読書メモ 3「創造的進化」

 ベルクソン「創造的進化」を読む。
「無秩序」という言葉を捉えるにあたり、
著者の強烈なワンツー、
二十世紀初頭の、時間軸を突き破り
紙面から飛び出してきたパンチライン。


「無秩序の観念は精神が自分の要求に外れた秩序にぶつかって、これは今のところ自分の関知しない、その意味で自分にとっては存在しないものだ、と知ったときの失望を言語の便宜のために客体しただけのものとなる」


「無秩序の観念ははじめある秩序の欠在を、それも他の(念頭におく必要のなかった)秩序のプラスになるように書きとめていた」

ベルクソン「創造的進化」

無秩序という観念は、言うなれば、
自己陶酔からこぼれる酒臭いため息。


 ベルクソンの「無秩序」の考察――
自分と息子、ありきたりな親子劇に、
ぼんやりとあてはめてみる。

 保育園から帰宅してすぐ、
遊ぶことに夢中になり、
夕食の準備ができてもやめられない息子に
「やることをやってから好きなことをしな」
と諭す。
こうして自分は、
息子にひとつのべたな規則をあてがう。
「これがおわったらやるから」
息子の抵抗を鼻で笑う。
過去の事例を振り返るものなら、
キミの発言には信憑性がないんだ。
口の端を歪め、ため息、短めのをひとつ。
これが「キミはいわゆる無秩序だ」
という失望(A、種なしの堕胎)であり、
その裏で自分の、いや、
ありきたりな秩序の正当性、
その確信を深める
(B、限りなく透明に近いブルース)。

 「やるべきことをやってから」という
自分のあてがった規則には、
標準時間軸のコントロールが念頭にある。
その目的は
「明日の朝、きちんと起きて
 時間通り保育園に向かう」ためにあり、
日常生活の秩序を保つために
仕える規則であると言える。
それはあまりに正しすぎて、
普通ならぐうの音も出ない、
はずなのに、
息子は逆上したまま遊び続ける。
5歳、エリック・ホッファーの呼ぶところ、
あまりにまぶしすぎて「ゴールデンエイジ」、
息子の手の中で暴徒と化した黄色いピカチュウ、
ダイニングチェアに鎮座する秩序は不動明王、
サラダの緑を食む父の無防備な首筋に走る
頸動脈を深くえぐり、
膨れた下唇に震わせる「ぶしゅぅっ」という
水っぽい効果音、
「黄色いキリスト」、「緑のキリスト」を経て、
染める「白いキリスト」、
敗北の弧を描く美しき秩序の血潮。
ゴーギャンすら筆折った「赤いキリスト」は、
フロイトの言うところの「父殺し」の写像。
施す仕上げのZ技、
規則の頸椎に百万ボルトの強電麻酔。
これぞ「創造的進化」の実写版というとこか。

 ベルクソンの言うところによると、
自分が息子に押しつけている秩序というものは、
「目的性」に従事している、
どうもそういうことらしい。

「目的性というものをあらかじめ思念されたあるいは思念されうる理想の実現と解するなら、生命は目的性をこえる。つまり目的性の枠は総体としての生命にはせますぎる」
ベルクソン「創造的進化」

 超えゆく生命、か。
「エラン・ヴィタル」というムズ痒い響き、
著者の肉声で聞いてみたいと思ったが、
その哲学者はYoutubeの埒外だった。

括弧付きの大人になるということは、
行為において「目的性に従事する」ことを
多分に含んでいる。
あまりに正しすぎる。
「大人になるってのは限界を知るってことでしょ」
どこかの病棟から、大人になりきれない患者の
あざ笑う声が聞こえてくる。
そして、
秩序も大人も否定しない地平に輝く
ベルクソンの優しい三白眼。

 自分の秩序を肯定する際、
知らず知らず「無秩序」という
あるはずもない観念を他人に擦り付けている。
自分が息子に押しつけているあらゆる規則は
仮初めで無自覚な一般則の集合であり、
もしかしたら水平の時間軸に
抗うこともなく屈した
自分の惰性からにゅっと押し出され、
可塑性を失ったつまらない観念群で
あるのかもしれない。
生活の円環運動、つまるとこ凡庸の勝利。
地球の自転と公転、尽きることのない
引力と地軸の惰性。
スリー・イズ・マグネティックナンバー。

 いつか息子に全否定されることを、
逆説的ながら親としては息子の個別性に期待し、
その強烈な一撃に自分はそのとき
ちゃんと壊れて、
またつくりかえなければいけない。
ベルクソン著「創造的進化」、
その軽やかさに潜む重苦しさ、
しかしつらいだろな、それは、
究極の苦痛であるはずなのに、
なぜだろうか、
不思議と究極の楽しみでもある。

「或阿呆の半生」「人間合格」と
自虐したくなるような、今、今。
たまには誰かにくそみそに否定されたい、
そんなお年頃のせいなのかもしれない。
そう、自分はそのときちゃんと壊れて、
失われた主義の構造に
ブリブリのブリコラージュ、
またいちからつくりかえたい、
そんな無目的性へのあこがれから、
よぎるのは龍門鯉魚図、
水平軸にたゆたう尾ひれ背ひれの傍ら、
垂直軸に抗う鯉の真一文字の脊椎、
その切っ先のベクトルのすばらしき盲目性――
待つまでもない、壊すなら今か、
とも思いつつ、
秩序を演じるのは息子のためか、
という自己犠牲を賭した
大人すぎるためらい。

そう、
無秩序という観念は、言うなれば、
自己陶酔からこぼれる酒臭いため息。

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