グリンカード、俺の11年戦争(3)H1-Bさえ難しい。

この頃はデザインや UXの事なんてそっちのけでビザの事ばかり調べていました。あと少し、あと少しだけアメリカにいたいと思っていました。その他大勢の留学生の中から抜きん出るにはアメリカでの就業経験が欲しかったのです。

当時インターンから採用された会社はスタートアップであまりビザとかに詳しくありませんでした。だからすんなりサポートしてくれるといってくれました。弁護士やら色々費用がかかると思っていなかったようです。ビザサポートを始めようとしたときにデジタルアイランドというハワイ初のネットワークの会社に買収されました。その会社はサンフランシスコに本社がありビザ専門のHRもいて申請そのものは苦労しませんでした。

H1Bは専門職で、しかもアメリカ人の職を奪ってはいけません。デジタルアイランドはちょうど日本に支社をオープンしたばかりで申請するための会社の条件としては申し分ありませんでした。確かアメリカ人の職を奪っていないことを証明するために社内やジョブボードで仕事の募集をかけ、応募者がいなっかったことを証明しなくてはいけなかったと思います。これはグリーンカードの時もやりました。グリーンカードの時はお金を払って新聞広告も出しました。で当時会社はニュージャージーに移転していたのでニュージャージーまで新聞を買いに行きました。

今のようにソーシャルメディアが発達していない時代だったので情報はブルテンボードや弁護士からでした。H 1Bを申し込んでからも時間のかかることかかること。途中で追加書類を出さなくてはいけなくてその度に何週間も待たなくてはいけませんでした。

結局プラクティカルビザが有効なうちにH1は間に合わず、四月に切れてから六十日のグレースピリオドを経て七月から東京の支社に行くことになりました。私にとっては嬉しいことでした。ビザが取れて戻れるか不安でしたが今となっては楽しかった思い出です。

ビザが出るという報告が来たのは9月末だったと思います。十月から有効のH 1Bで六本木のアメリカ領事館にビザをもらいに行きました。面接です。分厚い書類持っていったのを覚えています。ポートフォリオも持っていったような。その時お隣にユニクロの社員でアメリカに行くという人がいたのを覚えています。

面接は将来日本に帰る旨を強調するように弁護士に言われた気がします。あくまでも仕事のためで永住の意思はないと。実際永住の意思はありませんでした。当時アメリカに永住したい女性が多く、家族のいない独身の女性は取りにくいという話も聞いたことああります。実際永住している日本人は女性が圧倒的に多い院ではないでしょうか。

ビザ面接して、確か後から郵送でパスポートにビザが張り付いて送られてきたと思います。当時はインターネットで進捗状況のかくにんなどできなかったので毎日ポストをチェックしてました。無事届いたのは一週間後くらいだった思います。早い、さすが日本と思ったのを覚えてます。

がこれからです。アメリカに戻って空港での入管があります。厚さ5センチほどのこれまでの申請書類を持ってスタンプを押してもらいました。緊張したのを覚えています。この後11年グリーンカードが取れるまでは毎回緊張でした。「別室」に行ったことも何度かあります。今思い出しても嫌な感じ。




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