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【コンテクストリサーチ:1】平野啓一郎氏の「自己愛」と、美意識の発見

#自己愛こそ愛情の源泉 (平野啓一郎)

芥川賞作家の平野啓一郎氏は、「自己愛」こそ全ての愛情の源泉だと語る。愛の定義は「誰かのことを好きになること」だけでなく「他者のおかげで自分を愛することができるようになること」と考えてみたい、と平野は言う。あの人の前でなら自分は思いっきりリラックスして、素直になれて、いろんなことをさらけ出せる。あの人のおかげで楽しくいられる自分に焦点を当てている。自分を愛するというのは、誰かのおかげで自分を愛する、他者を経由して自分のことを好きになれるということである。

参照
https://www.youtube.com/watch?v=n7Z6KyTeouY
https://logmi.jp/business/articles/13018

#自己愛という誤読の基本

平野氏の語る「自己愛」は、愛情の源泉でありながら、あらゆる物事をジブンゴト化(誤読)するファウンデーションではないだろうか。誰かのことを好きになる自分=「受ける自分」と他者のおかげで自分を愛することができるようになる自分=「発する自分」の違いを考えたい。

好きな花を観察している自分がいるとしよう。「受ける自分」は、まず花を見て「綺麗だ」という感想を抱く。最も情報が多い視覚での判断で精一杯。「発する自分」はどうか。花の存在によって自分を好きになっている自分を観察する。たとえば、花を見ながらも風の音を聞いている自分かもしれないし、蜜の匂いを嗅いでいる自分かもしれない。花の形ではなく、近辺を飛ぶミツバチの可愛さにやられている姿を発見するかもしれない。好きな人を思い浮かべると、わかりやすい。好きな人といる自分を考えると、その人の外見だけでなく、肌触りや匂いも好きな自分に出会う。遊園地に行った時に優しくしてくれたことも思い出すかも。

「受ける自分」は直感の判断自体に重きを置くが、「発する自分」はすべての五感や思考のスレッドを見つめ直す行程を踏む=体験の複雑な連続性に重きを置く。その判断は、固有の複雑な感性に委ねられるため、独特の価値やストーリーが生まれ、対象をジブンゴトとして見なす。平野氏の言う「自己愛」への探求は、対象を介して自身の美意識を発見するメソッドであるのではないだろうか。


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