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大学教員20年で思う事ーー学生における「社会問題の自己完結」と教師の限界(阪南大学教員)

阪南大学教員 下地 真樹

気づけば大学教員の仕事をはじめてから二十年近くにもなる。自分が話すことが中心となる講義については、さほど困難を感じない程度には慣れてきた。だが、学生自身に考えさせることとなると、今も昔もうまくやれている気は全然しない。まして卒業論文を書かせるとなると、これは本当に難しい。
 能力の問題だとは思わない。それはむしろ意志の問題である。ただし、意志の問題であるから「本人のやる気次第」ということでもない。むしろ、長年の環境の中で「そのように形成されてしまった」意志の問題である。
 たとえば、貧困について考えれば「私はそこまで酷くなかった、よかった」。環境問題について考えれば「一人ひとりができることをしっかりやることが大事」。何をどのように考えるとしても、問いや感想は「わたし」や「あなた」の周辺をぐるぐる回る。社会や構造には目が向かない。いわば、世界は在るようにあり、それを単に受け入れてしまっているのだ。そこを抜け出すのはなかなか容易ではない。

ーー意志がない学生に教師はほとんど何もできない

 適応することがそれ自体としてダメだというわけではない。むしろ、それはそれで必要な技能である。しかし、理不尽さを多々含んでいるこの世界に適応することは、その理不尽を延命させ、自分や周囲の人たちに無理を強いることにつながる。だから、自分をも他人をも大切にしながら生きていくためには、人が幸せに生きていくためには、適応する自分と構造を客観視する視点を持つことがどうしても必要なのだ。
 この視点を持つためには、いわばヒヨコが卵の殻を内側から破って外に出るのと同じような困難を潜り抜けねばならない。第一に、卵の殻の外の世界があることを知らねばならない。第二に、自ら殻を破る意志を持たねばならない。第三に、実際に破るための強さ=知性を持たねばならない。教師は、その手伝いをすることはできる。しかし、代わりに殻を破ってやることはできない。
 このうち、第三の部分については、教師の手助けでどうとでもなる感じはしている。何かを変えたい、そのために理解したい、という意志さえあれば、そのための方法についてはいくらでも教えることができる。
 逆に言えば、その最初の意志がなければ、教師にできることはほとんどない。せいぜい、気づきのきっかけになりそうなことを、一つでも多く学生の周囲に配置することくらいだ。餌を撒いて、そこにかかるのを待つわけだ。難しいというより、どうしても手の届かないところは残るのだ。
 苛立つことも多い。しかし、人は人を支配してはならないし、支配されてもならない。だとすれば、こうして「相手に委ねる」ことが本質的に大切なのだろうとも思う。そして、飽くことなく、誠実に語りかけ続ける。やはり、その先にしか道はない。
 そして、我が身を振り返るならば、自分自身もその時々の殻が見えておらず、その外を想像できていないのだ。他人の意志を云々しながら、油断すると、自分自身が意志を失い、知らず知らずのうちにタコツボに落ち込んでしまう。そうならないように自身を保つのは、自身にとっても簡単なことではないのだ。そのことを肝に銘じておきたい。

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