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沼の中が一番暖かいけど、沼を外から眺めてるときは一番寒い

攻めてるときって楽しいじゃないですか。

三日三晩寝ずにアニメを見続けている時とか。

修学旅行のスマブラで「(嫌いな教師の名前)+マ○コ」って名前でプレイしてる時とか。

もしくは逆方向に攻め出して、一日中誰とも会話をせず、何も食べず、ただモンエナを摂取しながらひたすらKornを聴いてる深夜3時とか。

殻に閉じこもったり、誰かと共に閉じこもりあったり、何かの闇の沼の中に浸っているときって物凄く、攻めてるな俺らっていう実感が沸々と湧いてくる瞬間がある。

闇の中だけど、決して寒くない。むしろ灼熱の炎に焼かれて、熱耐性がついた俺らはどんどんハイになっていくからめちゃくちゃ暖かいのだ。

沼の中は、それ以上そこから落ちることがないから、上を見上げてひたすら上界の奴らに向かって思念の弾丸を撃ちまくるだけでいい。

怖いものなしだ。

だからこそ、そんな沼の底に飛び込むのはめちゃくちゃ怖い。

弾丸を撃ちまくっている彼らの姿はひたすらに格好くて、自分もそこに近づきたい、あわよくば共に横に並び、共にハイになって銃を持ちたいと憧れるけれども、

そこに飛び込んでしまったらもう今居る上界には戻ってこれないかもしれない。

それだけで相当なリスクだけれども、

それに加えて、彼らが撃ち続けている弾丸に当たって、先に自己が砕け散ってしまうかもしれない。

自己が砕け散ってしまえば、もう上界には戻って来れない上に、銃を掴む手すら残っていないのだから、今度こそ沼の中で灼熱に焼かれ消滅してしまうので、それはどうしても避けたい。

そうやって沼の前まで来たはいいが、飛び込むかどうか悩んでいる時間は一番肌寒い。

沼の中という場所と、上界という場所のどちら側にアイデンティティを置くかと悩んでいる時間。

そんな時間のなかでは、あらゆるろくでもない思考が湧き出てくる。

自分が穴を掘り沼を作り出して、誰かをそこに引き摺り込んだろう、とか。

でも大抵の人間は一人では何もできない。

力も無ければ、武器もない。

そういう時、おそらく唯一の打開策は、思考を停止させ、本能に従うことであろう。

人間は、一人でいるときが一番頭が切れ、思慮深くなる。それと同時に、不安や寂寥を一番抱きやすくなり、それらは、終わりのない自問自答を課してくる。

そういう時、最も頼りにすべきは、憧れでもなく、現実感でもなく、自分自身の性質そのものであると私は思う。

どんなに理想の家庭に生まれ、理想の教育を受け、理想の学習を受けたとしても、脳の構造上どうしても特定の物事に関して覚えられない人々は、一生覚えられないし、

どんなに趣味や趣向が自分と一致する人間がいたとしても、その趣味の中でもお互い分かり合えない部分があったり、譲れない部分をお互いに抱えていたりするのが当然であるように、

自分のアイデンティティをどこかにどうしても置きたいと思っているのなら、一旦、自分の性質を見つめなおし、自分が今までどういうルートを辿り、なぜそのルートに辿りついたのかを考えなくてはならない。

そうすれば、いずれ、最も自分にとって無理のない、自然なものとして自己を受け入れられるようになるのではないか、と私は現時点で思っている。

結局のところ、確固たるアイデンティティなど誰にも存在していないと思っているが、自分の生まれた環境、親、その中で出逢ったもの、その時生きていた時流、それらすべてを吸収してできた自己というものには、ある程度の性質や癖が存在していることには間違いないので、それに従うのが一番良いのだ。

だから、かつて祖母が小さい僕に、「あたしゃ学生の時は覚えるのがどうも苦手だったから、早いうちから主婦として生きるのを決めたよ」という言葉は、当時の僕は、そんなのは言い訳でしかなく、努力次第でいくらでもどうにかなるんだと思っていたが、大学受験を経て、高校・大学と人間関係の形成に失敗した今なら、彼女の言葉がよ~く理解できる。

無理なものは無理なのだ。

だから、無理じゃないことをどうにかしてやるしかないのだ。


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