熱い塩辛

全部で2万円

ご無沙汰しております。現在、初の書籍を出すに当たってすべてのネタをそちらに全フリしているため、なかなかnoteが書けません。ですが書籍でボツになった話があるので、しばらくこちらをお楽しみくだしあ!くだしあ!

何度も同じ話で恐縮だが、とにかく最初の結婚はロクなもんじゃなかった。離婚したというと、周囲からよく「離婚したいと最初に考えたのはいつなの?」と聞かれたりするものだが、それには必ず食い気味で「結婚式の当日」と答えていた。なんなら「結婚式が終わってお客様を送り出すロビーで」と詳細を付け加えたりもした。いや今思い出すとそれよりずっと前の花束贈呈のあたりだったかもしれない。いやいやもっと前の三三九度のときかもしれない。いやいやいやいや思い出せば思い出すほど、なんで結婚したのかわからない。気が合わなかったエピソードはごまんとある。当時の夫とも、周囲の人たちとも、およそ意見がバッチリ合うことはなかった。

中でも、義母とのエピソードは群を抜いて多い。たまに私は夫と結婚したのではなくて、義母と戦うためにあの地へ向かったかのように錯覚することがある。だって新婚の楽しい思い出より、義母との一進一退の思い出の方がはるかに多い。すでに輪郭が薄れてきた夫の面影と違い、義母のイジワルな笑顔は忘れたことがない。なんだかんだで離婚するまでには5年もかかったが、その5年はのちに「5年戦争」と呼ばれ、クロニクルにまとめられるべきものだったのだ。そのクロニクルが本著だ。ふむ。

何度も同じ話で恐縮だが、とにかく義母の望みは「息子と同居すること」であった。5年間、義母はずっと変わらなかった。ずっと「息子と同居したい」と願い続け、ただ悲願成就のためにのみ生きていた。毎日のように電話をかけてきて私に説教をする。さりげなく私のバイト情報を得て帰り道と時間帯を特定し、待ち伏せして街角説教が始まったりする。怖い。もちろん週末は実家に呼び出しだ。これだけ会ってればもう同居してもしなくても同じじゃないかと思うのだが、それは彼女には通用しない。そして私と会って、私に説教するよりも、息子と会って、息子を説き伏せる方が早いのではないかと思うのだが、彼女の作戦は変わらない。息子に面と向かって同居を否定されても認めず、同居できない理由は嫁にあると信じている。嫁は本能寺にありとの考えは、最後まで変わることはなかった。

そんな「同居への渇望」が最高潮に達した時、その事件は起きた。

ある日いつものように義母からの電話を取ると、まるで声が違う。ウキウキなんてもんじゃない、喜びが爆発しているのだ。どうやら何かとてもいいことがあったらしく、嬉しさのあまり過呼吸になりそうな勢いで「いずみさん! 安心して! もう大丈夫」と意味不明なことを叫んでいる。

「もう汚いものはないから! これで一緒に住めるから!」

いったい何を言っているのかわからないが、頭の片隅でイヤな予感が体を起こし始める。電話の向こうからは「いいから、いったん電話を切れ! ちゃんと説明しろ!」と義父の怒鳴り声が聞こえる。基本的に義父には逆らわないはずの義母が、それを無視して「一緒に住める!」を連呼する。おかしい。ヤバい。何か、大変なことが起きている。だいたい「汚いものはもうない」とは、どういう意味なのか。それはとても恐ろしい話だった。

ある日「この辺を回ってご挨拶をしているんです」と、にこやかな男性が家にやってきたという。なんの仕事をしているのかはわからなかったけど、近所の人の名前を次々とあげるので安心して家に入れた。なんとも和ませる話し方をする気持ちのいい人で、世間話をするうちにみるみる義母は打ち解けてしまったらしい。

2回めに男性がやってきたとき、義父はちょうど隣町へと用事で出かけていた。1人で応対した義母は、相変わらず楽しい世間話にすっかり気がゆるみ、自分でも気づかぬうちにするすると自分のこと、家族のこと、毎日の暮らし、そして今とても悩んでいることなどを話してしまった。義母が今とても悩んでいること...そう、それはもちろん「同居したいのに、嫁が反対しているからできない」という例のアレだ。おそらくありったけの感情を込めて、こんなに自分が努力して、譲歩もしているのに、あの嫁のバカタレがまったく、まっったくいうことを聞かない! 辛い、苦しい、いったいどうしたら...と、切々と訴えたことであろう。

男性は言った。

「奥さん、この家には古いものがたくさんありますね。イマドキのお嫁さんは、こういうのを嫌がるんです。こんな古臭いガラクタだらけの家に、若い人は住みたがりませんよ」

「よし! これも何かの縁だ。このガラクタ全部、私が掃除してあげましょう。キレイになった家を、お嫁さんに見せてやりましょうよ。そうしたらもうあっちの方から、一緒に住みたいって言ってきますよ」

