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スーパー大学職員と呼ばれたくて その8:一枚の絵

ときどき20年前のことを思い出す。

その人は女子大学の学長で、私はその組織の企画課長だった。

「博打をやる気ですか」

教授会である教員がそう発言した。
男女共学化や看護学部の設置をめぐる賛否で、組織が二分していた。
学長は、口ごもりながら呟くように言った。

「博打と言われればそうかもしれないし、違うかもしれない」

そういう会議が何度かあった。

「私は静かな環境で教えたいからこの大学に来たんだ。私の楽しみを奪うつもりか」

国立大学を定年退官してきた教授がそう言った。

その都道府県で初めて作る看護学部にも批判が集中した。

「大学を専門学校にしたいんですか」

そう言う教員もいた。

「医学部もないし、付属病院もない。そんなところで看護学部ができるわけがない」

他の都道府県では当たり前のように私立大学で看護学部があった。
そんなデータも示していた。
しかし、あまり意味がないようにも思えた。

「もともと文学部から始まった大学です。そこに社会科学系の学部を作って、志願者が思ったほど来なかった。文学部で儲けたお金をどうするつもりですか」

20年前の教授会の発言をひとつひとつ議事録のように覚えている。
忘れようと思っても、こんなふうにどこかに書いてしまう。

職員の集まりでこう言う者もいた。

「私は女子大学が好きでここに転職してきた。女子大学には意味がある。だから女子大を無くすのは反対だ」
ただ、教授会と違い、職員の集まりではそういう意見は少数派だった。

改革を推進する委員会では、6つのプロジェクトが作られた。
共学化のための施設を検討するプロジェクトでは、「学内で喫煙者が増える」「近所で駐車禁止が増える」などという意見に対して、既に共学化した全国の大学を訪ねて、ひとつひとつの疑問に答えることにした。

ある大学を訪問したときに「確かに喫煙者は増えました」とその大学の職員が言った。

「それで、ああやっているんです」

と、指を指す先には、煙草を吸う人と吸わない人で仕切られた休憩所があった。
分煙コーナーと書かれていた。今では当たり前の風景だ。

駐禁について調べに行った大学では、こう言われた。

「ああ、そうですね。ここは花博会場にも近いから、うちの大学の学生とは限りませんけど、確かに駐禁は増えましたね。だからガードマンを増やしたんです」

それで解決したという。

職員の集会で「女子大学を無くすべきではない」と言った職員は、前職で受験雑誌の編集をしていた。分析力や文章を書くのが優れていた。いわゆる頭がいい職員のひとりだった。
その職員は、その後、私の部下になり新しい学部や学科を作る仕事に携わった。

「もうそろそろ共学になって良かったと言ってもいいんじゃない?」と聞いたことが何度かある。

「いえ、女子大学がいいんです。志願者が今ほど来なくてもそれでいいんです」

といつも彼は答える。
頭がいいという定義は人それぞれ違う。
問題を処理する能力が高いという意味に使う人もいれば、数字や文字をきれいに整理する能力に使う人もいる。彼は後者に当てはまるのだろう。

こだわりが強い人が大学には教員、職員問わず多い。
そういう世界はある意味、おもしろいと思う。

そのこだわりを変えるのは至難の業だ。
これまで何度も会議や日常で経験してきた。


20年前いっしょに大学の改革に携わった元学長が先日亡くなった。

20年前の共学化の議論で学長は多数決を取ることはしなかった。
何度も会議を開いては、出された意見についての回答をプロジェクトに報告させた。

アメリカの大学でどうして女子大学が激減したのかを私に調べさせて、報告させたこともあった。英語に慣れない私は辞書を引きながら、〝Time〟や〝U.S. News and World Reports〟なんかも読んだ。英文学を研究している教員もいる前で私は平静を装って報告した。
そういう話から喫煙の対策までいろいろあった。

最後に学長は「それではとくに強い異議はないということで」と教授会の場を包み込むように締めくくった。
確かに意見は出し尽くされていた。
博打、私の楽しみ、喫煙、駐禁...。
ほとんどがどうでもいい意見のように思えた。
教授会というのは、議論好きの人たちのストレス発散の場ではないかと思ううことが今でもある。

学長はケンカ好きではなく、どちらかといえば平和主義者だった。
かと思えば、看護学部を設置する委員会に、共学に反対していたある学部の派閥のナンバー2を入れた。

「そんなことしたら看護学部が作れなくなりますよ」

私はその学長にそう言った。

「いやあの人は社会学と言っても、福祉学もやっているんです。看護と福祉、近いでしょ。上手くいきますよ」

と笑いながら言って、引き入れた。
その教授はかなり後に学長選挙で候補になって、僅差で学長に選ばれた。もともと大学で権力を扱うことに興味があったのだとそのときにわかった。
20年前、あの学長はそういうこともわかっていたのだろう。

学長は平和主義者であり、策略家だった。
そういう才能を場によって、上手く使い分けていた。

その学長の専門は材料工学だったが、専門とは関係なく、絵を描くのが好きだった。
休みの日はどこかで絵を描いていた。
桜島が描きたいと思えば、もうその日には飛行機で鹿児島にいるような人だった。

私が事務局長になったとき、すでに引退していた元学長は、ホテルのバーで二人きりのお祝いをしてくれた。
そのときに私の絵の趣味をいろいろ聞かれた。

数日後に一枚の絵が届いた。

黄色いピエロの絵だった。
一人で椅子に座って足を組んでいる。
ピエロの化粧はいつも笑っているように見える。

今もその絵は私の執務室の壁に飾ってある。

私は何か悩んだときにはいつもその絵を見る。
やがて、絵に描かれたピエロがその学長に見えてくる。

心の中でこう呟く。

「学長、こんどは策略で行きますか? それとも包み込みですか?」

ピエロはいつも答えない。

「死んだ子どもの歳を数えても仕方ない」

学長は何かが間に合わなかったときや、政策が失敗したときにそう言う口癖があった。

後悔しても仕方ない。
前に行くしかない。

ピエロがそう言っているように思える。



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