生まれる輪郭、当てはまる象徴

これは決して「ひろゆき的なもの論」ではない。では何論なのかは読めばわかると思う。

今回の私の危惧は、数式やデータで分かるものではないが、むしろそこに要点がある。私の感覚によって述べていることは予め理解しておいてほしい。
ただ、皆さまの分かりやすさのために、ひろゆきというものを利用する。最初に言っておくが、ひろゆきは「当てはまってしまったもの」でしかない。

1年前くらいから、切り抜き動画をきっかけに広く知れ渡ったひろゆきだが、そこから見えるものを語っていきたい。

私はそこに
①論理 と 論理でない何か の関係
②言いづらいことをズバっと誰かに言ってほしい気持ち

について見出されたものがある。

まず①について。
だいたいのイメージとしてひろゆきには、論理的でないものを排する傾向、そしてそれが、既存の伝統とか文化とか、論理的でなさそうなものを排除すればいいことありそう?という気持ちの人々にウケている傾向がある。

ではなぜこの、論理的というものへの信頼や支持が増しているようなのか。
この原因は、
世界および人々のつながり過ぎ だと思う。
昔だってもちろん、人も国家も、他者との付き合いをしていたが、現在はつながりすぎている。
この、「つながり過ぎ」というのが問題で、この問題から「論理的なもの」への信頼が増さざるを得ないのだと思う。

まず、何かと何かが繋がるには、そのつなぎ目でルールが必要であり、それは相互の伝統や文化の理解が無ければ破綻してしまう。しかしその、伝統や文化の理解はそう容易ではなく、相互の努力が必要である。

そして現在、(感覚として)つながり過ぎというのは薄々みんな感じていると思う。つながりが増えたということは、そのぶん繋ぎ目が増えたということであり、そのぶんつなぎ目を保つルールも必要になってくる。しかし、つなぎ目を保つ努力は上で述べたように、そう容易ではない。それなのにつなぎ目は増えていく一方。そうなったときに持ち出される最後の砦が「論理的なもの」なのである。

他者もしくは他地域、他国との関わりの中で世界中どこにでも通ずると信じられる(こう信じられていることにも問題を提起したいが割愛)のは、もう純粋に、論理くらしか無いんじゃないだろうか。
A=B,B=CならA=C とか。これくらいの論理的に明晰なものだけはどんなに伝統や文化が違っても通じるはずだ。
少なくともそう信じられている。

つながり過ぎ時代の今では、もうこれしか共通の文脈を我々は持ちえないのではないか?論理的なものでしか他者とのつなぎ目ではたらくルールを保てないのではないか?
そしてそういった時代背景によって生まれた輪郭にぴったり当てはまったのが彼なのではないか?

というのが①の私の考えである。

②の、ズバっとタブーっぽいこと言ってほしい雰囲気について。

①でも述べたが、我々が日本人としても地球人としても、共通の文脈を失いつつあるというのは、皆さまも感覚として薄々感じていると思う。
(そういった賢明な方ならここまで読んでくれているはず)

ここでは日本人に限定して考えるが、共通の文脈というのは、つなぎ目を上手く保つだけでなく、個人の倫理的規範にも作用する。(この作用の感覚も、今では非常にわかりにくい)

そうした規範は、当然、個人を抑圧することもある。その抑圧が失われつつあるということは、個人の発言の緊張感や責任感も小さくなってきてはいないだろうか?

なぜかはハッキリしないが、「そういった抑圧をはねのけて何かを発言したい 」という気持ちが人間にはあるように、これは本当に私の肌感覚でしかないが、そう感じられる。倫理的規範から生まれる抑圧に対抗してまで発言することに意味を見出すのかもしれない。

そうした抑圧が失われた、しかし人間には抑圧に抗したい気持ちが残る。この点において、タブーっぽいことをズバっと言っちゃうキャラが求められるのではないだろうか?

これはひろゆき以外にもいろいろ例があるし、好き勝手言いたい気持ちと自己保身のうち後者をとった大衆によって、より支持されるのかもしれない。

また、抑圧の喪失と抵抗の気持ちの矛盾がエスカレートするほど、更なる抑圧を求めてさらに過激な発言も増えていってしまうのではないか?読者の皆様も、世間にひどい言葉が増えてきているなーと感じないだろうか?


①、②のような視点でひろゆきを見れば、彼は分かりやすく現在の問題を浮かび上がらせる象徴として存在していることがわかる。彼が悪いのではなく、ただ彼は当てはまってしまった存在でしかないことは理解してもらいたい。


以上ですが、私の主観でほぼ喋っちゃったので、何か論に変なとことか、気づきとかればぜひコメントください。
寒さに負けずがんばりましょう

宅浪はやめとけ