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【女たちのポートレート・伊藤野枝】作りあげられた「野枝像」を覆す、手紙などの貴重な資料

 明治から大正時代にかけて、アナキズムや女性解放運動に貢献した伊藤野枝。没後100年(今年9月16日)を機に、野枝の人生を振り返ってみたい。
 大杉栄(1885年〈明治18年〉1月17日~1923年〈大正12年〉9月16日)の甥である、大杉豊が編纂した『伊藤野枝の手紙』(土曜社/2019年)という本がある。野枝が関係者や大杉に送った手紙を編集し、解説を行ったものだ。これを手がかりに、野枝の実像に迫る。
(編集部 かわすみ かずみ)

編集部 かわすみ かずみ

 伊藤野枝は1895年(明治28年)、福岡県糸島郡今宿村(現在の福岡市西区今宿)生まれ。貧しさから養女に出され、高等小学校(現在の中学校)卒業後、郵便局に就職。
 成績優秀だった野枝は、叔父の代準介に懇願し、東京の上野高等女学校に編入。最初の夫となる辻潤と出会う。英語教師の辻に、「意に沿わぬ縁組をされた」と相談したことから、辻の家での同居が始まった。辻は野枝との関係を批判され、職を辞した。このとき野枝17歳。
 辻の勧めで女性解放運動誌『青鞜』に参加。家事、育児をこなしながら執筆活動に励む。
 1915年、20歳で『青鞜』編集長になり、翌年、辻と別れ、大杉の元へ。辻との間に男児2人をもうけたが、長男・一は辻が育て、次男・流ニも程なく里子に出した。自由恋愛を主張する大杉と妻の堀保子、愛人・神近市子、野枝の四角関係のもつれから、大杉が神近に刺される(日蔭茶屋事件)。
 大杉は堀と別れ、22歳の野枝と暮らし始める。大杉と野枝の間には5人の子どもができ、子育て、執筆、出版、社会運動へと動き出す。だが、運命の歯車は逆回転を始める。
 1900年に制定された治安警察法により、社会運動の弾圧が強まる中、2人が作る雑誌が発売禁止処分に追い込まれ、私服警官の監視が続く。
 1923年、関東大震災で被災した弟の勇たち一家を見舞うため横浜に向かった野枝と大杉は、勇の家に預けられていた甥の橘宗一少年とともに、甘粕正彦憲兵大尉らに拘束され、拷問の末、殺害された(甘粕事件)。野枝28歳、大杉38歳、宗一6歳だった。

(注)関東大震災では、「朝鮮人が井戸に毒を盛っている」「社会主義者が暴動を起こす」などのデマが流れ、自警団ができるなど、緊迫した状況になった。
 警察は朝鮮人を選別し、虐殺した。また、社会主義者の弾圧も行われ、亀戸事件により、同時期に10人の社会主義者が虐殺されている。


野枝の手紙からわかること

 『伊藤野枝の手紙』は2部から成る。1部は『青鞜』に関わりだした野枝から大杉への恋文、勾留中の大杉や、周囲の人びとへのもの。2部は辻との別れの遠因になった読者の木村壮太との淡い恋、『青鞜』譲渡の際の平塚らいてうとのやりとりなどだ。

 1部の最後には、野枝の筆跡がわかる原稿があった。行書のようなうねる字体の繊細な文字が並ぶ。
 木村からの手紙に野枝が戸惑い、揺れ動く様が手紙から溢れている。当時の夫・辻潤に何でも話してきた野枝が、木村からの手紙を夫に言えなかった。それを知ったとき、野枝の印象が一変した。奔放なイメージが一般的な野枝だが、手紙から受けた印象は違った。
 野枝が辻の元を去った理由について、奔放な野枝が大杉に心変わりをして捨てたように言われるが、叔父への手紙には、違う理由が書かれていた。
 働かない辻に代わり、野枝が一家の家計を支え続けたが、子育て、家事、執筆などに追われ学ぶ時間がないことや、辻が野枝の妹と関係を持ったことが原因、とあった。自由を求めた野枝は、「大杉に出会い、救い出された」と書いている。
 大杉が野枝に惹かれた理由については、「青鞜社を『文芸道楽のお嬢さんたちの寄り合い』にとどめず、改革していくであろう『本物を見出した』ことである」と大杉の文章が引用されている。また、大杉は野枝の感情を「血のしたたるような生々しい実感のセンチメンタリズム」と評価する。
 野枝の手紙は、時代が下るほど、英語や海外文学の名が増え、学び続ける喜びが伝わってくる。
 だが、獄中の大杉にあてた1920年2月29日の手紙には、「私達はいつの日死に別れるかしれない」と書かれており、悲しい最期を迎えることも予想していたようだ。


「自分の子ども一人守っても社会が変わらねばどうにもならない」

 同著の面白い視点は、最終章の野枝の子育て感覚についての文章にある。1920年の東京日日新聞の新年企画「新時代の子の為に」というアンケートに答えたものだ。
 生涯に7人の子どもを産み、婚家に置いてきたり、里子に出した子どももいる野枝は、「子どものことについては、世間からかなり批判を受けた」という。野枝は「子どものためにも、自分のためにも、自分の本当の道だと思う方に進むのが一番いい」と答えた。
 親から離れたら不良になるということはない。物心がついたら、親が本当に捨てたのではないとわかる。それもわからないような子なら、捨てたと思われても惜しくないというのが、野枝の持論だ。
 自分の子どもひとりを守っても社会が変わらなければ、そのほうが怖いことだ、と野枝は言う。
 野枝と辻の長男・一は、法政工業学校卒業後、オリオン社に入社。雑誌の挿絵などを書いた。山や旅の雑誌『岳人』などに画文を発表するほど、山を愛した。ギターやスキーもたしなむ自由人だった。1975年死去。
 次男の流ニは、4歳で若松家の養子になった。横浜専修商業学校(現在の横浜商業高校)卒業後、兄の会社で図面やコピーライトを手伝う。
 戦時中は海軍に所属。終戦後は68歳で会社を定年退職。油絵、書道などをたしなみ、1998年死去。
 ふたりとも母のことを語ることは少なかったという。だが流ニは、「野枝? 大嫌い!」と言った、と異父妹の伊藤ルイが記している。
 一は、野枝が作ったハイカラな洋服を無理に着せられ、同級生にからかわれた思い出を親族に語った。娘に「野枝」と名づけようとしたが、親族に止められ、叶わなかった。
 辻は野枝と別れたあと、放浪の人生を送ったが、野枝の手紙を大切に保管していた。晩年、友人に自分の原稿とともに柳行李に入れて預けた手紙も、B─29の爆撃で消失した。現存していたら、野枝をもっと深く知ることができただろう。
 1976年に発見された死因診断書には、「大杉の前胸部に死因とは無関係の肋骨骨折が見られ、顔には鬱血の痕跡があった」と書かれている。医師は殴る、蹴るなどの外傷と記述する。野枝や宗一がどんな拷問を受けたかを思うと、胸が詰まる。
 3人の遺体は菰(こも)で包まれ、廃井戸に投げ込まれていた。
 彼女が生きた28年間は、多くを考えさせる。野枝たちが担った女性解放運動があって、私たちは今を生きている。

(人民新聞 5月20日号掲載)

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