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ふゆ本番にそなえていたはずがいつのまにかとおりすぎつつある


(ヘッダーの写真はブロッコリーの畑)

はじめに

 このところ冬なのか春さきなのかわからなくなるぐらい寒暖がいれかわりたちかわりおとずれる。昨夏のおわりがけにひっこしてひとりぐらしにおちつかぬまま秋がとおりすぎた。

みのまわりをようやくみわたせるようになったころにいつのまにかこの季節が到来。なんともめまぐるしいはやさで時間がすぎていく。

きょうはそんな話。

あまりにはやくないか

 店にむかうとあきらかにならんでいるやさいがうつりかわっていく。やわらかなキャベツや大きな青菜などから春の到来間近なのを感じる。

時がすぎゆくのはじつに早い。そう感じるのはたびたびだが、このところとくにそう感じる。なにしろ四季すらめまぐるしく変わっていく。先日秋から冬への衣替えを済ませたばかりではないか。

時の感じ方

 あきらかに小中学生のころと時間に対する感覚がちがう。たとえば直近の10年などは「めまぐるしい」という形容がぴったり。20代のころともちがうことがはっきりした。そのスピードは年齢に比例する程度ではなく、指数関数的。こうも早いのはなぜだろう。

理由を考えた。どうやら成長いちじるしい10代には身につけねばならぬことが多い。しかもその習得には文字どおり手間と時間がかかる。そのぶんをおとなたちがおぜんだてしてこどもたちに時間的猶予をあたえている。

「学校」のギリシャ語の語源の「スコレー」(余暇とかひま)からきているのはうなづける。ようやく時をじゅうぶんに与えられていたと気づくのはのちになってから。わたしとて例外ではない。もっとこの時期にやっておけばと後悔するのはあとになってから。後悔さきに立たず、すでにあとの祭り。

noteをつづるのも

 こうして記録をのこしていく理由のひとつに、時のすぎゆくのを漫然と惜しんだり悔やんだりしてもしかたないと思ったから。のこしておけばおなじことに時間を費やさずとも見直したり、頭のなかに整理してしまえればつぎには迅速にできる。そしてなによりもそのときそのときをたいせつにすごせたという証を残していける。

こうして過去に記したものを目をとおすと、当時のじぶんはよくやっていたなとか、このころのほうがいい行動をしていたのではと自省しつつ肯定的にとらえられる。もしかしたらもっといい過ごしかたがあったかもしれないとは思えない。むしろこの選択でよかったと思えるからふしぎ。

時をきざむと

 ヒトの生きかたはヒトそれぞれ。どんなふうに歩もうと自由なはずだし、その選択はふりかえると結局は自分次第だと思う。他人やそのほかの理由でまわりから左右はされても、自分が確固としてればいくぶんかはその反映の結果のはず。

もちろん時代や趨勢にいろいろと翻弄され制約される。そのなかにあってそれに流されて生きるのはじつにもったいないし、主体的に生きたことにはなっていかない。それらがかえってくふうしたり知恵を生んだりする。

おわりに

 この時季のキャベツはじつにおいしい。どんな料理にも合う。季節ごとに採れるやさいたちにこうして接していると、キャベツひとつからもつねにそれを感じとれるし、確認できる。必要だからこうして葉をやわらかく変化させていく。

しなやかに生きることはすなおにすごすことでもあるし、それがいちばん無理がない。この澄みきってまだひんやりした空気のあるなかでそう思う。
 

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