豚キムチ2

おじさんの豚キムチおから

「お嬢ちゃんに、料理を教えてあげましょう」

ハタチのころ、千代田区にある会社でバイトをしていた。都心とはいえ、どの駅からも遠い住宅街の中の雑居ビル。さらにエレベーターなしの5階にある小さな会社だった。社員は全部で12名ほどいただろうか。

そんな小さな会社でも、派閥はあった。いや、少人数だからこそ1人1人の言動が気になってしまうものかもしれない。ともかく社内はKさんとTさんが大っぴらに競い合い、やたら徒党を組みたがるため、社員だけでなくバイトも「どちらの党に属するか」が重要な課題となっていた。

「どちらに敵対することも与することもなく、仕事をしたい」

そんな甘っちょろいことを考えていた時期が私にもありました。だが同じような環境に身を置いた人にはわかるだろう。派閥のある空間において「無所属」は決して許されない行為である。必ずどこかに籍はおかねばならない。それが嫌なら会社をやめるか、いっそのこと自分も人を集め第3の党を設立するか、それくらいのオオゴトなんである。

バイトを始めてすぐ、私はKさんに気に入られた。それはつまり自動的に、Tさんからは嫌われることを意味する。Tとは部署は違うから仕事は関わらずに済んだ。が、その代わり仕事以外のことでネチネチと言いがかりをつけられる毎日となった。

例えば、イカだ。

あの頃の私は、イカに凝っていた。イカは安くてうまい。どんなスーパーでも買えるし、和洋中何にでもあう。買うのはもっぱら安価なスルメイカだが、ゲソやエンペラ、それに大きな肝もすべて使いこなす新しいレシピの開発でいつも頭がいっぱいだった。それで休憩中にバイト仲間と「今日はどんなイカ料理を作るの?」などとイカ談義に花を咲かせることもあった。

Tはそれをこっそり聞いているのだ。

そしてわざわざバイト全員強制参加のBBQを企画し、なぜか大量の生イカを買い、私の前にトロ箱をドンと置き「全部きれいにさばいて。できるんでしょ、あんだけ自慢してたんだから」と言わんでもいい言い方をする。ハタチの女子大生に「自慢なんかしてません」と論破できるスキルも、「断る」というスキルもあるはずない。結局そのBBQは、イカをさばくだけで終わってしまった。

お昼時もTの攻撃はゆるまなかった。

会社の近くに店が少ないため、最初のうちはお弁当を作っていたのだが、いただきますのタイミングでTがのぞきにくる。そして私の弁当箱を見ては「ふうん、料理自慢ばっかしてるからもっとマトモな弁当かと思った」と意地悪スマッシュを決めて去っていく。それが嫌で、お弁当を作るのはやめてしまった。

だが外食になっても、Tの意地悪からは逃げられぬ。わざわざ「今日はどこで食べたのか」と問いただし、こちらが答えるとその店はイマイチだのマズイだのイチャモンをつけてくるからだ。なのでそのうち聞かれても全部「モスバーガーです」で通すようになった。モスはTの好物だったからだ。

そんなある日、お昼を食べに行こうとする私のところへTがやってきた。

「今から俺のランチを買ってきて。店は〇〇ね」

いやちょっと待ってください。その〇〇は知ってます。ここから15分はかかります。おまけに人気店でいつも行列ができているため、テイクアウトするだけでも20分くらい並ぶのはザラです。そこからまた15分かけて帰ってきたら、1時間しかない私の昼休憩がなくなってしまいます。

「そうだよ?それが何?」

じゃあ買ってきますけど、そのあと休憩とっていいですか?

