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獄中14142日、老死刑囚の遺体はまるでキリストのようだった|帝銀事件・平沢貞通

1948年1月26日、帝国銀行椎名町支店に現れた男が「赤痢の予防薬」と称して行員やその家族に毒薬を飲ませ、計12人が死亡した。同年8月、テンペラ画家平沢貞通を逮捕。55年5月には死刑が確定しているが、39年もの間死刑執行されぬまま、肺炎を患い獄中で病死した。
週刊誌記者として殺人現場を東へ西へ。事件一筋40年のベテラン記者が掴んだもうひとつの事件の真相。報道の裏で見た、あの凶悪犯の素顔とは。

戦後最大の冤罪事件か

 1985年5月、わたしは一人の死刑囚の終焉を取材するために連日、八王子医療刑務所の正門前で張り込みをしていた。当時隆盛を極めていた写真誌やテレビ局のカメラマン、記者が95歳の老人の死を待つという異様な状況だった。
 平沢貞通、世にいう「帝銀事件」の死刑囚である。

 帝銀事件とは、戦後間もない1948年1月26日、東京都豊島区の帝銀椎名町支店の銀行員ら12人が殺された大量毒殺事件である。
 この事件の容疑者として逮捕されたのが、画家の平沢貞通(当時56)だった。一旦は犯行を自供したものの、公判では一貫して無実を主張した。しかし、1955年5月、最高裁で死刑が確定してしまう。それでも平沢は獄中から無実を叫び、再審を請求した。作家の松本清張ら文化人が支援に乗りだし、また映画化されるなど、帝銀事件は日本だけでなく世界が注目した。

裁判中の平沢貞通

 小樽市出身の平沢を、ほとんどの北海道人は真犯人だとは思っていなかった。わたしは物心つく前から「平沢さんは殺っていない」と母親から聞かされていた。記者になったのも、平沢に会いたいがためだったのかも知れない。その平沢貞通が、肺炎を悪化させ危篤状態に陥ったのだ。
「平沢の近影を撮れ」
 デスクに命令されたわたしは、医療刑務所が見渡せるマンションを探し、住民にお願いをした。
「お宅の窓から刑務所が見えますか」
「この前も同じことを言ってきた記者がいましたね」
 各社、考えることは一緒だった。今思えば、法務省がこの有名人を人目に晒すわけがないのだが、一縷の望みを抱いたのである。平沢貞通の養子になり、現在再審請求人でもあった平沢武彦氏(故人)が当時を振り返って語った。
「主任弁護人だった遠藤誠さんが首からカメラをぶら下げ、『監獄法に写真撮影を禁止する項目はない』と刑務所の庶務課長に詰め寄りましたが、許可はされませんでした。代わりにわたしがベッドに横たわる姿をスケッチしたのです」

 5月10日午前8時過ぎ、平沢貞通の死去が報じられると医療刑務所に続々と報道陣が集まり騒然となった。平沢の遺体は、杉並区今川に用意されたアパートの一室に運ばれ通夜が営まれた。武彦氏の計らいで、わたしは平沢貞通と対面ができた。白髪は肩まで伸び、30キロまでに痩せ細ったその姿はキリストに似ていた。獄中1万4千142日を耐えた強靱な意志をわたしは感じた。

 歴代33人の法務大臣は、何故か死刑執行命令書に判を捺さなかった。12人を瞬時に殺害する手際の良さが一介の画家に出来るものか。犯行に使われた毒物をどこから入手したのか。謎は多かった。死刑判決を下した東京地裁は犯行動機に「経済的苦しさ」をあげた。武彦氏が言う。
「逮捕当時、平沢は13万5千円を所持していました。そのうち8万円の入手先が弁護側も説明できなかった。しかし、『わたしは平沢先生に春画を描いてもらい相当なお礼をしました』という女性の投書が読売新聞にあったのです」
 この8万円の出所がはっきりすれば死刑判決は根底から崩れるはずだった。
「当初、平沢は一流画家としてのプライドなのか春画を描いたことを認めなかった。しかし、わたしの実父が『ある人物に頼まれ、歌麿と清重を模して十二ヶ月に分けた春画を描いた』と平沢から聞いていたのです」

 2000年春、あるといわれていた春画の存在が突然明るみに出た。武彦氏とわたしは故郷小樽市の豪商を訪ねた。最初の梅の花は平沢が得意としていたテンペラで描かれ、素人のわたしが見ても平沢の筆致だった。
「この絵巻を初めて見たときは足の震えが止まりませんでした。これが幻の『祕画十二ヶ月』だったのです。その後、ほぼ間違いなく平沢の絵だと鑑定されました。全国から次々と平沢の春画が見つかっており、再審の新たな証拠として提出します」(武彦氏)
 事件発生から76年、「戦後最大の謎の事件」に終わりはない。

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小林俊之(こばやし・としゆき)
1953年、北海道生まれ。30歳を機に脱サラし、週刊誌記者となる。以降現在まで、殺人事件を中心に取材・執筆。帝銀事件・平沢貞通氏の再審請求活動に長年関わる。