辻聡之『あしたの孵化』書評


             スティル・ライフ


 表現の計量の確かな歌集である。破綻がない。実は破綻してもおかしくないモチーフがときおり現れる。それが丁寧に隙間を埋めて仕上げられている。


 雨粒のひとつひとつを飛び降りる者と思えば街の凄惨    「菊戴」


 雨の降る速さと人の落下する速さは同じだろうか。そんなことは考えてみたこともなかった。雨粒の数は無数である。それを想像力で「ひとつひとつ」と捉える。飛び降り自殺は都会の事象であることにも気づく。おおよそビルの屋上から飛び降りるのだ。堪らない想像である。その想念にきつく蓋をするように「凄惨」の二文字はある。力技と言ってもよい。ここでは「凄惨」とまで言わなければ収まらなかった心を読みたい。


「若者の自殺を考える集会」テロップ十七音をあふれる  「スティル・ライフ」


 テレビを見ているのだろう。その集会を見守りながら心が騒いでいる。考えてどうなるのだ。解決策はあるのか。それでもまず考えるほかない。十七音は俳句形式を暗示している。つまり短詩型文学を表している。「若者の自殺」という問題は、短詩型文学の手に負えないと語っている。無念だ。しかも俳句形式に落とし込むと「若者の・自殺を考・える集会」と何とも締まらない句跨りになってしまう。下句も同様の句跨りだ。形式を緩慢に壊している。形式を賭けて「若者の自殺」に対峙した作品なのである。
「スティル・ライフ」は、第五十七回短歌研究新人賞の最終選考通過作である。石井僚一が受賞した時だと言うと「ああ、あの頃か」と思う人も多いだろう。蒼井杏、岡野大嗣、ユキノ進、山階基、工藤吉生、北山あさひ、フラワーしげるといった歌人と競ったのである。この歌集刊行までの辻聡之の確かな歩みが思われる。


 くらぐらと夜に雪ふれば雪の声つかまえており父の補聴器    「冬の蝸牛」


 しんとした良い歌である。雪の白さは、闇に沈んでゆくのだろうか。あるいは闇のなかで白さが際立つのだろうか。視覚的な想像力を刺激する。「雪の声」は特異な表現だ。雪は無音であるという常識を破っている。そしてさらに「つかまえており」と突き進んでゆく。どうなるか。破綻するのではないかと思うとき「父の補聴器」と仕上げる。難聴の父の哀れさを想う。寒い雪の夜だ。孤独感が深まる。そのとき「雪の声」も「つかまえており」も過不足ない表現として一首に落ち着く。父の生の希求という主題に届いているのだ。


初出:「現代短歌」2019年4月号

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