とある人物の遺書


 「変わった人」と言われてばかりの人生を送ってきました。
 なぜそう言われるのかは最近までわかりませんでした。

 友達は少なく、親には怒られ、とあるコミュニティでは周囲の多くの子供から無視される幼少期を過ごしました。
 「無視」が「いじめ」と呼ばれるものだったとは長じるまでわかりませんでした。
 なぜいじめられていたのかは今でもよくわかりません。
 ただひとつこれかなと思えることは、×しかいないコミュニティで私一人が×だったからかもしれません。当然ながら私を無視したのは全員×でした。
 学校での友達も少なく、意識的に作ろうとしても全然うまくいきませんでした。
 これも、どうしてかはわかりません。
 いじめられたことも、友達ができないことも、当時の私には理由がわかりませんでしたから、常に「自分の悪いところ探し」をしていました。おかげで己の欠陥を見つけることだけは異常にうまくなりました。
 大学生になって就活で初めて書いたエントリーシートの短所の項目を無限に書き続けてしまってボツにしたのはいい思い出です。……いえ。とてもとても嫌な思い出でした。
 結局私はその短所から逃げることができなかったからです。

 私は親の期待に答えられない子供でした。
 テストはミスして満点を取れない、外で遊ばない、すぐに疲れる、運動ができない、忘れ物が多い、片付けられない、計画が立てられず宿題を先延ばしにする、友達ができず人の輪に馴染めない。
 そういう子供でした。

 幼い私にとっては本だけが心の救いでした。
 虚構の幸せな世界、空想の世界に浸っているときだけはつらい現実を忘れられる。
 幼少時代に本がなければ私の精神はもっと早くに壊れていたでしょう。
 今となっては過去の話。今の私にはもう本が読めません。紙に書かれた文字を見ると目がちかちかしてきて、文字がばらばらになって逃げ出していくような錯覚に襲われるからです。
 本が好きなのに、読むことができない。どう頑張っても苦痛で仕方がない。世間の人たちは本を読めと言いますが、それが満足にできないことに罪悪感を覚えます。
 あんなに好きだったのに。
 私はもう本の世界には逃げられません。それが私の精神がここまで追い込まれた理由の一つです。

 話が逸れてしまいました。幼少期に話を戻します。
 昔は明るく人なつっこい子供だったのですが、いつからか、暗くてひとりぼっちで下ばかり向いている子供になってしまいました。
 学校からの帰り道は学校であったことの反省と、こうすればよかった、こんなことを言って嫌われてしまったかも、友達みんなに嫌われているに違いない。
 一人の帰り道はそんなことばかり考えて暗い気持ちになっていました。
 友達と一緒に帰ったときは、家に帰ってから一人反省会です。
 私はつい話しすぎてしまう性格で、相手のことを考えず一方的に話し続けてしまうタイプでした。それだから、家に帰るといつも、また話しすぎてしまったと後悔するのです。そして、相手に嫌われたに違いないと絶望するのです。

 家も安息の地ではありませんでした。
 私の親はよく怒鳴る人間でした。
 何のことで怒鳴られていたのかはもはや思い出せません。おぼろげな記憶を辿ると、私がだらだらしているとか、宿題を忘れたとか、遅刻したとか、忘れ物をしたとか、テストが満点じゃなかったとか、そのようなことだったような気がします。たくさん怒られていた気がするのですが、つまり私は上記のことをそれほどたくさんしていたということなのか……よく思い出せません。そうだったような気もします。
 とにかく毎日怒られていて、怒られない日の方が少なかったように思います。
 親は一度怒ると長時間怒鳴り続けます。私は耳が敏感なので、大きい音・うるさい音にはすくみ上がってしまいます。何を言われても小さくなるだけでした。

 叱責の中にはどうしてこんなことをしたのか、とか、反省しているのか、努力が足りない、という言葉がよく出てきました。

 どうしてこんなことをしたのか。
 やろうと思ってやっているわけではありません。どんなに気をつけても同じミスを繰り返してしまうのです。計画は立てられない、忘れ物をする、テストでミスをする。
 忘れ物の方は学校に物を置きっぱなしにすることで少なくなりましたが、テストのミスはどんなに気をつけてもなくなりませんでしたし、計画を立てられないのは大人になってもそのままでした。今でも計画は立てられません。

 反省しているのか。
 やろうと思ってやっているのではないのですから、反省しようがありません。そもそも、反省というのがどういうことなのかもわかりませんでした。
 わかりませんでしたが、いつからか、小さくなってしょんぼりした様子を見せれば反省したことになると思い込み、そうしてみせるようになりました。

 努力が足りない。
 それはよくわかりません。
 私には努力という言葉の意味がわかりませんでした。今は「嫌なことを我慢して無理にやる」という意味だと思っていますが、何だか違うような気もしています。けれどそれが世間的な真実であることは確かですし、世間の真実は私の真実としなければいけないのでやっぱりそれが正しいのだと思います。
 話が逸れました。努力が足りないという叱責への対処法の話でした。私は反省と同じように、頑張る……切羽詰まったふりをしていれば努力している風に見せられるのではないかと思い、いつからかそうするようになりました。
 そして、努力が足りないと言われることを見越して、怒られる度にもっと頑張るから、と言うようになりました。

