblrのpost(2010年時のもの)には、彼がFlowについて問いかけられたことが書いてあります。
ここでの質問者は、Flowとは、単なるパターンからパターンへの優美な移行以上のなにかであると考えているようです。『 “I am assuming that flow is something more than just the graceful transition from pattern to pattern right?”』

「Flow」というものが、smoothness/grace of movementであるとする考え方(仮説1)、あるいは単にtrickからtrick/patternからpatternへの移行のスムーズさであるとする考え方においては、「Flow」のあるジャグリングは、”なめらかなつながり”を有しており、「連なり」を意味する「sequence/シークエンス」という語は、近しい関係にあるようにも思えます。

また、「Flow」の語の使用状況をみるに、単に「シークエンス」、または「ポイのシークエンス/スイングによるシークエンス」の意味で「Flow」を使っているのをしばしば見かけます。

「Flow」の語の定義は各自で好きなようにしてもらえばいいですし、「シークエンス」の語の定義も曖昧なので、これが誤りであるとは言いませんが、僕自身は、「Flow」と「シークエンス」を同一概念を指す語であるとは考えません。
簡単に言うと、「シークエンス」とは”枠組み”であり、ジャグリング(運動)の一つの形式(パッケージ)を指します。「ルーチン」みたいなものですね(ちなみに「ルーチン」のじん定義はこちら)。
そのジャグリングのパッケージである「シークエンス」には、「Flow」たるジャグリングの”要素”が含まれています。

「シークエンス」の定義 (じん定義)
一定の時間の長さ(幅)のある、複数の「フレーズ」からなる、ジャグリング運動の形式。または、そのジャグリング運動自体。

任意のジャグリング「技」はシークエンスではない。
・ジャグリングpatternの継続はシークエンスでない。例えば3ボールカスケード、2ポイビートのpatternを何周期おこなってもシークエンスではない。
・ジャグリングのtrickはシークエンスではない。例えば1ボールを一回投げる/取る動き、ポイを一周させる動きはシークエンスではない。(trickを継続し、型化したものがpatternである)

二つのジャグリングpatternをつなげたものはシークエンスか?
「フレーズ」とpatternは厳密には異なる概念だが、patternも「フレーズ」とみなして良いので、シークエンスである。
もっとも、そのシークエンスにおける「Flow」が良いものであるとは限らない。
また、他の差異としては、patternにはおおよそ身体の・道具の”正しい”軌道というものがあるが、「フレーズ」や「シークエンス」には、そのような”正解”はないと言える。「シークエンス」においては、より創造的なジャグリングを考えることができる。


定義上、二つ以上の「フレーズ」から成る「シークエンス」には、「つなぎ目」が必ず存在し、その移行transitionの”なめらかさ”を観念することが可能です。
したがって、”良い”「シークエンス」を「移行がなめらかなシークエンス」とする立場からは、”良い”「シークエンス」には常に仮説1の「Flow」が存在する(”良い”「Flow」がある)こととなり、これが「シークエンス」と「Flow」の語法の混乱の原因であると思われます。
”良い”「シークエンス」が常に”良い”「Flow」の要素をその中に有しているとしても、「シークエンス」と「Flow」は同一概念ではありません。


8.「Flow」が評価項目になること

今までに様々な「Flow」概念を参照し、ジャグリングにおける「Flow」についても考えてきた中で、注意したいのは、「Flow」とは、すべてのジャグリングに内在する分析的中立的要素なのか、それとも”良い”ジャグリングにしか内在しないとするある種の「主義」、価値観的な概念なのかということです。
「Flow」とは、すべてのジャグリングに内在する分析的中立的要素と考えるのであれば、「Flow」がないジャグリングなんてものはなく、重要なのは、『”どのような”「Flow」が、”良い”「Flow」なのか』ということです。(僕はこちらの考え方をとります。)
「Flow」とは、”良い”ジャグリングにしか内在しないとするある種の「主義」、価値観的な概念と考えるのであれば、重要なのは、『「Flow」とは何か』ということです。こちらの考え方では、「Flow」は「ある/なし」で語られ、「良し/悪し」で語られることがありません。
  (※そして、現代において「Flow Arts」の「Flow」を適切に説明できている者がいないのは、この『「Flow」とは何か』つまり『”どのような”「Flow」が、”良い”「Flow」なのか』を適切に説明できないという理由からだと思われる)
「Flow」をある種の「主義」、価値観的な概念と捉える考え方が不適当だと僕が思う理由は、今までに「Flow Arts」でみたように、様々なレベルの問題と混同され、ジャグリング運動そのものについて論じにくくなってしまうからです。(ラップにおける「ライム主義」と「フロー主義」との”誤った”対立のように)ジャグリングにおいて、例えば「難易度主義」者と「Flow主義」者の対立があるとしても、それぞれの価値観によって、同じように、ジャグリング運動の「難易度」や「Flow」について論じることができなければいけません。