義実家は代々続く、大きな家だ。風呂が3つ、トイレは5つある。そのうちひとつは薪で炊く五右衛門風呂だ。古い建物は残したまま、新しく増築を重ねるやり方をしてきたため、同じフロアなのに段差があったり、思わぬところに小部屋があったりする。白眉はふすまを開放すれば50畳もの広さになる続き間で、昔から結婚式や法事やらの人寄せは自宅で行なっていた。

さらに義父の「いい家というのは、一階に多くの部屋があり、二階にはせいぜいふたつしか部屋がない家のことだ。だからこの家の二階は、ふたつの部屋以外は潰して物置にした」というポリシーにより、二階には100畳あるという広大な物置があった。つまり、一階の広間で宴会をやるためのお膳やら器やらお道具やらは、全部その物置にしまわれていた。それをその男性に「ガラクタとして」見せた。

慶事の際に餅つきの真似事をしたという、本塗りのウスとキネ。100人分はあったという本塗りの箱膳、そして同じだけのお椀や盃などの小物類。誰が使ったのかもう定かではない大昔の雛人形や、鎧兜セット。掛け軸や花生けなどの調度品。さらに彫刻が気に入った誰かが取って置いたものか、なぜか欄間が外して置いてあったという。義母が思い出せただけでもこの通り、めまいのする量だ。その一切合切を、くだんの男性がありがたくも「掃除して」くれたというわけだ。

しかしこれは詐欺ではない。一応の礼金として義母は2万円を受け取っているし、何より喜んで「掃除」をお願いした。同居できない絶望の淵にいた義母の前に垂らされた蜘蛛の糸、それが物置の掃除だ。その申し出に義母が飛びついたであろうことは、容易に想像できる。男性の正体は、田舎の年寄りと仲良くなり、激安で骨董を仕入れる悪徳業者であろう。だが義母をはじめ被害者たちはきっと、騙されたなんて思ってないに違いない。話を聞いてくれて、悩みを解決してくれて、家までキレイにしてくれる。ちょっとしたお小遣いもくれた。なんていい人だとしか思ってないだろう。

義母も幸せの絶頂にいた。何しろこれでやっと、同居ができるはずだったのだから。しかし家が急に片付いたことに疑問を抱いた義父に問い詰められ、事の次第が露見すると、事態は暗転した。平日の夜だったが我々も呼び出され、緊急家族会議が開かれた。どなる義父。ののしる息子。なんともいたたまれなくなった私はそっと二階へ上がり、物置をのぞいてみた。そこにはなぜか、いかにも慶事にふさわしく鶴と亀が蒔絵で描かれた蓋つき椀がひとつだけ、ポツンと残っていた。それは「見ると思い出すから」と義母が嫌ったので、私のものになった。息子は私と離婚後も、とうとう同居はしなかった。

塩辛ほぼ完成

【レシピ】
料理にコンプレックスを持っていた義母は、できれば嫁も料理下手であってほしいと願っていたに違いない。最初の頃はやたら息子に「いずみさんはどんな料理を作るのか」を聞いてきた。母親の真意がわからぬ息子は、平然と母の知らぬ料理名を告げ、それがすごく美味しいことを自慢していた。ある時もう義母はガマンできなくなったのだろう。「そんな凝ったもんばかり作るのは良くない」と突然叱ってきた。その料理が凝っているとは今でも思ってないが、いまだによく作る料理である。何かとお高い魚介類の中にあって、イカはまだ安いので、新鮮なイカを見つけたらぜひお試しいただきたい。私の命名は「熱い塩辛」である。

スルメイカ 1パイ/ニンニク ひとかけら/オリーブオイル 大さじ1〜/塩 適宜/輪切り唐辛子 少々

イカ

塩辛の名の通り、イカの肝がキモだ。なので肝が充実しているスルメイカが適している。イカはゲソを引っこ抜くときに、一緒に内臓も付いてくるので、茶色い肝を取っておく。トンビと呼ばれる口に付いている黒いクチバシと、背中の透明なナンコツ、目玉は食べられないので取り外す。ゲソの吸盤は包丁でそぎ落とす。胴体は輪切り、ゲソは食べやすい大きさに切る。肝は切れ目を入れてそこから中身をこそげるか、面倒なら輪切りで良い。

イカ分解

フライパンに叩き潰したニンニクを入れ、オリーブオイルを注いだら火にかける。いわゆるアリオリペペロンチーノの序章と同じやり方である。ニンニクがほんのり色づき、いい匂いがしてきたら好みで唐辛子を入れる。唐辛子が焦げないうちにすぐ、イカのすべてを投入し、ザクザクと炒めていく。肝が溶けてソースのようにまとわりつき、イカがプリッとしたら軽く塩を振って出来上がり。あまり熱を入れすぎると固くなるので注意。冷めても美味しい。

めちゃくちゃくだらないことに使いたいと思います。よろしくお願いします。