 私は親を責めるつもりはありません。親には私含め三人も子供がいて、私の妹は足が不自由で歩けない上に全盲でした。介助が大変だったことは想像にかたくありません。
 でもそんなことはいっそどうでもいいのです。
 今問題にしていることは「私の」幼少期であり、親の事情がどうだとかそういったことは本筋とはあまり関係のない補足情報にすぎないからです。

 そのように、私は憂鬱な小中時代を過ごしました。
 高校に上がって、少しだけ環境が変わりました。
 話の合うクラスメイトがぐんと増えたのです。
 受験というものは人をそういった環境に置くものなのかもしれません。私以外にもそうなった人は多くいるかと思います。逆になった人もいると思いますがそれはまた別の話。
 クラスメイトたちとは話題も合い、会話下手の私でも会話を続けることができるようになりました。
 しかし、それまで友達ができなかったり無視されたりしてきた経験から「私は人から嫌われる人間である」「皆は私のことが嫌いである」という思い込みがあった私はなかなかクラスメイトに心を開くことができませんでした。
 話しかけられないと喋らない。誘われないと輪に入らない。一応あるグループには所属していたものの一人でいることも多くありました。
 グループのメンバーと同じ部活に入りたかったのを親が駄目と言い、一人別の運動部に入ったことも孤立に拍車をかけたように思います。
 今思えば、中学時代も同じことがありました。かろうじて仲のよかった友達と同じクラブに入りたかったのを親に駄目と言われて一人運動部に入ったこと。
 クラブでも部活でも私は孤独でした。周囲の人間を信用できず、また、運動が苦手だった私は周囲のレベルについていけず、常に底辺のお荷物でした。
 部活が終わる度にひどく疲弊するのも私はとても嫌でした。快い疲れ、なんてことは全くなく、ただでさえ疲れているのに長い帰り道に目を刺す蛍光灯の光や耳を刺す車の排気音・走行音や電車がレールをこする音、警笛、踏切音、ざわざわとした音が心を圧迫する雑踏にちかちかするたくさんの店の棚、心臓を締め上げるエスカレーターの駆動音、そして行き帰りの電車の中での××。
 何もかもが私を苛みました。
 部活での疲れと多々の刺激で家に帰る頃には動く気力もなく、親の怒鳴り声を聞きながら自分の部屋で、絶え間ない反省会をしながらラジオの音を聞いていました。
 長かった。勉強どころではありませんでした。

 卒業式に泣くこともなく、私は大学に進学しました。
 私は努力が大嫌いだったので、勉強をサボりにサボって遠い田舎の国立大学に行きました。
 努力は嫌いでしたが、勉強は好きでした。
 興味のある分野のことであればいくらでも勉強することができました。
 しかし、その効率はひどく悪く、少しでも気になるところや疑問点があるとあっちこっちと調べ始めて本筋から逸れ、教科書や参考書の数ページも読み進めないうちに深夜になってしまうといった具合でした。
 大学に上がってもそれは同じでした。
 遅々として勉強は進まず、先延ばし癖のせいで課題もレポートも終わらない。タスクが溜まり続けました。
 文化の違いも大きくありました。
 会話の基本スタイルが違っていて、私が喋ると皆は陰でひそひそと囁き交わしました。
 朝も起きられなくなりました。
 一人暮らしになって管理者のいなくなった私は目覚ましをかけても止めて昼まで寝てしまい、午前の授業の出席数がどんどん足りなくなりました。
 途中で親が呼び出されましたが、それでも私は変わりませんでした。
 下宿から大学までは徒歩一時間半ほどかかり、それも大学に行くのが嫌になった要因でした。
 大学に行ったってどうせ私を待つ者は誰もいないのだし。
 私は勉強もせず大学にも行かずに徹夜でゲームばかりして家に引きこもり、そして留年しました。

 何もかもが駄目でした。
 しまいには××が××され、××しました。
 ですがそのことはここには書きません。墓場まで持って行くつもりです。

 留年を重ねて休学した後復帰して、そこからはぎりぎりでしたがなんとか生きていくことができました。
 支えてくれる友達やいい先生と出会い、進学し卒論を書いて就活も終えて卒業、就職することができました。