「ダメに決まってんじゃん。昼休憩は13時まで。行列だろうが遅れたらその分バイト代から引くからね」

なんども言うが、ハタチのアホ女子大生には「論破する」「断る」というスキルはなかった。運の悪いことに、いつもかばってくれるKさんも、同じ部署の人も、ことごとく出かけていた(そもそも外出しがちな部署であった)。行くしかない。そんな時に限って行列も盛大に伸びていて、戻ってきたのは本当にギリギリだった。

...ハラヘッタ

やっと同じ部署の人が戻ってきたのは、もう15時近かっただろうか。さすがに呆れてTに苦情を言ってはくれたのだが、私の腹ペコは戻らない。近所に店は少ないし、もうランチタイムは終わっている。それでも「何か食べてきなよ」と1時間の休憩をもらって外へとでた。

とりあえず歩き出すと、すごくいい匂いがすることに気づいた。これは美味しい料理の匂いだ。どこからするんだろう。ふらふらと匂いをたどると、また会社に戻ってしまった。うん?意味がわからない。

注意深く社屋の周囲を調べると、我々が普段使っている入り口と反対側に、いかにも裏口然としたドアがある。「でもこれじゃないな」と立ち去ろうとするとドアが突然開き、そこが店、しかもすごくかっこいいバーだということがわかった。そしてドアから出てきたおじさんは私の姿を認めると「いらっしゃいませ。ランチはまだありますよ」と言ったのだ。

そこはいわゆる隠れ家バーだった。表からは全然それとわからぬ、知らないと入れない店。正式にランチ営業をしているのではなく、おじさんの賄い半分、常連さんへのサービス半分でやってるとのこと。なので店の雰囲気とはまるで違う、家庭的な日替わり定食ひとつしか選択肢はない。

しかしそのおじさんの料理が、私をトリコにした。家庭的ではあるが、ダサくない。高価な材料は使わないが、安っぽくない。ごくありふれた材料をアイディアとちょっとの手間で、なんとも気の利いた料理へと昇華させていた。

それからバイトのある日のランチは、ほぼおじさんランチ一択となった。他の人には教えない。おじさんの料理をひとりじめしたかったのだ。相変わらずTは意地悪でバイトは辛かったが、おじさんのごはんが待ってると思えば会社には来れた。そんなある時、おじさんが言ったのだ。

「お嬢ちゃんに、料理を教えてあげましょう」と

単なる気まぐれだったかもしれない。常連さんで賑わう日もあるが、閑古鳥も多い無聊を慰めるためだったのかもしれない。だがともかくおじさんはレポート用紙にボールペンで、今日の料理の名前、発想のポイント、作るコツなどを書いたものを渡してくれるようになった。

今日はそのおじさん料理から、豚キムチおからを紹介しよう。おからなんて年寄りの食べ物だと軽んじていた私に、大きなショックを与えてくれたものだ。おから嫌いな人こそ、ぜひチャレンジして欲しい。

【豚キムチおから】

おから 200グラム / 白菜キムチ(汁ごと) 100グラム / 豚肉(バラか肩ロース)100グラム / ごま油 大さじ1 / 青ネギ、醤油、めんつゆ等 適宜

おからが嫌いな理由の多くは「パサパサしているから」ではないだろうか。おからは非常に繊細で、パサパサとベチャベチャの間の「ちょうどいい」が実に難しい。そんなおからアルデンテをものにするには、油の量がカギとなる。多めの油を使うことが、この料理の唯一のコツだ。

フライパンに油を入れ、豚肉を炒め始める。豚肉とキムチはこの倍量(200グラム)くらいまで増量しても良い。豚キムチが多めの方が、おから嫌いも食べやすくなるだろう。豚肉の色がすっかり変わったら、おからを入れて一緒に炒める。

おから全体に油が回り、しっかり熱くなるまで炒めたら、キムチを汁ごと入れ、さらに炒め合わせる。ここで味をみよう。キムチだけで十分美味しければ、そのまま。味が薄い場合は、醤油やめんつゆで「美味しい」と思える程度に味を整える。味が決まったら、ネギを入れもう一度さっと炒めて出来上がり。熱くても冷たくても美味しいが、最も味がわかるのは「ぬるい」状態だと思う。お試しあれ。

おじさんの店に通えたのは、それから半年ほどの間でしかなかった。その後Kさんは独立することになり、私はそちらの会社へ移ることにしたからだ。最後の日に、おじさんは「餞別」と言ってマニキュアをくれた。そして驚いたことに、おじさんはおじさんではなく、おばさんだった。

めちゃくちゃくだらないことに使いたいと思います。よろしくお願いします。