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短編小説「魔王」

プロローグ

世界に死があふれていた。

ビルは無残にも崩れ落ちた。街並みは、どこからか放たれた業火で赤く染まった。

街道のそこかしこで、玉突きを起こした車が乗り捨てられていた。信号機に激突したワゴン車から黒煙が上がっている。ポールは二つに折れ、信号機は赤いライトを灯らせたまま、道路の中央に転がっていた。
眼前に広がるのは、もはや街ではなかった。廃墟と呼ぶのさえためらわれる。言うならば、それは『地獄』だった。

ガラス片でおおわれた道を進む。かつて繁華街のメインストリートであったその街道に、その面影は微塵も感じられなかった 

ショーウインドーをのぞいていた者たちの姿はない。彼らは恐怖と驚愕で塗り固められたマスクをつけたまま、冷たい地面に転がっていた。

両手、両足を使っても足りない。足りるはずもない程の亡骸が、幾重にも折り重なって道端に積まれている。

絞りとられたワインのような黒ずんだ赤い液体が小川となり、用水路に流れこむ。ハイヒールを履いた若い女の足が、その流れをさえぎるように横たわっている。ただ、その細く引き締まった足に、太股から先の部分は存在しなかった。
血の臭いが鼻をつく。錆びた鉄のようなざらついた風が頬をなでた。

気力を振り絞り、震える両足を前に進める。すでに恐怖心は精神の許容量を超え、飽和状態にあった。

微かな物音に足を止める。

五メートルほど先に左へ折れる一方通行の抜け道があった。音はそちらから漏れ聞こえてくる。

足元に注意しながら壁つたいに進む。抜け道の入り口へさしかかり、壁を背にして身を隠した。

ゴリゴリと何か固いものをすり潰すような気味の悪い音が低く響いてくる。神経をざわめかせる魔性のゆらめき。激しく波打つ心臓。首筋をつたう汗は、暑さのためではなく、むしろ凍える氷の刃となって襟元に突き刺さった。 
震える唇をむりやりに引き結んだ。眼を閉じて呼吸を整える。五線譜の上を跳躍するパルスを抑え込もうと、闇の中に浮かぶオレンジ色のともしびに神経を集中させた。

一瞬の無を感じた直後、すべての感覚は救いなき現実に引き戻された。

音はまだ響いている。意を決し、震える足を引きずるようにして身をずらした。

肩ごしに地獄が見えた。

微風に波打つ紅き湖。うず高く積まれた肉の島。沈みゆく太陽をむこうにして、その頂上に座する異形の民。

その姿は、創造主たる神にも、破壊を司る悪魔にも見えた。

ソレの手には、つい先刻まで血の温もりを持って生を謳歌していたであろう女の腕が握られていた。ヒトデのように開かれた五指の先には、綺麗な紫色のネイルアートが施されている。
ソレの手が動くたびに、鋭い前歯が肉を裂き、強固な犬歯が骨をすり潰す音が、地響きのように鼓膜を揺らす。

すでに涙は干上がっていて、何の感情も湧いてこなかった。ただ一つの目的を遂行するために、ここまで生きてきた。それも、もうすぐ終る。すべてを終わりにして眠りたかった。狭苦しい棺桶の中で、仰向けに眠りたい。それだけを願っていた。
ずっと握り締めていたマグナムをホルスターに戻し、背中のライフルを引き抜いた。

素早く照準を合わせる。

肩甲骨が異様に盛り上がった背中。陽光によって作られたシルエットは、今まさに飛び立とうとする堕天使のそれだった。

「さよなら」

心の中でつぶやき、引き金にかけた指に力を込めた。

標的が動いた。胸元で光が乱反射し、視界を白く覆った。顔を歪め、むりやり目を開ける。

その刹那、すべてが氷ついた。

ソレは血みどろの口元を拭いもせず、からっぽの瞳でこちらを眺めていた。

もう枯れたはずだった恐怖が、底無しの井戸から湧き上がった。顎が震え、カチカチと無様な音をたてた。

地獄の最上階で『魔王』が笑っていた。


★第一話★

「散らかってるけど、気にしないでその辺に座って。今、お茶いれるから」

田辺藍子はテレビゲームやスナック菓子の袋が散乱した居間を抜け、台所へ続くアコーディオンカーテンを開けた。

「おかまいなく。荷物片付けたら、担当のところへ顔見せに行かなきゃならないんだ」

サングラスをおでこに乗せた松浦香奈子がやれやれと言わんばかりに首を振った。

「今日帰ったばかりなのに、もう仕事なの?」

「一応、取材ってことで旅費出してもらっているからね。早めにお土産の一つも置いてこないと」

香奈子はソファの定位置に腰を沈め、背伸びをした。

「行ったら行ったで原稿の催促でしょ?」

「松浦さん。締切は守っていただきますから」

香奈子が両目の端を指で垂らし、担当編集者のマネをした。これが驚くほど似ている。やはり、売れっ子のイラストエッセイストだけあって、彼女の観察眼は確かだ。

友人の結婚式でもらったティーポットにアールグレイの茶葉を少し多めに入れお湯を注いだ。セットでもらった同じ花柄のカップをトレーに乗せる。

「紅茶でいいでしょ?」

藍子は有無を言わさず、香奈子の前に青いカップとソーサーを置き、ゆっくりと紅茶を注いだ。湯気に乗って、甘酸っぱい臭いが広がった。

「良い香り。むこうじゃずっとビールかウォッカだったから。たまにはこういう上品なのも良いね」

「また、そういう無茶してるのね。いい加減にしないと体壊すわよ」

「へいへい、よーく肝に命じておきます。という訳でいただきまーす」

香奈子は強引に話を打ち切ると、美味しそうに紅茶をすすった。

香奈子とは、美大に通っている頃知り会った。二人とも東北の出身ということで馬が合った。授業やプライベートを問わず常に行動を供にし、二年の冬には2LDKのアパートでルームシェアを始めた。
大学を卒業し、藍子は高校の美術教師に、香奈子はイラストレーターとして広告代理店に職を得た。

