誰かの間違いは

息子は今年11月で六歳になるが、日中、
トイレまで我慢できず、
おしっこを少し漏らしてしまうことが
今だある。
当然のことながら、
おねしょも克服できておらず、
寝る前には必ずおむつを履かせ、
寝かしつけている。

その日も息子は寝る前にトイレに行き、
ベッドの上でおむつに着替えていたが、
何か隠しているようにこそこそしている。
丸めたちいさな背中ごしにのぞき込むと
「せんたくものにいれてくる」と言って、
普段は自分でしないのに、
脱いだパンツを持って、寝室を出て行く。

そのパンツには、おしっこが
ほんの少し滲んでいた。

トイレで用をたした際に、
ただついてしまっただけなのかもしれない。
普段うるさく言い過ぎていることを思い返し、
隠し事をさせてしまった息子に対し、
どこか居心地の悪い心苦しさを感じる。

隠し事をもつということ――
隠される側にその原因があり、
それに気づかずに見過ごされる場合、
隠し事をした本人に
劣等感と罪悪感を抱かせるだけの
純粋さ、繊細さが失われずに
備わっているのであれば、
この地平にあらわれる孤独ほど
愛を渇望するみじめさに汚れた対象は
ないのではないか。

倫理は隠し事を許さない。
倫理は、個人の側ではなく、
普遍(一般)の側に属するものであるため、
本来的に、感情が親しく付き合うのを許さない。

大人子どもにかかわりなく
誰だって怒りの感情に触れることは、
嫌なことだ。
ただ、言葉では言いあらわしえない繊細さを
もっている人にとって、
倫理感を失うことは、
もっと嫌なことであり、
もっとも表現しがたい耐えがたさに
襲われてしまうのであろう。

間違いは決して隠されてはいけない――
その地平における黒い落とし穴、
生来の純粋さ、繊細さにつけこみ、
間違いじゃないことを、
間違いだと思わせる
怒り、憎しみ、妬み、
それらの感情はすべて、
個人の正義を増長させる
軽蔑に値する卑劣で不潔なエゴイズムだ。
間違いなことが間違いじゃなく
間違いじゃないことが間違いなことになる、
倫理がもっともおそれる地平、
片足、知らず知らずつっこんでいた、
それが自分の心苦しさの正体だった。

誰かの間違いは、
また別の誰かの間違いを誘発するという
負の側面を持つものの、
誰かの間違いは、
誰かの優しさ、誰かの思い出、誰かの未来を
引き出し、
そしてまた、見知らぬ誰かを救い、
良い方向に何かを導く。

リアルタイムに展開する吉本興業における
闇営業問題が、良い方向に収束してほしいと
願っている自分がいる。
自分は詰まるとこ、誰かの間違いに
自分の間違いの救いを求める
最も卑劣なエゴイズムだ。


寝る前に読み聞かせる絵本をいつもより、
一冊多めに読む。
自分の間違い、声なき息子に叱ってもらう。
自分には結局、それくらいのことしかできない。

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