 その後の人生はまた駄目でした。
 会社での配属先は一人も友達のいない大都会でした。
 朝は一時間半の満員電車に精神を削られます。ごみごみとした音や臭いやたくさんの違った人間の顔や形の違う服たちに目がちかちかして、会社に着く頃には感覚が疲れ切っていました。
 会社に着いても、人の喋る声やざわざわとした音、コピー機の騒音、耳を裂く電話の音に苛まれました。
 電話を取るのも苦痛でした。電話は取るまで何が起こるかわからず、誰が相手かも取るまでわからないし、応対しているときは相手を怒らせてしまうかもしれないという思いや、また、相手の名前も電話の内容も覚えようとするのにちっとも覚えられず、聞きながらメモを取ろうとしても、二つのことを同時にできない私はうまく取れず、駄目でした。
 電話が鳴る度に身をすくませました。
 あまりにも怖くて電話を放置し上司に取らせていたら怒られました。

 人の名前を覚えることも苦手でした。
 座席表をもらってそれを見ながら覚えようとするのですが、いつまで経っても顔と名前が一致せず、上司に注意されました。
 どう頑張ってみても無理でした。覚える気がないから覚えられないのかとも思いましたが、何を思おうが覚えられないのは同じでした。私は他者の名前を覚える気のない敬意の足りぬ失礼な人間であるという思いが強まりました。

 幼少期からの不信経験が尾を引いていたせいか、心許せる相手を見極められず、困ったことがあっても相談できませんでした。
 電話を取るのが怖いことも、人の名前を覚えられないことも、相談したら怒られるような気がして相談できませんでした。

 先延ばし癖や計画を立てられない性質も悪い方に働きました。
 仕事を締め切り通り終わらせることができず、ToDoリストを作るよう指導されて作ってみても締め切り破りは治りませんでした。
 いくつもの仕事を同時に抱え込んで、締め切りを延ばしてもらえるようお願いする電話をほぼ毎日かけていました。

 とある大事な仕事の締め切りが近付いていたある日、ここで死ねばあの仕事の締め切りを守らなくても怒られないとふと思いました。
 結果的に、私は死ねませんでした。道路に飛び込む直前に職場の人から挨拶されて、ここで死んだらこの人に迷惑をかけると思い、踏みとどまりました。

 そして私は休職しました。

 休んでも休んでもずっと疲れていて、寝ても寝ても眠くて、何をする気力も起こりませんでした。
 医者に行っても調子はちっともよくなりません。低空飛行のままただ生きるだけ。
 そのうち親はずっと寝ている私のことを叱責するようになりました。
 無理に起きて外に出かけてみたり、ボランティアをしてみたりして、少しはよくなってきたかと思ったのですがそれはまやかしであったように思います。
 つらさを抑圧していただけ。蓋をして心の底にしまっていただけ。
 結局、何をしても、何もかもが同じでした。
 心療内科に行ったり、公的機関に行って支援を受けたり、色々な障害が発覚して改善するためのトレーニングを受けてみたりはしたものの、世界から感じる圧迫感、心の苦しさ、うるさい音や呼吸や鼓動の気持ち悪さ、ちかちかする視界に利き過ぎる嗅覚やぴりぴりする皮膚感覚が変わるわけでもないし、先延ばし癖が治ったわけでもないし、朝起きられるようになったわけでもないし、身体の重さが取れたわけでもない。
 年齢的にもそろそろ老化で体力筋力思考力が落ちてくる頃でしょう。
 収入見込みは低く、副業しようにも感覚過敏がひどくてスーパーのレジ打ちもコンビニバイトもできません。
 一人暮らしをしようにも収入が足りず、怒鳴り続ける親から離れることもできません。
 状況はますます悪くなるばかり。悪い未来しか見えません。
 数日前まではそれを嫌だと思う気持ちもありましたが、今となっては何も感じません。ただただ心が虚ろです。
 どうやら生きる気力をなくしたように思います。元からそうありはしませんでしたが、私はゼロになってしまいました。

 先日休職期間が満了し、退職手続きに向かう前日にこれを書いています。
 長い電車移動をします。おそらくそのどこかで私は電車を遅延させるでしょう。
 家族にも周囲にも世間にも迷惑をかけますが、死んだ後のことなんて私が知るはずがありません。もういいんです。何もかも。空回りし続ける努力をやってみることに疲れました。

 もっと頑張れ、とか、努力が足りない、とか、お前より辛い人はたくさんいる、とか、私の方がずっと辛い、とか、お前より障害の重い人はたくさんいるとか。
 そういうことを言われるのにも疲れてしまいました。
 死ねば二度とそんなことを聞かずに済むようになります。世界からの圧迫感を感じることもありません。
 ようやく解放される。私はようやく救われるのです。

 色々な人に迷惑をかけて私は死んでいきます。
 この遺書はただの準備に過ぎず、ひょっとすると退職手続きを終えて実家に帰ってきても私は生きているかもしれませんが、これを書いている時点では私は解放される嬉しさに震えています。

 もっと頑張れとかもっと辛い人がいるとか、そういうことを私に言ってきた人を私が許すことはないでしょう。
 死んでも、この先生き続けるとしても、永遠に許すことはないでしょう。

 ここに私が生きたという記録と呪いを一つだけ、遺書としてこの世に置いて私は去ることにします。

 読んでくださってありがとうございました。

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