といっても、「Flow」が評価項目や評価軸になるということを否定しているのではありません。「Flow」が評価項目や評価軸になるということは、(『ピンクの猫』にとって)非常に大きな意味を持っていると思います。

「難易度」においては、それが評価項目であると同時に、難易度が高ければ高いほど良いという評価軸を暗黙のうちに採り、「難易度」は評価軸としても機能していますが、「Flow」においては、それを評価項目としたとしても、『”どのような”「Flow」が、”良い”「Flow」なのか』という問題をクリアしなければ評価軸としては機能しないのであり、そこにおいて、初めて、『「動きのなめらかさ、流麗さ」smoothness/grace of movementのある「Flow」が”良い”「Flow」である』とか『「ジャグリングの構成するリズム」が多様である「Flow」が”良い”「Flow」である』といった「主義」が戦うことが出来ます。
しかし、そこでの「主義」の戦いにおいても、それぞれの主義者は「Flow」の要素を評価対象とするべきであるという点では一致しているのです。

現在の多くの「大会」(※ここに鍵括弧がついていることの意味についてはこちら)の評価項目は、「難易度」「完成度」「新奇性」「構成」であることが多いですが、「構成」というものが指し示しているものが不明確、あるいはあまりにも広いということは指摘し続けられているところです。

「Flow」概念を評価項目として「構成」と別に立てることによって、より細かく『”良い”ジャグリングとは何か』を考えることができます。(大会云々はどうでもよく、ジャグリングについてより細かく論じられるということが重要)
例えば、おなじく「構成」に含まれると考えられる、ジャグリングが”意味するところのもの”である物語文脈(意味・表象文脈)の芸術性と、「Flow」とを区別して論じることができます。

「Flow」という概念が有意味であると僕が考える最大の理由は、それはジャグリングが行われる(のを見る)のと同時に感じられる価値であるからです。
ジャグリングが行われるとき(それは時間の流れとともに行われ続けるのですが)、難易度評価や意味解釈をするには、ジャグリング運動を見て、それからそれを「技」として認識し同定し難易度評価をしたり、または解釈したりするというタイムラグがあります。私たちが(審査ではなく)ジャグリングをみるとき、そのような観賞のしかたもあり得ます(し、より高度な観賞方法であるとも言えます)が、私たちは、もっと純粋に、素朴に、ジャグリングを視るということをしているのではないでしょうか?


9.終わりに

僕が、「Flow」という語について、ことば警察のようにこんなに長い文章を書いているのは、Flowという概念が定義され、共有されると、一つの議論の基盤ができるからです。


私たちはようやく、私たちの違いを分かり合い、”同じ言葉で”、この先の何かについて話すことができるのではないでしょうか。
今回の文章が、そのために役立つようなものになればいいな、と思います。

ここまで長々と書きましたが、結局のところ『”良い”「Flow」とはどのような「Flow」なのか』ということの議論は不十分です。
それは皆様それぞれで考えてもらいたいですし、僕自身も考えていきたいです。(個人的には、細かく見ていくために、ほったらかしにしてあるジャグリングの文体論を地道にやっていくのがよいと思っています。)

そしてぜひ皆様が考えたことを、発表していただけたらと思います。
このnoteに対する感想や反論や質問などを常に募集しています。このnoteでのコメント機能や、僕のTwitterへのリプライ、DM、匿名のお題箱(こちら)の方に、送りつけてもらえれば有難いです。

最後に、ここまで読んでいただいた忍耐強く優しい方々に感謝します。
よかったら、Twitter→@jin00_Seironをフォローしてください。
じんでした。


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追記めも1
本稿は、前に書いた未完のnote「「フロー」について、評価軸の変遷の中の位置付け」の続きというか、正式版です。前のnoteは非公開にしようかと思いましたが、noteは一度公開すると削除するしか下げる方法はなく、削除するのもなんなので、残しておく。
また、『ルーチン創作法概論』原稿にもFlowについて不完全な記述がありますが、改稿版のにこの文章を入れるかどうかは迷っています。長くなりすぎる。


追記めも2

Flowの記述の試み
軌道とリズムを一体的に考える、
「距離感」をリズム化する、
02理論(道具と身体の非接触を0、接触を2と表し、ジャグリングはこの0と2の反復でしかないと考える考え方)を用いて、時間軸を拍で区切り、ジャグリングの状態を 20202002220002のように表すことができる。すると、さながらモールス信号のように、「距離感」をリズムにすることができる。
、で?
http://tootone.net/help

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