ヘビにかまれたこと、ありますか? その4

「その3」はこちら ↓


「慕い仕えていた者と奏でる楽の音が
 次第になりをひそめ、
 他の美声に重ねはじめたその声が
 より美しく響き合うように聞こえる
 ――思いがけず訪れた宿命が、ナハシュの耳に
 不幸な客観性を与えるとき、
 その音楽を耳から掻き消すに、
 やむをえず生み出した不協和音が、
 嫉妬という歯ぎしり
 ――みずからの唇の内側に秘められる
 醜い摩擦音であったとしたら…。


 ありふれた倫理感情だけではさばききれない
 なにか胸をかきむしられるような行為が
 物語として語られるとき、
 それは悲劇とかたづけるには、足りないような、
 わたし、ぜんぶがぜんぶ、簡単に、
 ぽんと肩をたたいて見送られるみたいに
 その二文字でくくられてしまうの、
 どこかに不憫を感じてしまうんです。


 わたし、ちゃんとくみとれてるかなって、
 思ってしまいます。

 聖書の物語のなかにさえ、そんなもの、
 悲劇のほうじゃなくて、
 その不憫さみたいな何かを
 織り込みたくなってしまうのは、
 わたしが女性だからでしょうか?
 それとも、
 わたしがわたしだからでしょうか?
 そんなこと、


 …いえ、続けてもいいですか?


 ナハシュのかみ殺しきれなかった
 赤黒い歯ぎしり、
 それはあの優れた知性を蝕みはじめ、
 彼女の舌を狡猾の色に染め上げてしまいました。


 『人がひとりでいるのはよくない』
 神さまのつぶやきは、
 アダムにふさわしい助け手、
 イブに実を結びました。


 ナハシュが背負った孤独は、
 その副産物だったのです。


 『罪の肌着』、そんな言葉、
 聞いた事ありますか?


 わたし、このナハシュの物語を思いだすたび、
 みじめな感傷が染みついているような、
 そんな言葉が、
 薄汚れたぼろの肌着が、
 不思議な肌触りのよさとともに
 なぜだか思いだされるんです。


 一体をなしていたものどうしが、
 何かをきっかけに対象として分離されるとき、
 そこに生じた隙間にあらゆる色水が
 とめどなく染みこんできます。


 このとき、
 ひそかに距離をおき
 相手を対象として扱う側は、
 その相手側におのずと罪を背負うものです。


 なぜって、前者は、
 横並びで一体だったものを縦軸に分離し、
 必然的に対象の上に立とうとするからです。


 ナハシュにはきっと、全部わかっていました。
 自分が犯している罪と、受けるべき罰とを。
 その過程に必要とされる許しがたい手段、
 その行使の卑劣さの自覚に怯えながら。


 ――自分の思いに嘘はつけない――


 それは
 ナハシュの美しさの一部であり、
 ナハシュの醜さのすべてでした。


 彼女はアダムを対象としたとき、
 埋め合わせに嫉妬という色水を
 流し込んでしまいました。


 そしてみずから刻んだ傷口が
 次第に辛さを増す色水の浸食に
 いよいよ耐えきれなくなると、
 喀血のように濁った感嘆詞に喘ぎながら、
 人間に、その創造主である神さまを
 対象とするように仕向けたのです。


 ナハシュの弱さにより十分に養われた狡猾は、
 その引き金として、
 彼女の嫉妬の源泉であるイブを、
 迷わず選び出しました。


 エデンを賛美した唇と舌、
 色と潤い、かつての鮮やかさは、
 ナハシュから失われていました。


 智慧の実は、ナハシュの嫉妬の色に
 艶めいてはイブを誘い、
 無花果の葉は、やがて枯れ、
 狡猾の色に墜ちます。


 日没の風に果てたその落ち葉を踏みしめ、
 神の足音は二人に近づいてきたのです。


 神の訊問に、アダムはこう答えました。


 『あなたがわたしのそばにお与えになった
  あの女(イブ)が樹から取ってくれたので、
  わたしは食べたのです』


 このとき、わたしがナハシュだったら、
 アダムに再び忠誠を誓うため、
 神さまの足首に噛みついてみせたでしょう。


 アダムの優しい狡猾に、
 ヤハシュの耳が重ねた苦悩が、そのとき
 ようやく救われたのですから。


 ヘビの醜さは、
 ナハシュに残されていた美しさに対する
 神の呪いなんです。


    彼はお前の頭を踏み砕き、
    お前は彼の踵に食い下がる。


 人間とヘビ、人間と悪、
 その果てしない戦いは
 そのようにあらわされます。


 『これはね、わたし、
  美しさと醜さの罪のない関係性をあらわす
  最上の表現なんだって、信じてるの』


 おかあさん、
 わたしのおかあさんは
 そう言っていました。
 人間とヘビ、人間と悪では
 ちゃんとした対句になれないって。


 脱皮しても、脱皮しても、
 醜いままでいられるというのは、
 それもまたひとつの美しさだと、
 そう思いませんか?


 わたしが、おかあさんを
 ひとりの女性として、
 色彩のない対象として見ていたとき、
 字義どおりの狡猾と、美しい狡猾、
 ふたつあるって、教えてくれたのが、
 おかあさん、
 わたしのおかあさんでした。


 ふふっ。

 あ、ごめんなさい。

 『おかあさんがひとりでいるのはよくない』
 って言葉がふと、たった今、
 わたしの声で聞こえてきたんです」



ー続ー

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