その後、藍子は結婚し、息子も生まれた。香奈子は相変わらず自由奔放な生き方を貫き、今ではフリーのイラストライター兼絵本作家として女の細腕一本で不況に揺れる出版界の荒波を生き抜いている。
「どうしたの?その腕」

加奈子の左腕に湿布薬が貼ってあり、七分丈のシャツからはみ出ていた。

「向こうでスケッチしまくったら筋痛めちゃってさ、まいったよ。そうそう、あんたにもおみやげ買ってきたのよ」

香奈子は一週間前からチェコへ旅行に出掛けていた。連載を持っている女性誌の旅行記と新作絵本のネタ探しを兼ねた取材旅行だそうだ。旅行といったら修学旅行の引率で、京都、広島、少し離れて沖縄辺りが関の山である藍子にとっては、うらやましい限りだった。 
香奈子は、床に放り投げてあったチューバが二つ入るくらい大きなスーツケースを開けた。

「またお酒とかだったら殴るわよ」

香奈子は、行く先々で地酒をおみやげに買ってくる悪い癖がある。田辺家は夫の優介も藍子もまったくの下戸だ。そのため、もらった酒は藍子の実家に送られるか、もしくは食器棚の飾りになるかのどちらかだった。
「私だってそのくらいわきまえてますとも。今回のはすごいわよ。目ん玉飛び出さないようにしっかり押さえときなさい」

香奈子がケースの中から黒い布袋を取り出した。大きさは肩幅に開いた両手に乗る程度。香奈子の様子からすると、結構な重さがあるようだった。香奈子が袋を逆さまにして中に片腕をさし入れ、袋をとった。

「ジャーン」

「きゃっ」

藍子は思わずソファの上で後退りをしてしまった。

「何よ、それ。気色悪ーい」

「気色悪いとは何よ。これこそチェコ共和国が世界に誇る伝統芸能、木彫りのマリオネット様よ」

それはただの人形と呼ぶには、あまりにもグロテスクだった。頭が大きめの四頭身。手足は細く、しっかりと駆動する関節が作られている。頭、腕、両足それぞれに細い糸がついていて、十字にクロスされた鉄の棒につながっていた。
丸い顔の中央に高い鷲鼻が鎮座していた。両目は大きいがぴったりと塞がれ、長いまつげがピンと反り返っている。口はそれ以上に大きく、顔の下半分すべてを占拠していた。ノコギリ歯のような三角形が上下に噛み合っている。それは笑っているようにも、怒っているようにも見える。人形には眉毛がなかった。服装は中世の貴族をイメージしているらしい。本物のレースが使われたシャツの上に白いマントを羽織っている。

「何の人形なの?」

藍子は恐る恐る人形に近づいた。近くで見ると、確かに芸術品としての価値は高そうだった。

「チェコは、人形劇やら人形を使ったアニメーション制作が盛んなのよ。何せ国立大学に人形劇科があるくらいだからね。街のあっちこっちで公演会をおっぱじめるもんだから大変よ。日本でいうストリートニュージシャンと同じ感覚なのね、きっと」

「ふーん。ちょっと触らせて」

実際にその目で見てきた人に語られるととたんに興味が湧いてきた。生まれてきたばかりの赤ん坊を抱くように、マリオネットを受け取った。

手にとってみると、ずしりと重い。しかし、見れば見るほど、その出来の良さに心を奪われてしまう。滑らかな木の触感。細部まで丹念に縫い付けられた衣裳。そして、何より表情の豊かさが際立っている。一見無表情なはずの人形が、見る角度や光の加減によってコロコロと表情を変えていく。まるで、生きた赤ん坊を相手ににらめっこをしているような気分だった。

「それね、天使らしいよ」

「これが天使?何だかイメージと違うわね」

藍子にとって、天使といえば白い羽と頭上に光る輪、すべてを許す柔和な笑顔が必須条件だった。そのどれも、この人形にはあてはまらない。

「天国で悪さをして人間界に追放された堕天使って奴ね。そしてこれが・・・」

香奈子はスーツケースの中からもう一つ同じような袋を出した。さっきよりは少し小振りだ。

「その使い魔くん」

その人形は、藍子の手にある人形の半分ほどの大きさだった。しかし顔つきは良く似ている。大きな鼻と大きな口。しかし、こちらは両目をぱっちりと開けている。瞳の中央にある緑色のガラス玉が煌めき、人形の顔に命を吹き込んでいた。

「天使の子分が悪魔なの?」

「だって、この人形を買ったお店のおやじさんがそう言うんだもん。古い絵本のキャラクターをモチーフにして作ったとか何とかって説明してたわね」

「ふーん、気になる話ね」

「そう来ると思った。あんたはいつもそう。マンガ読んでもドラマを観ても、ストーリーの本筋に関係ない細かな設定ばっかり気にしてるんだから」

「だって、そういうのって大事じゃない」

「まあ、そういう私も絵本作家のはしくれとして見逃せなくてね。現地のガイドさんに頼んで、その絵本を探してもらってるんだ。古い本だけど、古本屋を探せばたぶんあるだろうって」

「やるじゃない香奈子」

「何年あんたと付き合ってると思ってんのよ」

香奈子はそう言って、誇らしげに笑った。

⇒第二話へ続く

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