中島裕介に応えて(3)

 中島の短歌時評「ニューウェーブと『ミューズ』」は「問題として何より根深い」のは「水原に対して『ミューズ』という語を用いたこと」であるという。Twitterで、水原紫苑をニューウェーブのミューズだと発言したことは、時代錯誤の妄言であるというほかない。二重三重の錯誤がある。
 まず第一に、これは私個人の回顧であり、ニューウェーブの仲間たちには全く関わりのないことである。「フォルテ」同人の中で異彩を放った水原を「ミューズ」と言ったのは、その存在にインスパイアされたという個人的な思いなのである。それ自体、素朴な発想だった。そして「ミューズ」という語に対する人々の共通認識への理解がなかったのである。
 第二の錯誤は、安直にシュルレアリスムの「ミューズ」に結びつけたことである。どこに拠ったか。それは「オートマティスムのミューズ」という一枚の写真だった。ロジャー・カーディナル/ロバート・S・ショート/江原順訳『シュルレアリスム イメージの改革者たち』(1977年、PARCO出版局)所収である(P23)。十分検証した上での発言ではなかった。42年前の本であり、そこから共通認識が更新されていないわけがない。ちなみに、同書には「オートマティスムのミューズ」についての記述はない。写真が載っているだけだ。シュルレアリスムという精神活動の拠り所となった女性がいたと理解するほかなかった。そこに、ニューウェーブの活動との類似性を見出したのである。
 ところが、同じ写真がホイットニー・チャドウィック『シュルセクシュアリティ シュルレアリスムと女たち|1924-47』(1989年、PARCO出版局)では、ファム・アンファン(子供のような女性)として説明されている。「その若さ、純真さ、そして純粋さによって自らの無意識と直接的で純粋な関係をもつ魅惑的な存在、男性の道案内になることも可能な存在が、『自動記述』という題のもとに示された」(P55)というのである。強烈な印象を残すにもかかわらず、2冊の本にこの女生徒の服装をした女性の名前は示されていない。
 さて、「ミューズ」を禁止用語のリストに登録すべきだろうか。そういう表面的な態度は本質的によい方向へは行かない。大切なのは根っこを変えることである。全ての創作者に対等に向き合うことだ。私自身は可能だと思っている。そうありたい。
 シュルレアリスムは、今なお、多くの示唆を与え続ける豊かな源泉である。もともと、シュルレアリスム、1920年代の女性作家を社会や家族の因習から解放したのである。また、シュルレアリスムの女性作家は、一方的に抑圧されたわけではない。中島の引用した野中雅代『レオノーラ・キャリントン』(彩樹社、1997年)が語っているのは、レオノーラとマックス・エルンストの豊かな相互関係である。
「ミューズ」という語は、シュルレアリストの中でも変容している。『シュルセクシュアリティ シュルレアリスムと女たち|1924-47』によれば、アイリーン・エイガーのコラージュ『私のミューズ』(1936年)は「ミューズが外的な原理として存在することをやめ、内面化している。その作品からは自動記述の訓練に熱中することで、無意識のイメージへ歩み寄っている芸術家の姿が見てとれる。ミューズはもはや外的なメタファーではなく積極的で内的な創造原理の一部となった」(P265)というのである。これは例外的なものではあるが、今後も「ミューズ」という語が更新されていく可能性として捉えたい。 (続く)


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