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〇〇が食べられなくなるというのはこんなふうに起こっていつのまにか機会がおとずれなくなる


はじめに

 すでにうなぎがそうかもしれないし、さんまなどはその過渡期からすでに食べられない状態へと遷移しつつあるのかもしれない。こんなふうにこのクニではある意味、せかいのほかのクニグニではおこりえないかたちで、食料の先細りがすすんでいきそう。

末端でなんとかしようとうごいているつもりだが。いきあたりばったりのこのクニのやり方がどうも…。

きのうにひきつづき食料について。

きょうはそんな話。

気づいてはいても

 飽食の時代。スーパーやコンビニ(行かないけど)にむかえば、これだけのモノや種類の食べものがはたして必要なのだろうかというほどある。ただし台風が近づくとなるとこうしたたべものがあっといまに消えうせる。それほど在庫をかかえずにぎりぎりできりまわしている。

街なかだけでなく、ほんの数か月まえまで住んでいた中山間地でも例外でない。最近までなぜか幹線沿いに大手3社のコンビニがそろい、いまもそのうちの2軒が営業中。かぞえるほどのヒトしかいない集落でのできごとだからおどろき。

コンビニが都会ほど分布しながら利用することはほぼない。横目でみながら新鮮なやさいや肉さかなを買うため、くるまで15~25分ほどかけてスーパーまでむかう生活だったからなおのこと理不尽。

なにかおかしい。そしてこんな生活がいつまでつづくのか。

あきらかにちがう

 昭和のころはまだ八百屋や魚屋などそれぞれ個人店で日ごろの買いものする生活だった。工場地帯の街はずれに住んでいたこどものころ、母親とともにあるいて30分ほどかかる街までむかった。重たい荷物をいっしょにかかえて帰るのがごくあたりまえ。

まだそれほどものが豊富にあるわけでも、いまほど加工の進んだ食品はまだモノめずらしいくらい。クニ全体が豊かなわけではなかった。カップ麺しかり。レトルト食品や冷凍食品などいまではおなじみの商品すらではじめのころ。それがどうだろう。いつのまにやらそれらにかこまれスーパーの生鮮品の棚やケースは加工品におきかわりつつある。

さしみや調理ずみの食品を冷凍したものが豊富にならぶ。もちろんそれなりにお高い。地球の裏側から「生」を解凍してそのまま口にはいるなんて。冷凍技術がより進歩して普及したのはごく最近のこと。じぶんをふくめ急速にそして知らぬままに技術にたよる生きかたにひたっている。

やむなく利用

 日ごろの生活ではやむなく妥協の産物で、そうした食品をとりいれてすごす。ことしはとくに高騰し品数のすくない生鮮品にかえて冷凍品やかんづめで代用。もはやいちどそれを知るとやめるのは容易ではない。べんりさ、手軽さの代償はどれほどだろう。地球の裏側からはこばれるあいだの冷凍を維持するエネルギー。想像を絶する。

こんなねだんで供給できるのはもはやおどろき。生産から流通までじつに多くのてまとヒトがかかわり値段がきまる。批判ばかりできないし、かといってそのままで思考停止するのもどうか。

おわりに

 広域でおこる地震などがきっかけでこのシステムは瓦解しないか。そなえることはできるのか。ごく短期間ならばやりすごせそうだが、そのあとの復旧にむけての再構築はどうだろう。混乱のさなか、エネルギーや資材の供給面からかんがえるとコールドチェーンや食品の加工設備は復帰できるのだろうか。

もとの生鮮品にたよるしかない時代にもどるべきというわけではないが、長期にわたり備えるうえでの問題点の精査ははたしてできるのだろうか。こうしたときにそなえてかならず生じる「弱者」への配慮など心配のたねは尽きない。

日ごろ○○が食べられないだけでも根底にはより重大な問題が潜在しているのではないか。それさえ対処できずにもっと大きな事象にあたれるとはとうてい思えない。自問自答してみる。もしわたしが担当者ならばどうするだろう。

こたえはだれももちあわせていない、というこのクニにありがちなところがふとあたまにうかんだ。

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 20年まえの本だけど…。


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